モンスター・イン・ザ・クローゼットのレビュー・感想・評価
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過去を裏切り 受け手を裏切り
クローゼットから突如現れた化け物がアメリカ中を恐怖のどん底に陥れるZ級パニックホラー。溢れ出んばかりのトロマ臭がすると思っていたら案の定ロイド・カウフマンが制作に絡んでいた。
そもそもこういう類のモンスターパニック映画というのは化け物の造形がよければそれだけでもう及第点なのだが、本作はグロテスクで魅力的なモンスター造形を凌ぐほど物語が面白い。
序盤の『サイコ』のパロディシーンを見ればわかる通り、本作はホラーというジャンルに対するシニカルなメタを物語の基調としている。ただ、それは単に映画の既存コードをそのままひっくり返したような単純なものではない。
『サイコ』のパロディシーンでいえば、まずシャワーを浴びている女に怪しい影が忍び寄る。そして勢いよくカーテンが開く。するとそこに立っていたのは彼女の夫だった。これだけであれば『サイコ』の「ひっくり返し」でしかないが、本作ではこのやりとりがあと2回続く。しかも結局最後までカーテンの向こうから化け物は現れない。それどころか、化け物に襲われるのは夫のほうなのだ。
登場人物の人物像に関しても同様のことがいえる。非科学を認めない堅物で、息子のヴィーガン教育に熱心な生物学教授の女や、ややマッドサイエンティストじみた天才老博士など、いかにもB級ホラーの餌食役におあつらえ向きな人々が多いのだが、彼らが辿る運命もまた我々の予想をスルリとすり抜ける。生物学教授の女は主人公のよきパートナーとなり化け物退治に尽力するし、老博士は化け物との対話に失敗して命を落としてしまうものの、主人公たちに化け物退治の有効なヒントを残す。
極め付きはぶっ飛んだオチだ。これを予想できた人はおそらくいないんじゃないかと思う。おおかたの人が生物学教授の女の息子が造った音波増幅装置で撃破が関の山だろうと踏んでいたのではないか(私もそうです)。
そもそもこういう類のバカバカしいモンスターパニック映画はタイトルやプロローグで「どういった状況下でどういったことが起きるのか」を丁寧に概説しつつも中盤以降はそれらの設定はほとんどなかったことにしてメチャクチャやるというのがお約束だ。しかし本作はむしろ当初の問題設定に回帰する。
化け物にはいかなる武器も効かない。しかも神出鬼没で場所の特定ができない。そのとき生物学教授の女は老博士の遺言を思い出す。「全てを壊せ」。何を?それはもちろんクローゼットだ。本作のタイトルを思い出してほしい。『モンスター・イン・ザ・クローゼット』。この化け物はクローゼットが存在するがゆえに存在している。すなわち世界中のクローゼットを破壊すれば化け物は衰弱するに違いない。メチャクチャな論理ではあるのだが、「押入れの中の怪物」という主題を忘れていたのは我々も同じなので反論するにもばつが悪い。
「起きていることをありのまま受け止めるのです。そして世界中のクローゼットを一つ残らず破壊するのです」と民衆に語りかけるのが、かつて科学信仰者だった生物学教授の女から発せられるというのもいい。
そんでもってこのオチさえも二段構えになっている。化け物は終盤でなぜか主人公をさらっていくのだが、その理由が最後に明かされる。それは主人公の顔が美しかったからだ。化け物はさっさと異次元にでも逃げ込めばよいものを、主人公にかかずらっていたせいで脱出の機を逃し、そして自滅した。
「科学や宗教といった合理主義」vs「目の前の現実をそのまま受容する非合理主義」という等式がようやく析出したかと思いきや、暴力的なまでに圧倒的な美なるものがそれらを一切合切破壊し尽くすというとんでもないピリオドの刻み方だ。
シニカルなメタ映画としての矜持は保ちつつも、受け手にやすやすと消費させない変幻性を秘めたメチャクチャ出来のいいZ級映画だった。こういうのがごくたま~~~にあるからクソ映画発掘はやめられない。
『後に名を成す方々のいたいけな姿』
自宅にて鑑賞。カリフォルニア州はサンフランシスコのチェストナット・ヒルズを舞台に繰り広げられるジュブナイル寄りのコメディタッチなモンスター・パニック。勿体ぶった演出や仰々しいBGM等、徹底して往年のホラー映画を髣髴させる作り。終盤には西洋人の思い描くステロタイプでサイケな出で立ちの侍が登場する。六分に満たないエンドロールが異様に長く感じた。サラッと観れる反面、殆ど何も残らないが、そもそもエンターテインメントとはそれで良いのかもしない。大真面目に作られた莫迦げたモノがどうしても嫌いになれず、恐らく本作もその一つなのであろう。65/100点。
・我国では馴染みが薄いが、ウォークインと呼ばれる広めのクローゼットに魔物が潜んでいると云う西洋(特に米国)では、ポピュラーな都市伝説を基にした物語。この都市伝説は『クジョー('83)』でも採り上げられておりおり、特にS.キングの原作版では登場人物のトラウマの一つとして大々的に描かれている。大口から別の顔が飛び出すクリーチャーは、度重なる重火器による集中砲火をものともせず、物理的ダメージをほぼ受けない、何故か内股気味で傴僂な姿勢のユーモラスな外観をしており、悶える様な嗚咽に似た啼き声が独特である。
・意味有り気でネタバレ気味なナレーションにてデルタ・フィ・ピ女子寮からスタート。いきなり盲導犬を虐待っぽく扱う全盲の粗暴な老人。お世辞にも上出来とは云い難い演技の子供達。他にも色々難はあるが、本作の様なのに限って、然程気にならないのは、頭の中で何等かのフィルターが掛かっているからなのかもしれない。
・冒頭のテロップで表記される4月21日が水曜日であるならば、次に表記される5月16日は(同年であれば)水曜日ではなく日曜日の筈であり、必然的に5月18日は金曜日ではなく、火曜日でなければならない。
・“ペニーワース(直接関係は無いのだろうが、この名前はS.キングの代表作に登場する有名なピエロを想起させる)”博士を演じるH.ギブソン、この人はこのテの役が填まリ役で強烈な存在感を放つ。クリーチャーを求め、この方を先頭にシロホンを持って一列で路地を散策するシーンが地味ながら何故かお気に入りとなった。そしてもう一人、厳格な“ターンボール”将軍のD.モファットも相変わらずのキャラクターとは云え、適役である事は間違い無い。
・アイビールックに身を固めた記者でガタイが良い体躯に大きめの黒縁眼鏡、ファミリーネームを見る迄も無くこれは紛う事無き、大きなビルも一飛びし、弾よりも速い有名な某キャラクターへのリスペクトであろう。彼の眼鏡を外した素顔に見惚れてしまうD.デュバリーの生物学者“ダイアン・ベネット”は、クリーチャーと価値観や好み、美的感覚等がほぼ同じなのであろうか。
・序盤に登場する唯一と云って良い(バストトップもチラッと写る)お色気シーン、髪型も似せたS.スティーヴンスの“マルゴ”によるシャワーシーンは『サイコ('60)』のJ.リーの超有名なシーンへのオマージュであろう。冒頭で元気一杯な“ルーシー”役で、(Stacey Fergusonとクレジットされている8歳の)あどけないファーギーの姿が窺えるが、これは'83~'86年放映されていた『スヌーピー』で約一年間演じていたのと同じ役名である。そして何よりも大きな眼鏡をかけ、“教授”と呼ばれる少年は、先頃若くして鬼籍に入ったP.ウォーカーであり、撮影時10歳だった彼のスクリーンデビュー作が本作である。
・本作はどうやら'83年には全ての撮影が終了していたらしいが、何等かの事情で第39回カンヌ国際映画祭('86年5月8日~'86年5月19日開催)内で'86年5月15日に上映される迄、日の目を見る事は無い憂き目に遭った。ちなみにこの日以降、一般にリリースされたのは翌年の'87年からとなっている。
・鑑賞日:2019年5月5日(月・こどもの日)
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