「アメリカ建国の暗部によどむ呪い。合衆国民の「後ろ暗さ」を掻き立てる怪談風ホラー」ザ・フォッグ(1980) じゃいさんの映画レビュー(感想・評価)
アメリカ建国の暗部によどむ呪い。合衆国民の「後ろ暗さ」を掻き立てる怪談風ホラー
わざわざ阿佐ヶ谷まで会社早引けして『謎の巨匠ルネ・マグリット』を観に行ったので、せっかくだしもう一本観ていくか、と、同じ映画館で続きでやっていたジョン・カーペンターの映画を観た。
一応、カーペンターは大学時代に全作VHSで観たはずだが、しょうじきあまり覚えていなかったので、とても新鮮な気持ちで観られた。
あと、最近ダリオ・アルジェントそっくりのテイストをもったアメリカ製ホラー『メサイア・オブ・デッド』(73)をキネカ大森で観て、「海から岬の街にやってくる怪異って、まんま『ザ・フォッグ』がそんな映画だったよなあ」と想起していたこともあって、なんとなく観返してみたいと思っていたのだった。
観始めて思ったこと。
「え、こんなきれいな映画だったんた!?」
とにかくカメラワークが流麗でよどみがない。
凝ったことをしているわけではないが、
ショットの精度が高い。モンタージュの間合いが良い。
ホラーという以上に、単純に映画として美しい。
やっぱり、カーペンターって優秀な監督さんなんだなあ、と。
ホラーとしても、いい雰囲気に仕上がっている。
冒頭にエドガー・アラン・ポーの詩(夢の中の夢)からの引用があるけど、あれは『灯台』(ポーの遺作)つながりの部分もあるのだろう。
どちらかというと、海から復活してやってくる怪異という意味では、ラヴクラフトからの影響の強い作品というべきだろうし、100年に一度よみがえる亡霊って意味では、ハーシェル・ゴードン・ルイスの『2000人の狂人』(64)を思い出させるところもある。そういやあの映画も標的とされる旅行者は「6人」縛りだったな……。
海から来た怪異とかいいながら、ふつうにモンスターではなく、スラッシャー・ムービー感満載の「実体のある殺人鬼」が登場してくるあたりは、『サスペリア』(77)でも魔女の呪いとかいいながら実際は刃物持って襲ってきてたのと似ている。時代かな?
この鉤のついた手やサーベルを武器にする「幽霊船員」というキャラクターは、のちに『パイレーツ・オブ・カリビアン』(アトラクション→映画)や『ラストサマー』(97)へと引き継がれることになる。
また、霧に乗ってやってくる怪異というのは、誰もが思うとおりスティーヴン・キングの『霧』(80)およびその映画化『ザ・ミスト』(07)と被っている。キング原作は似た時期の作品だが、何かしらの影響関係があるのかどうかについては寡聞にして知らない。
(気になってネットで調べたら、視程が1㎞以上であれば mist、1km未満であれば fog なんだってね⁉ フォッグのほうが濃いんだ!)
カーペンター自身は、英国のストーンヘンジで目にした不気味な霧の光景が霊感源で、イギリス映画『巨大目玉の怪獣 ~トロレンバーグの恐怖~』(58)からもインスピレーションを得たと述べているようだ。
それから、亡霊たちの呪いの根源である、難破船の偽装と乗員からの略奪の話は、カーペンターによれば、19世紀にカルフォルニアで実際に起きた「フロリック号の難破」事件から材を得ているとのこと。
アメリカ開拓期って、実際は相当な無法地帯だったわけで、こういう事例は山ほどあったんだろうね。日本でも横溝正史の『八つ墓村』みたいな話があるし、ハンセン病でいえばあの有名な松本清張の『●の●』を思い出しますが。
ほかにもアメリカ製ホラーで、開拓期や南北戦争時の村落皆殺し事件が呪いの元凶になっている作品は、他にもいくつかあったはずだ。
そもそもアメリカという大陸自体、白人たちがサンドクリークの大虐殺やウォシタ川の虐殺といった非道な行為を経て、インディアンたちを根こそぎぶち殺して手に入れた土地である。
アメリカ建国の背景には、間違いなく血塗られた歴史があり、膨大な数の報われない死者の深い怨念があり、弱肉強食の非情の論理があった。『ザ・フォッグ』のかかえる「恐怖」は、そういったアメリカ人自体が根源的にもっている「後ろ暗さ」をくすぐる「恐怖」である。だからこの映画における復讐劇は、「100年祭」のろうそくパレードの日に行われなければならなかったわけだ。
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●冒頭は船員による怪談噺で始まる。岬に近づいて来た船が沈む話っていうと、最近だと『ドラキュラ/デメテル号最期の航海』(23)を思い出す。
●岬の立地や闇に浮かぶガソリンスタンド、夜に通り沿いで明るく光る店のショーウインドー(エドワード・ホッパー風)、ヒッチハイク、ステンドグラスを破って入ってくる怪異など、前述の『メサイア・オブ・デッド』を想起させる要素が結構多いが、カーペンターが参考にしている可能性はあるんだろうか?
●前半の船での惨劇とカットインされる地元ラジオ局の深夜放送、中盤での教会での話と灯台での話がクロスカッティングで展開する構成など、モンタージュに凝っていて、しかもそれが自然に流れているのが素晴らしい。
●DJが車で走るシーンや、後半まで「予兆」と「雰囲気」だけで押し切るつくりは、ヒッチコックの『鳥』(63)を思わせるところがある。実際、カーペンターは『鳥』を参考にしたと証言しているようだ。マローン神父が命を懸けて怪異と対峙するあたりには、『エクソシスト』(73)からの影響ももちろんあるのだろう。
なんにせよ、ホラー的なギミックや、ゴア要素、スラッシャーのえげつなさなどで怖がらせるのではなく、「何かが起きそうな気配」だけで脅かしてくる感覚は、カーペンターがヒッチコック的な感性の継承者であることをよく示している。
●この作品の大きな問題点のひとつとして、出だしでいきなり3人まとめて殺されるわりに、最初から「犠牲者は6名しか出ない」らしいことがお告げを通じてわかっているので、中盤戦でおもいきり中だるみするという点があげられる。最後で、二元中継のどっちが6人目になるか?というサスペンスをやりたかったんだろうけど、中盤で「何も起きない」ことがわかってるのに、ずっと「何かが起きるかも」で引っ張るのは無理があると思う。せめて6という数字は終盤にわかるようにしたほうがよかったのでは?
今の基準からすると犠牲者数も抑え気味の印象。なんといっても、『キャリー』(76)と違ってその辺の住人には一切被害がでないからね。
あと、明らかになりゆきで適当に近場にいる人間から殺してるようにしか見えないのだが、神父のときになって突然「謀殺に加担した6人の子孫が」みたいな話になっているのが、いまひとつ腑に落ちない。船員や家政婦さんが村の権力者の末裔にはとても見えなかったが……。
●二つ目の問題点として、起きている現象のバランスが今ひとつよろしくない。この霧の怪異は、簡単に電線を切ったり、テーブルを動かしたり、勝手にテレビをつけたり、発電機を使えなくしたりと、やりたい放題でポルターガイスト現象(『キャリー』風の超常現象)を引き起こすことができる。それなのに、なんで人を殺しに来るときだけは「人型クリーチャー」が追ってきて、逃げ切ることも可能ってことになってるんだ? いくらでも「超常現象」を通じて町の住人を屠ることができるのに、ちまちま人型怪人に頼っている理由がよくわからない。
●三つ目の問題点として、終盤あたりになって唐突に茶番感が増すのが気になる。DJが教会だけは大丈夫と主張している根拠がよくわからないし(単にキャラクターを一か所に集めたいだけのような)、いきなり金塊がとか言われてもなあ。妙にあきらめの早い神父に、なぜか状況を理解しきっているDJ、最後までこれといった見せ場のないジェイミー・リー・カーチス。一番ずっこけるのが、最後に出てくる敵集団。せっかくここまで姿をきちんと見せることなく恐怖の幻想を身にまとっていたのに、いざ正体を現したら単なるコスプレ集団のうえに、目が赤く光ってるとかダサいもいいところで、ちょっと拍子抜けしてしまった。
神父様が『レイダース』みたいになってるあたりも、ホラーというよりファンタジーっぽい感じで、今一つ緊張感が感じられなかった。
●灯台に持ち込まれた板から水が滲みだしてきてこぼれたら、DANEの文字が、6 MUST DIE とかに変わるんだけど、できれば元の文字の一部を利用する形のほうがかっこよかったな。
●音楽はいつものようにジョン・カーペンター自身の担当だが、あからさまに『エクソシスト』の「チューブラー・ベルズ」と『サスペリア』のテーマ曲を意識したメロディでちょっと笑える。
●キャスティングは、主演の女性DJにカーペンターの当時の奥さんだった、エイドリアン・バーボー、町の議長に『サイコ』のジャネット・リー、外からやって来るヒッチハイクの女にジェイミー・リー・カーチス。スクリーム・クイーンの新旧母子対決に加えて、自分も神父のところで修理をしている男の役でちょっと出ているなど、ネタ感の強い配役。しかも役名にダン・オバノンとかニック・キャッスルとかつけて遊んでいるし。まあダン・オバノンとかつけられた時点で気象予報士の運命は決まったも同然だったな……(笑)。