「戦場における勇気の考察を真面目に描いたロッセン監督のこだわり」コルドラへの道 Gustavさんの映画レビュー(感想・評価)
戦場における勇気の考察を真面目に描いたロッセン監督のこだわり
政治権力の腐敗を直視した「オール・ザ・キングスメン」でアカデミー賞の名誉に輝きながら、赤狩りによって弾圧を受けたロバート・ロッセンの監督作8本目の西部劇映画。生涯監督作品が10本と少なく、また現在においても観る機会が限られているロッセン作品のひとつ。第9作にあたるポール・ニューマンの出世作「ハスラー」の前作にあたり、名優ゲイリー・クーパーの晩年の主演映画として位置付けられている。だた正直に言って、作品の出来としては「オール・ザ・キングスメン」や「ハスラー」と比較すると芳しくない。前半のアメリカ騎兵隊が(パンチョ・ビリャ遠征)してメキシコ反乱軍と対決する西部劇らしい突撃のスペクタクルの見応えから、後半はコルドラ騎兵隊基地に戻る7名が砂漠地帯を延々と行進する苦難の連続の重々しい人間ドラマに、観ているこちらも疲労困憊してしまいます。主題である勇気の根源を模索する主人公ソーン少佐の問題提起は、一般的な娯楽西部劇からは別次元の深刻さでしょう。この内省的な戦争批判をどう捉えるかで、この映画の好悪がはっきりと別れます。初見は19歳の時の地上波テレビで鑑賞したが、その問題提起を道徳的な考察と捉えて、ゲイリー・クーパーとリタ・ヘイワースの熱演に素直に圧倒され、ロッセン監督の演出エネルギーに恐れ入った感想を持ちました。それで今回47年振りの再見で冷静に見直すことが出来ました。
映画の背景と舞台は、騎兵隊の戦闘方法の終わりにあたる1916年のメキシコ革命(1910年~1917年)の時代のメキシコ国境と隣接するテキサス州。革命家パンチョ・ビリャがニューメキシコ州のコロンバスの騎兵隊駐屯所を攻撃し100頭もの馬などを略奪し、市民17名も虐殺した事件が発端になる。このメキシコ革命を題材にした映画には、「奇傑パンチョ」(1934年)「戦うパンチョ・ビラ」(1968年)や、もう一人の革命家エミリアーノ・サパタを描いた「革命児サパタ」(1952年)があります。同時に劇中でソーン少佐が言及する第一次世界大戦(1914年~1918年)にアメリカが参戦する可能性から、勇敢な騎兵隊員を精査する兵士募集の裏事情が語られます。これはアメリカが翌年の1917年に第一次世界大戦に参戦する時代のカリフォルニアを舞台にした、エリア・カザンの「エデンの東」の社会風俗と比較すると興味が尽きません。主人公ソーン少佐はそのコロンバスで奇襲攻撃に遭い、自らの臆病さから自己不信に陥るも上官のロジャース大佐の計らいによって軍事裁判を免れ、戦果を挙げた兵士に叙勲を授ける判断を担う選定官に推薦されます。しかし、アメリカから逃れてメキシコの砂漠地帯に住む女主人アデレード・ギアリーの邸を占拠するメキシコ反乱軍との戦いに勝利した退職間際のロジャース大佐の攻撃作戦をドン・キホーテの突撃と揶揄して、ソーン少佐は指揮官の功績を認めない冷静さを持ちます。その彼の生真面目さと融通の無さが浮き彫りになり、大佐の怒りを買う展開です。63歳の大佐が叙勲によって将校に昇格する、39年の大願成就の夢。それを素っ気なく袖にするソーン少佐は、遠くから戦況を双眼鏡と目視で眺めて、危険を顧みず勇壮に戦う兵士4人を選別していました。
そこから全体の四分の三の90分に及ぶ7人の人間ドラマは、人其々に隠したい事情があって今があるという、人間誰しも抱える不名誉な経歴が説明されます。リタ・ヘイワースが演じるアデレード・ギアリーは、3度の離婚の末アメリカを追われ女独りでメキシコに流れ着いた孤独な女性。先住民の土地を売って有罪になっても財を生かし生き延びてきた。敵支援の反逆罪に問われコルドラの憲兵司令部に護送される身でありながら、彼女のタバコを喫ったり酒を飲む姿が兵士たちの気を損ね苛立たせる。このタバコを喫う仕草と酒を飲む格好が様になっているヘイワースの色気充分の魅力。限られた物資の兵士には目障りであり、リタ・ヘイワースの美しさに欲望が抑えきれない男の本性も描かれている。しかし、その本性を表した男たちを英雄と称賛するソーン少佐に問いかけるのは、たった一度のことで臆病者か英雄かを判断するのは間違いだという、極常識的な言葉でした。5人の兵士の中でソーン少佐に最も抵抗するヴァン・ヘフリンが演じるチョーク軍曹は、犯罪歴をもつ曲者でした。同僚を殺害した罪から逃れ騎兵隊に入隊したのに、叙勲で新聞に載れば絞首刑は免れられない。もしソーン少佐と二人きりの移動なら罪を重ねていたに違いない危険人物です。「シェーン」の気の優しい開拓民を演じた時の演技とは違う、性格俳優としてのヘフリンの熱演が印象的でした。ソーン少佐を支える模範的な騎兵隊員のファウラー少尉がゲリラに襲われて馬を差し出してから反目する展開は、ソーン少佐を更に追い詰めていく上で実に効果的です。徒歩から人車軌道に変わって身も心も極限状態が続き、ソーン少佐の司令官としての采配に疑問を持つファウラー少尉は最後は完全に常軌を失い対立する。演じるタブ・ハンターはジェームズ・ディーンと同じ生まれの青春スターでこの時28歳。歌も上手く、もう少し若ければ「ウエスト・サイド物語」のトニーの役を得てナタリー・ウッドと共演していたと言われています。ゲリラに耳を撃たれて損傷するレンチハンゼン役のディック・ヨークは、登場人物の中で極平凡な人物を好演しています。耳を失って懊悩する姿に同情しますが、緊張が続く中で唯一息抜きができるエピソードでもありました。実は撮影時に事故(落馬とも人車軌道に衝突とも記録があり)に遭い、背中に後遺症を抱え代表作のテレビドラマ「奥様は魔女」のダーリン役を途中降板したといいます。少年の頃観ていた私は、いいキャスティングなのに何故代わったのか不思議に思っていました。他に伝道師の子で聖書を丸暗記していたヘザリンドン一等兵が腸チフスにかかり回復して宗教心を新たにするエピソードと、お尻のおできでアデレードのテキーラが治療に役立つトルビー伍長のエピソード含め、構成力の高い脚本でした。
殺人を正当化した戦争において、勇敢に振る舞ったことが兵士の勇気だけに根差した行為とは言えないと考えれば、このゲイリー・クーパーのソーン少佐の価値観には賛同できません。生きるか死ぬかの瀬戸際に臆病になり逃げだすのも人間です。そこで立ち向かい殺人をすることに勇気以外の動機、または使命感があれば偶然の成果に至ることもあり得る。日常生活の勇気と戦場での勇気は一致しないと考えるのが平和な社会で産まれ生きている自分の限界です。またソーン少佐の言動を見ていると、戦争後遺症の軽いPTSDを抱えているのではと思えてきます。第一次世界大戦の頃から研究が進んだ戦闘ストレス反応を、砂漠の進軍で描いた実験作品とも言えるかも知れません。そして製作された1959年は、ベトナム戦争にアメリカが本格的に参入しようとする時代でした。それを含めてロバート・ロッセン監督は、そのアメリカ社会に対して、正義のための勇気とは、を問う事を試みたと思います。しかし、この真面目な作品は、真剣に観るには中々しんどいのも事実です。けして楽しくも無ければ、感動できるものでもありません。ソーン少佐を眠らせるためにアデレードが取った行動に古臭さと不快感を感じる人がいてもおかしくない。こだわりの強いロッセン映画でした。