「隠れすぎの名作」マルドゥック・スクランブル 排気 つとみさんの映画レビュー(感想・評価)
隠れすぎの名作
世界と人間の創造神であるマルドゥックの名を冠した都市で繰り広げられた卵たちのスクランブルは終わった。
「圧縮」でのアクション、「燃焼」でのスリル、両方を併せ持った「排気」は、全体的に息切れした印象があるものの楽しめた。
前二作にも同じことが言えるけど、内容がしっかりしているのに、仮に全く理解できていないとしても面白いのは素晴らしいと思う。
「死んだほうがいい」と始まった「圧縮」で、バロットは生きる意味を見付け、「生きたい」と始まった「燃焼」で生き方を学び、本作では「生き残る」と始まった。
アシュレイが話す、生き残るために必要な3つ、フックがあると教えてくれる人=指導者、フックがあると知っている=知識、フックを探す能力=力、の三番目「力」の獲得の物語。
3つのうち一つがあればいいと言われている状態で、バロットには、ルールを教えてくれるイースターやウフコックなど指導者、第6の選択肢という知識の2つを既に持っていた。
アシュレイの目にも見えていた指導者である手袋を脱ぎ捨てた時から二人の勝負は始まる。
この後、イースター(指導者)に教えてもらったイーブンマネー(知識)の宣言という「力」を敵であるアシュレイが期せずして教えることになるが、ベル・ウイングと同様にバロットに魅せられてしまっていたアシュレイは、既に勝ちたくなくなった、最終テストを出すだけの指導者に変わっていた。
生き残る術を学び続けるバロットの姿は「生きたい」と「生き残る」に繋がる、強い生きる意思を感じさせる。それは人間の輝き、バロットの輝きだ。そこに二人は魅了される。
晴れて生き残るための3つ「指導者」「知識」「力」を手に入れたバロットはウフコックと共にボイルドとの最終決戦へ望む。
ストーリー上では既に孵っているバロットだが、視覚的に卵から孵る演出があったのは興奮したね。
「死にたい」ではなく「死んだほうがいい」と、自分は生きるに値しない無価値な存在だと言っていたバロットが長い物語を経て本当の意味で誕生し生き始めた瞬間だ。
愛されたいとだけ願っていたバロットが愛することを知り、それを願う。
愛することが無価値ではないということ、生きることだとバロットは見出だした。それは有用性を示すことが生きることだと言うウフコックとは全く違う視点。
有用性とは無関係の、生きるための選択、つまりボイルドかバロットかという初めての選択をウフコックはすることになる。
自分は道具だと言っていたウフコックがバロットと同じように選択し生き始めた瞬間であるが、それは、「愛する」や「信じる」に通じる相互理解。既に「燃焼」でディーとディムが示していた姿。
指導者であったベル・ウイングやアシュレイがいつの間にかバロットに導かれたように、ウフコックもまたバロットの生きる輝きに導かれ選択するのであった。
エンディングはバロットが歌うアメイジング グレイス(素晴らしい神の恵み)
マルドゥックの恵みは世界と人間。つまり素晴らしい世界と人間。
ここまで3時間かけて生きるとは何かを問い続けていながら最後に、生きてるだけでいいんだよと当たり前のことに気付かされた感じが憎らしいね。
有用性?なんだそりゃ?、無価値?そんなものあるのか?、生きてるだけで素晴らしいだろと。
ここで自分は反省しなければならない。ついつい肉体の有無について考えていた事を。
「圧縮」の時にミンチだのミディアムだの出してきて肉体に意識が割かれるような罠だったのだろうが、前時代的なそんな考えはとっくに超越している作品だった。
それどころか、男女差やネズミやイルカも飲み込んだ、とても斬新な、正に今の時代のSFというに相応しい内容だったと思う。
最後に、巻き戻って巻き戻って前二作に意味が付与されていく構成のストーリーを一年間隔で3回に分けた劇場公開はえげつないなと、DVDで観た自分は思うのだった。
それと、このレベルの作品に10年以上も気付けなかったことに驚く。隠れた名作とかよく言うけど、いくらなんでも隠れすぎだろ。