「特攻の志願の真意。そして、この映画の真意とは。」永遠の0 猿田猿太郎さんの映画レビュー(感想・評価)
特攻の志願の真意。そして、この映画の真意とは。
正直、この映画の意図を勘違いしていました。単純に「お国のために死ぬことが当たり前」の時代に「生きて帰る」ことを叫ぶ、現代的で時代錯誤な平和を尊ぶ映画かな、と。そして、ゼロ戦の戦い振りの映像化が主題かと。
確かにゼロ戦の映像も面白かったのですが、本当の主役はゼロ戦ではなく、むしろ祖父でもなく、その祖父について調べる孫の方だったのかと。いや、ちゃんと映画の解説を読んだり原作を読めば判るのでしょうが、どうにも下調べをせずに映画を観てしまうことが多く、私はミスリードしがちなんです。
祖父がどんな人間であったか。祖父を知り、祖父のことを語る語り部達。門前払いをしたあの強面の人が「良い顔になった」と主役の孫を讃えたときに、ようやく、映画の構図を把握できた気がする。そこから、この映画が俄然、面白く感じました。そう、この映画を平和の尊びとか反戦とかそういうことではなく、単純に映画の面白さとして私は観てしまったような気がします。
私は想うに(いや、原作を読めば作者の意図がわかるのかもしれないけど)祖父もまた、「面白さ」を求めた結果なのかと。妻を愛している、だから生きて帰りたい、戦争で無駄死にするのは馬鹿馬鹿しい、逃げてでも臆病者と誹られても、みな生きて帰るべきだ、と。でも、口惜しい。悔しい。無駄に見える特攻でも、自分の腕なら成功させることが出来るのではないか。実際、肉体は死ぬのかもしれないけど、自分の友人や知り人達が自分のことを、自分の思い出を持ち帰れば、生きた証を残せるのではないか。どうせ死ぬ身だ。他の特攻機を送り届け続けた者として、最後には自分も職務を全うしたい。そして、鍛え上げた自分の腕で一矢報いたい――そんなところだろうか。最後の最後、特攻が成功する瞬間にニヤリと笑ったけど、「勝った。俺の勝ちだ」と笑ったのだろうか。
あの強面の語り部の人は「それは人を切った業物だ」と飾っているドスを示したのは、それが伏線だとは思いもよりませんでした。奥さんが箒で来客者に構えるのもまた、ヤクザの襲来を警戒してのことか。そういう伏線回収の仕掛けも面白い。
劇中でも語られていたとおり、戦争について、特攻についての考えは様々。この映画の感想として、それを考えさせられることもあるのですが、やはり自分は、映画の面白さを楽しんでしまった次第です。
ラストのスタッフロールで誰も居ない夕焼け空を映していたのは、戦争で多くの命が散っていき、誰も居なくなってしまった空を示しているのか。そういえば、ウエスト・サイド・ストーリーのエンディングでも、誰も居なくなった街を映されていて、ミュージカル特有のみんなが総出で挨拶するのとは真逆の、誰も居ないカーテンコールだなと想ったものですが。
(追記)
観た直後の勢いのままに書いた前文に対し、少し頭が冷えた状態で考えてみました。
「なぜ、祖父・宮部久蔵は最後の瞬間に笑みを浮かべたのか」
その笑み。ニヤリと笑う笑みの浮かべ方。勢いで書いた前文の通り「勝った。俺の勝ちだ」と笑ったことは間違いないと思うのですが。
まず、宮部久蔵は決して闘い慣れていたわけでは無いと思う。前半で示されていたとおり、死ぬのを恐れて本当に逃げ回って居たならば。技量は間違いなくあると思う。模擬戦などでアッという間に後ろを取る、そんな技術の持主である。どうすれば敵の弾に当たらないか。その技量も本物。しかし逃げ回って居たことも本当ならば、殺し慣れてもいないはず。
技量だけでなく大切なのは実績。ロールプレイングゲームで、経験値でレベルが上がるのは伊達じゃない。実行し、達成した経験を積まなければ、確実な実力を自分が確信することが出来ない。
だから、祖父・宮部久蔵は本当に勝てるかどうか判らなかった。本当に特攻が成功するかどうか判らなかった。しかし、これまで鍛えてきた技、操縦技術、筋トレを重ねてGに耐える訓練も積んできた。しかし、それで敵を倒した経験は実は浅かったのではないか。しかし、それを試みるには危険を冒すしかない。それでは家族の元に帰ることなど、望めない。
それまで特攻隊の見送り役を重ねるが、その送った彼らが無駄死にしていくのをみて、自分のふがいなさに感じてしまった。自分が役立たずであることを呪った。そして、こうして職務を続ける間も、家族とは疎遠の状態。まるでこれでは死んでいるも同然だ。無論、生きて帰ることも、もはや無いだろう。
そこに彼がやってきた。彼とは義理の祖父であり最後の語り部となる大石健一郎。彼の人のために生きたいという言葉に、今の自分では果たせない尊さを感じた。だから大石に託そうと思った。託してしまえば、もう後に憂いは無い。存分に自分の技量を発揮できる。果たせなかった夢を果たすような、そんな宿願。
平和の尊さ、生きることの大切さ。それの語る映画であることは間違いないと思うけど、それとは裏返しのラストシーンだったのではないだろうか。戦う男の「してやったり」とニヤリと笑う勝利者の笑み。そこに非戦も平和も何も無い、一命を賭しても果たしたかった願望。
考えれば考えるほど台詞の一つ一つも繋がっているように思う。「気持ちよさそうだな」――もう特攻の一員に選ばれ、人生のしがらみも運命にも振り回されることもなくなった開放感を、川で足を浸す大石に感じたのか。そして自分も靴を脱いで足を浸す。足を洗うという慣用句とは違うと思うけど――。
(追記2)
ちょっとなかなか思いつかなかった言葉を更に継ぎ足します。映像化されてしまった悲惨な特攻隊の姿。それがなんと痛々しいことか。英霊達をそのように称するのは叱られそうな気がするけど、鉢巻きを締めて一命を賭して敵を叩く悲痛な悲願で挑み、それが届かず敢えなく墜落する姿。もはや、切ない悲しいを通り越して、「痛々しい」。
だからこそ、最後の「ニヤリ」と笑う姿に「痛快」と思いました。特攻隊が突入する最後の瞬間に対し、そんな感想を持って良いのだろうか。「痛々しい」と同様に叱られそうな表現、「痛快」という言葉。
戦争の終盤、圧倒的な物量に敗退していく日本軍。物量も性能も劣る日本軍の力はもはや及ばないのか。そこに、敵を驚愕させた技量を誇った主人公。そこに「痛快」と感じた自分を否定できません。それこそが、この映画はただの反戦映画ではないと、私は想います。
「痛々しい」「痛快」ともに「痛い」という文字が入っているということに、切なさ悲しさしか残らないのが戦争であるとも云えると思います。