「ジルの決心」ファインド・アウト R41さんの映画レビュー(感想・評価)
ジルの決心
ファインドアウト
原題名「gone」
2013年の作品
アメリカでは未だに社会問題化している「ミッシング・パーソン」
毎年約36万人の0~18歳の行方不明が発生しているアメリカだからこそ、この物語がリアルに思える。
これをモチーフにした作品
原題名にあるように、去ったものは2度と帰っては来ない。
昭和時代に多く見られた「誘拐」
目的は身代金であって、誘拐された人物自身ではなかった。
しかしこのミッシング・パーソンとか、幼い子供が誘拐される目的は、その人物自身にある。
よって、誘拐した時点でミッションが完了することになり、ミッシング・パーソンは「gone」となってしまう。
物語は、
以前拉致されながらも奇跡的に脱出できた女性ジルの身に起きた「再発」を描いている。
そしてこの作品は、ジルの心境や周囲の反応を非常にリアルに描き出している。
私も随分前にこの作品を見た記憶があった。
そして当時もジルに共感を覚えた記憶がある。
それはおそらく、自分の話を信じてもらえなかった過去があるからで、事実を信じようともしない他人の色眼鏡を見た経験があるからだろう。
それらを包括した上でジルは言った。
「私は自分を信じる」
この言葉は非常に強く、過去のトラウマに対峙する決心を表明した言葉。
人は誰もが、他人の過去しか見ない。
「報告書」に記載されていたジルの過去 妄想と嘘と通じ妻の合わない証言
そして精神病院へ
しかし、ジルが経験したことすべては彼女自身の揺るぎない事実で、家族やほんの数人だけが信用してくれた。
この、ジルによる「妄想騒動」は、彼女の履歴にも大きく反映された。
そしてこのレッテルはどこに行ってもつきまとう。
さて、
犯人ジムはなぜ再びターゲットをジルにしたのだろう?
ジルの性格についてはあまり語られないし、ジルの人間性もあまり描かれないが、おそらく彼は完璧主義者なのだろう。
ジルは捕まえた女性たちをどのようにしたのかは言及しなかったが、それは映画だからであり、視聴者が勝手に想像してくれればいいと考えたのだろう。
焦点はそこにはなく、ジルのトラウマと世間の見方、そしてどんな特でも「自分自身を信じ続けること」に合わせている。
あくまで犯人の趣味嗜好ではなく、ジルのゆるぎない自分への信頼を描いている。
ここがこの作品の大きな魅力だろう。
ジルは最後まで自分を信じたが、警察も病院も信用しなかった。
行方不明になったモリーを探し回り、「体裁のいい嘘という武器」を巧みに使いながら彼女を捜索した。
バイト仲間が持っていた犯人だと思われる男の電話番号。
ジムはシャロンをターゲットにしたのだろうと思われる。
同時に、ジムは同じ店で働くジルのことをどう見ていたのだろう?
ジムは、モリーを襲い床下の隠した後、ジルの様子は監視していない。
彼は愉快犯というわけではないし、この時点ではジルを罠にハメた訳でもないように思われる。
強いて言えば、「オレは、居る」ということを世間に知らしめたかったのだろうか?
または警察がどこまで本気になって捜査してくるのかを知りたかったのかもしれない。
ジムの目論見は、結果としてジルとの対峙を引き起こしてしまった。
この事態をジムはどう捉えたのだろうか?
かつての失敗を取り返すつもりになったのだろう。
しかし、今のジルは当時のか弱い女性ではなくなっていた。
さて、、
この作品のリアルさは、やはりジルの内面に宿っている。
たった一人で妹を探し始め、犯人の意思とは関係ないところでコンタクトした。
舐めた犯人に対し拳銃を発射する。
引き揚げた梯子だけで十分だったが、アルコールを撒いて犯人を焼き殺した。
そこまでしてしまわなければならないほど、彼女のトラウマは消えることはないし、同時にそれこそがミッシング・パーソンを持ったアメリカ人たちの心を代弁していた。
「警察など頼れない」
ジルはその後しばらくしてから森林公園の地図と「写真」を警察に送った。
一視聴者的には、そんな警察なんかに証拠を送る必要などないようにも思ったが、他にも犠牲者がいたことで、ジルはやむなくそうしたのだろう。
広大な土地に広がる自然のなかに隠された場所があっても不思議はないし、そこが発見されないのは誰もが理解できる。
一人の女性の妄想 警察にとってその着地点は1番楽な方法だ。
2010年代のアメリカでは、まだ街中に監視カメラはなかったのだろう。
これからの物語、特にミステリーものであれば、監視カメラ網の穴を探す必要が出てきた。
それを介入させない場合は、時代背景を2010年以前に合わせなければならなくなる。
そしてこの監視カメラ網があるにもかかわらず、未だに減ることのないミッシング・パーソン。
アメリカはその社会問題にいい加減本気で取り組まなければならない。
