この空の花 長岡花火物語のレビュー・感想・評価
全23件中、1~20件目を表示
一輪車の水平運動と花火の垂直運動
大林宣彦監督戦争三部作第一作。
凄い…。傑作です。
序盤の説明描写が怒濤すぎて、早送りでみているのか確認するほどでした。
本作は、新聞記者の玲子が、元恋人の手紙に呼ばれて、長岡を訪ねる劇映画ではある。しかし長岡で実際にあった空襲や災害、模擬原爆、戦争経験者/の語りも記録されている。そのため劇と記録の区分は溶け合って、真実だけが現れている。
それも時空間が縦横無尽に往来しているからだろう。過去ー現在ー未来の単線的な時間軸は、登場人物の花や戦争という〈出来事〉によって複線的になる。
戦争ーそもそも〈出来事〉ーとは単なる過去のことではなく、現在によって語り直し、未来においても語ろうとする運動の中で、常に生起し続けることである。その運動を記録するのが映画だと私は思う。
また空間について言えば、長岡での出来事でありながら、熊本の天草、長崎、広島、福島の郡山がつながっていく。そのつながりは戦争や核、災害の記憶によるものだ。
「想像力でみえるようになる」
それはフィクションの力だと思う。戦争は終わらずとも、〈私〉の経験と1945年や長岡に生きた人の経験を同一して語ることはできないし、してもいけない。けれどその断絶を悲観するのではなく、フィクションによって、想像力でみえるように、つなげることは私たちにできることだと思う。
合成で打ち上がる花火。花火が爆弾と地続きであること、その背後にある記憶や経験。それらは、想像力がなければみることができない。
一輪車の水平運動と花火の垂直運動。心と関係性と出来事の運動。私も運動を美しく記録したい。
全てが繋がる
大林宣彦監督らしく、長崎と長岡・原爆と花火・空襲と東北大震災・1945年と2011年・演劇とドキュメンタリーが、おもちゃ箱をひっくり返した様に散りばめられ、何故か一輪車が度々往来する奔放な作品です。大林作品では、その奔放さに置いてけぼり感を覚える事もあるのですが、本作ではそれらが大絵巻の様に見事に繋がり、「戦争の愚かさ許すまじ」の背骨が強く貫かれていました。そして終盤、スクリーンの花火を観ながら涙ぐんでしまいました。
2020年に亡くなった大林監督が、晩年に戦争をテーマとした作品を撮り続けた意味を今こそ見つめ直さねばなりません。
想像力
朗読なのか舞台演劇なのか映画なのか映像表現なのか、直接的な表現もよくわからないのも、たくさんたくさん、切り絵のように貼り付けられ、鮮やかな花と闇をも描きだす。
経験がないだけに想像力はそれでも足りない自らを戒め、せめてとるべき立場を見失わない者でありたいと願う。
さて、結局なぜ彼の元を去ったのか?雨が痛い。
冒険主義と反戦思想に空費された才能を悼む
1 技法面について
監督が通常の商業映画の技法には収まらない、さまざまな技法を試みていることはよくわかる。いわば冒険主義である。登場人物が会話の途中からカメラに向かって話し始めたり歌い始めたり、意味不明な設定とその急展開、短絡的なストーリー等々は、映画の約束事を破壊したいのだろう。安っぽい特殊効果なども、意図的に採用しているはずだ。
破壊そのものが自己目的では意味がなく、問題はその効果だ。ドラマの中で会話している人物が突然、カメラに向かい話し始める意図は、恐らく舞台演劇の手法を映画に持ち込むことにある。
これは面白いことは面白いのだが、何度もやられると食傷するし、映画は舞台ではないのだから効果が限定的なうえ、作品はドラマ性を希薄化させ、俳優は何のために演じているのかわからなくなる。
そして滑稽なのは、その約束事の破壊とやらも、何作も見ているとパターン化されているのがわかり、約束事を破壊するための約束事を実行しているとしか感じられなくなってしまうことだ。
薬師丸の「ねらわれた学園」クライマックスの子供の落書きのような特殊効果が、本作のB29による長岡空襲シーンにも使われているのを見て、どこに破壊があるのかと訝る観客も多いのではないか。その意味するところは、冒険主義に批評精神が伴っていないということである。
さらに少女や一輪車といったカワイイ小道具を頻出させていながら、それがいっこうに可愛くも格好良くも美しくもないのには言葉を失うばかりだ。
2 内容面、とくに反戦思想について
扱っているテーマが自然災害と戦争という長岡を襲った2つの悲劇と、そこからの復興ということなのだが、メインの復興史そっちのけで反戦メッセージが浮上してくるのは、好き嫌いは別にして不自然に感じられる。
反戦を取り上げるなら、戦争被害を自然災害と等置するのはマイナスでしかない。自然災害と同様、戦争も不可抗力と感じさせるだけだからだ。
致命的なのは、戦争反対と言いながら第二次世界大戦の開戦原因について何一つ触れず、空襲被害の悲惨さだけを取り上げる視点の平板さである。
日本が開戦に至った原因は、アジア、南米、アフリカを蹂躙し植民地支配する欧米列強に伍するべく参入した大日本帝国を、古参クラブメンバーが排除しようとしたことにある。
その不当さを新聞等のメディアがこぞって批判し、政府を戦争に駆り立てたのが開戦の契機であり、その背後には帝国臣民の熱狂的な戦争支持があったことは常識といってよい。換言するならば、ここに登場する長岡住民も軍国日本の戦争を熱狂的に支持したはずで、そのツケを空襲や敗戦によって支払ったのだった。
それを踏まえるなら、現在になって「まだ戦争には間に合う」という反戦連載記事を連載した新潟日報が、第二次大戦時にどのように新聞統合させられたか、戦前戦中にどんな記事を掲載し、どのように戦争を煽っていたのか、当時の日本人が鬼畜米英に対しどんな呪詛の言葉を吐いていたのかも取り上げなければ、歴史から何も学べないだろう。
自分たちを何ら責任がないかのような位置に置いて、戦争は悲惨だ、戦争はするなと言ったって、日本人の無責任体質が浮かび上がってくるばかりではないか。
本作で監督がやっていることは、こうした無責任体質丸出し戦争被害者論のオウム返しに過ぎず、大衆レベルの戦争責任を意識しない限り、戦争はまたいくらでも繰り返されることが分かっていない。
他方、欧米列強の不当さに対して戦前の日本人が怒ったのは当然だし、今また中国の帝国主義的拡張主義に対し世界が怒るのは当然だ。その侵略が日本領土に及ぶならば、どうすべきか。戦争は絶対悪ということで済ませられるのかという現実問題に、やがて日本は直面するだろう。その時にはこの映画で展開されている感情的戦争キライ論など、オママゴトの類に過ぎないことが露呈するに違いない。
本作では「想像力」という言葉がしきりに繰り返されるが、作る側に想像力どころか基本的な歴史のお勉強が足りていないのである。
3 まとめ
大林監督は紛れもなく繊細でリリカルな感性をもった、優れた監督である。「同級生」や「異人たちとの夏」「廃市」を見れば、それはよくわかる。その才能を、あたら批評精神の伴わない冒険主義や不勉強な反戦思想で無駄にしたのを、一映画ファンとして残念に思う。
まだ戦争には間に合う
大林的戦争三部作とも名づけられた本作品、『野のなななのか』(2014)、『花筐』(2017)。「ふるさと映画」の一環でもあり、戦争を知らない若者たちに作ったというメッセージも色濃く感じられる。さらに東日本大震災にも関連付け、戦争末期の長岡空襲とその後の長岡花火への流れを描いた内容だ。大林監督自身初のデジタル撮影だということですが、昔からのフィルム合成による特殊効果は健在だった。
高校生・元木花による脚本で長岡花火大会と同じ日に柿川で行われた演劇が中心ではあるが、序盤ではタクシー運転手(笹野高史)の説明で7月20日に疑似原子爆弾が投下された地点や焼夷弾による説明がなされていて、1480人余りが犠牲となった8月1日の長岡空襲について学ぶことができる。また長岡出身の山本五十六、米百俵の小林虎三郎、河井継之助、そして堀口大學の話も貴重だ。
人が恐怖を感ずるのは想像力を超えたときだという。敵を恐怖に陥れるのは簡単、想像力を奪えばいいのだ。戦争について多くを知っていれば対策はできる。映画という虚構ではあるが想像力を働かせるに足りうる描写によって戦争の無意味さが伝わってくるのです。高校生たちの演劇は十分すぎるほどの恐怖を与えてくれて、焼夷弾という人を殺すためだけの武器に怒りをも感じる。
ストーリーは松雪泰子演ずる新聞記者がさまざまな人と出会い、長崎と長岡の関係や元恋人である教師の高嶋政宏への思いを描いたもの。一輪車や山下清の存在によってノスタルジーを感じる映像と、後半にモデルとなった人やインタビューも重ね、ユニークな構成となっています。だけど、不思議なことに抽象的であったり、恐怖だけを描く内容から自然に涙がこぼれてくる。平和と復興・・・感じるのはそれだけはないのです。
爆弾を花火に!山下清演ずる元たまの石川浩司も印象に残るけど、サックス奏者の坂田明も強烈な印象。1945年広島に生まれた坂田明による魂のサックス演奏も注目だ。右手だけでプレイする姿も凄まじい。
死者の存在
大林監督が亡くなられた時に町山智浩さんが、「大林作品には幽霊が良く出てきますが、この幽霊は戦争で亡くなった人達のことです。彼らが過ごせなかった青春や人生を映画の中で過ごさせているのです」みたいな事を仰っていたのを聞き、大林作品に幽霊が良く登場する理由が良く理解できました。本作はその大林監督の最も伝えたい『死者の言葉』を代弁した大林作品の集大成だと感じました。
私自身、長岡の歴史を全く知らずに鑑賞しましたが、長岡は中越地震、新潟豪雨、柏崎原発、長岡大空襲と、戦争や災害の象徴と言える場所だと思います。原発は、決して福島だけの話ではない。原爆は、広島や長崎だけの話ではない。日本全体の痛みなのだと言われた気がします。
戦争で亡くなった名も無き沢山の先人達。自分達が死んだ理由も意味も分からなかった沢山の先人達。慰霊をする人。復興を願う人。そして、平和を願い花火を打ち上げ続ける長岡の人達。
あの戦争から随分と時間が経ち、戦争を語れる人も死者の気持ちを代弁する人も少なくなってしまった現在、大林監督から『反戦』という強い想いが伝わってきました。
本作をくどい、しつこいと感じる人もいると思います。でも私は、『過ちは繰り返しませぬから』という気持ちでいっぱいです。
大林監督の祈り
東日本大震災と原発事故の発生。
この二種類の災害を経験した新潟県中越地方が舞台となり、薄れ行く第二次世界大戦の記憶の中で、現在と過去、遠距離に住む人々の間の恋や友情を行き来しつつ、壮大な劇中劇も取り入れた、大林監督ならではの鎮魂と祈りに満ちた映画。
監督がインタビューで気にされているように、たくさんの大切なエピソードが詰め込まれているため、かなり長いのだが、じっと画面を追っているうちに監督の平和への思いがじわじわと伝わってきて泣けた。
たくさんの悲しい魂に安らぎを。今も胸に悲しい思い出を秘めつつ生きる人に慰めを。
そして、辛くても無数の悲しい出来事を語り継ぐこと。それが今を生きる私達に出来ることだと気付かせてくれる映画。
映画は、「嘘から出た実」
監督が、余命3か月と宣告され、語った言葉。
「映画は、作られた嘘。でも、その嘘の中に、人にとってのマコトを伝えることができる…。映画は、嘘から出た実だ…」と。
戦争が、いかに愚かな行為であるかということを、残りの人生でメッセージしていきたい…。
これは、あの黒沢監督から直接受け取ったバトンだったとか。
次は、私がバトンを渡さなければならない…と、続く。
反戦・平和は、高度成長期時代までは勢いがあったが、今では「平和ボケ」「お花畑」と揶揄され、日本が再び戦争する国になることもありうる時代になった。
次の戦争では、先端技術を使って、きっと日本は負けはしないのだろう。日本の戦死者も、さほど多くなさそうだ。あの時よりずいぶん気楽に戦争ができる。そして経済が潤う。あの時とは時代が違うのだ。
???
まるでゲームのように、無人機の下で起こっていることは、あの時とは数は違えど、現代でも同じことが起こっているのではないだろうか。やられている側の惨状はニュースとして入ってこない西側諸国の日本。
やる側に立ったあなたは、やられている側を想像する「想像力」が、ありますか?
小さな娘を戦争で奪われた母親の気持ちを・人生を、想像する「想像力」が私にはありますか?
戦争にはまだ間に合いますか?
晩年の表現者が、人生の終盤に人として何をやろうとしたのか?そこに「想像力」を働かせて監督の強烈なメッセージを受け取ってもらいたい。
ジャンルの垣根を超える圧倒的な熱量
●ドキュメンタリーでもあり、劇映画でもある、カテゴリ分け不可能な全く新しい映画
●戦争、震災、豪雨、忘れてはいけない歴史の記憶を伝える強烈なメッセージ
●過剰な情報量に圧倒される体験型映画
感想が難しい
恐ろしく棒読みの女子高生の不思議な魅力に引き込まれる。ガチャガチャずっとカットが入れ替わるのでどこもかしこも慌ただしく、でもなぜか面白い。妙な日本語字幕やあえてチープにしているのかと勘ぐらせるCGとか、いたるところにあるツッコミどころというか、情けなさというか、発意のわからなさがそのまま魅力になっていた。
2時間40分は長い。でもこの長くて退屈なところも愛しいというか、おいじじい! 話なげーよ!
イマジネーションが凄すぎる
あの震災後の作品だということもあって、並々ならぬ制作の熱を感じる作品だった。ありとあらゆるイメージを自由奔放に組み合わせて、見せよう伝えようというよりも、とにかく今感じているこの思いのすべてを集約させようという意志を見た。
物語は長岡という地が中心となっているけれど、近代日本はあらゆる惨禍を経験しながら今に至っていて、多くの人が哀しみと共に生きているんだなぁとしみじみ実感できた気がする。
この映画は長く果てしない旅に出る気持ちで見なければ、決してついていけない。しかし、物語のうつつに取り込まれてしまうと、長い旅路へと気持ち良く誘われること必至─。ほとんど理解できなくても、幻想的な雰囲気にのみ込まれて、不思議なノスタルジックに浸って、涙する。
結局、大林宣彦作品が好きな者が、少し怖いけれども魅惑的な世界観に魅了されるだけのような映画のような気がするけれど、この自由すぎる作風が何ともたまらんわけなんです。
奇跡の積み重ねでできたような作品
こちらの「想像」をはるかに超える内容。
これこそ「創造」でしょ!
この作品をつくれるのは世界で唯一、大林宣彦しかいない。
悲しいわけでもないのに、泣くつもりはないのに、
一輪車に乗った生徒たちの「さよーならー」で
まったく自分でも意味が分からないけど、号泣した。
後にも先にも、あんな感情になったのは初めてでした。
戦争と平和と原発。
東日本大震災直後に長岡市に訪れた女性ジャーナリスト。
震災を取材に来たはずが、いつの間にか1945年に長岡市で被害を受けた、長岡空襲の話になっていきます。
あの時の悲劇について、歴史を追いかけることになった女性記者。
震災以上に、この地に残された戦争の爪痕が深刻な状況に息を呑みました…。
その当時、投下される爆弾の威力は壮絶で、町の人々を次々に死に追いやらました。
独特な世界観と豪華キャスト、戦争映画とは思えないほどの鮮やかな映像とバラバラな時代設定に、大林監督のこだわりを感じました。
もはや映画ではない。
「じじいが凄いことをやった」というレビューを見て発奮し
大林御大自らがフィルムと共に来場をされたホールでの鑑賞。
そっち系の市民団体の主催なのが気に入りませんでしたが
「転校生~さよならあなた~」でフレームが常に傾いていた如く
偏りまくっている最近の作風を体現しているようなつくりでした。
まあ、思想はさておいて、作風はもうハチャメチャ。
おそらく、脳内で思いついたことを、
実際にやってみたらこうなったという
じじいの妄想力全開の作品に仕上がってました。
「あの、夏の日」ではあの菅井きんを
「理由」では犯人を空に飛ばしたように
今回もラストは誰か飛ぶんじゃないかとハラハラしました。
やはり、映画の魔術師大林宣彦。
老いてなお、壊れまくり。
この調子でどんどん突き進んで欲しいです。
「野のなななのか」と対になる作品
関西公開初日に観て以来,その後何回か劇場で観てる.良くも悪くも評判聞いていたが、予想のはるか斜め後ろの虚数倍を行く、もはやフィクションなのかドキュメンタリーなのか、映画なのか。大林宣彦作品らしく好き嫌いはっきり分かれると思うが、これは観とくべき.
CGで何でも可視化できる時代に「声(言葉)」の映画と事実上宣言する潔さ.想像力こそが人の知性として「想像しろ」という強烈なメッセージが,「3.11にショックを受けた」と言って次々に東北にカメラを持ち込んだ凡百の監督たち(e.g. 園子温)とは一線を画している.
みんなが爆弾なんかつくらないで、きれいな花火ばかりつくっていたら、きっと戦争なんか起きなかったんだな。
「時をかける少女」「ねらわれた学園」などの青春SF、尾道三部作、青春映画の至宝「青春デンデケデケデケ」…多くの名作で知られる大林宣彦。
実験的な作品やユニークな手法の作品も多く、本作はその類。
空襲。
模擬原子爆弾の投下。
中越地震。
幾多の人災や天災に見舞われた新潟県長岡市。
その一方で、東日本大震災発生時は福島県南相馬市の避難民をいち早く受け入れ、そして長岡花火が打ち上がる。
「長岡の花火を見て欲しい」という元恋人の手紙に心惹かれ、長岡を訪れた新聞記者・玲子は、不思議な体験をする…。
あらすじだけ聞くとドラマチックな内容だが、フィクション、ドキュメンタリー、演劇、一部アニメーション挿入などあらゆる表現法を駆使。
膨大な台詞の応酬、延々と流れ続ける音楽、説明的な字幕、突然カメラ目線で語りかける登場人物。
過去と現在が交錯、展開がめぐるましく入れ替わり、幻想的なタッチで160分の長尺を見せきる。
大林宣彦の意欲的な精神に圧倒され、見た後放心状態になるも、心地良い余韻が残る。
かつて長岡の空は、空襲や模擬原子爆弾の投下で、今も人々の脳裏に戦争の傷痕が残る。
その空に咲く花。
長岡花火は平和への祈りと願い。
人々の込められた思い。
長岡に空襲があった事を知らなかった。模擬原子爆弾の存在すら知らなかった。
しかし、決して忘れてはならない長岡の記憶。
松雪泰子、高嶋政宏、原田夏希、笹野高史、柄本明、富司純子ら豪華キャストの中、とりわけ印象を残すのが、一輪車の女子高生。
物語上でも不思議な存在なのだが、終始一輪車に乗り、まるで自分の足のように自由自在に操り、スッゲェ〜!
完敗。感涙。
ぶっ飛んだ傑作だと思いました。
この物語が事実に基づくこということが、
胸に突き刺さる思いでした。
震災と戦争という同じ悲劇を、交互に取り上げながら、本質と根本の違いをこれでもかと史実と独創的な映像世界で叩きつけられ、気づけば大号泣・•・。
参りました。
これまでにない映画体験でした。
ヘンテコな映画でもあったと思います。
この映画が世間的にはほとんど知られてないというのがとにかく残念です。映画好きでなければおそらくたどり着けないと思います。ぜひとも、学校などで放映し、多くの人の人生の糧になってもらいたいと思います。
長岡の花火観に行きます。
全23件中、1~20件目を表示