「冒険主義と反戦思想に空費された才能を悼む」この空の花 長岡花火物語 徒然草枕さんの映画レビュー(感想・評価)
冒険主義と反戦思想に空費された才能を悼む
1 技法面について
監督が通常の商業映画の技法には収まらない、さまざまな技法を試みていることはよくわかる。いわば冒険主義である。登場人物が会話の途中からカメラに向かって話し始めたり歌い始めたり、意味不明な設定とその急展開、短絡的なストーリー等々は、映画の約束事を破壊したいのだろう。安っぽい特殊効果なども、意図的に採用しているはずだ。
破壊そのものが自己目的では意味がなく、問題はその効果だ。ドラマの中で会話している人物が突然、カメラに向かい話し始める意図は、恐らく舞台演劇の手法を映画に持ち込むことにある。
これは面白いことは面白いのだが、何度もやられると食傷するし、映画は舞台ではないのだから効果が限定的なうえ、作品はドラマ性を希薄化させ、俳優は何のために演じているのかわからなくなる。
そして滑稽なのは、その約束事の破壊とやらも、何作も見ているとパターン化されているのがわかり、約束事を破壊するための約束事を実行しているとしか感じられなくなってしまうことだ。
薬師丸の「ねらわれた学園」クライマックスの子供の落書きのような特殊効果が、本作のB29による長岡空襲シーンにも使われているのを見て、どこに破壊があるのかと訝る観客も多いのではないか。その意味するところは、冒険主義に批評精神が伴っていないということである。
さらに少女や一輪車といったカワイイ小道具を頻出させていながら、それがいっこうに可愛くも格好良くも美しくもないのには言葉を失うばかりだ。
2 内容面、とくに反戦思想について
扱っているテーマが自然災害と戦争という長岡を襲った2つの悲劇と、そこからの復興ということなのだが、メインの復興史そっちのけで反戦メッセージが浮上してくるのは、好き嫌いは別にして不自然に感じられる。
反戦を取り上げるなら、戦争被害を自然災害と等置するのはマイナスでしかない。自然災害と同様、戦争も不可抗力と感じさせるだけだからだ。
致命的なのは、戦争反対と言いながら第二次世界大戦の開戦原因について何一つ触れず、空襲被害の悲惨さだけを取り上げる視点の平板さである。
日本が開戦に至った原因は、アジア、南米、アフリカを蹂躙し植民地支配する欧米列強に伍するべく参入した大日本帝国を、古参クラブメンバーが排除しようとしたことにある。
その不当さを新聞等のメディアがこぞって批判し、政府を戦争に駆り立てたのが開戦の契機であり、その背後には帝国臣民の熱狂的な戦争支持があったことは常識といってよい。換言するならば、ここに登場する長岡住民も軍国日本の戦争を熱狂的に支持したはずで、そのツケを空襲や敗戦によって支払ったのだった。
それを踏まえるなら、現在になって「まだ戦争には間に合う」という反戦連載記事を連載した新潟日報が、第二次大戦時にどのように新聞統合させられたか、戦前戦中にどんな記事を掲載し、どのように戦争を煽っていたのか、当時の日本人が鬼畜米英に対しどんな呪詛の言葉を吐いていたのかも取り上げなければ、歴史から何も学べないだろう。
自分たちを何ら責任がないかのような位置に置いて、戦争は悲惨だ、戦争はするなと言ったって、日本人の無責任体質が浮かび上がってくるばかりではないか。
本作で監督がやっていることは、こうした無責任体質丸出し戦争被害者論のオウム返しに過ぎず、大衆レベルの戦争責任を意識しない限り、戦争はまたいくらでも繰り返されることが分かっていない。
他方、欧米列強の不当さに対して戦前の日本人が怒ったのは当然だし、今また中国の帝国主義的拡張主義に対し世界が怒るのは当然だ。その侵略が日本領土に及ぶならば、どうすべきか。戦争は絶対悪ということで済ませられるのかという現実問題に、やがて日本は直面するだろう。その時にはこの映画で展開されている感情的戦争キライ論など、オママゴトの類に過ぎないことが露呈するに違いない。
本作では「想像力」という言葉がしきりに繰り返されるが、作る側に想像力どころか基本的な歴史のお勉強が足りていないのである。
3 まとめ
大林監督は紛れもなく繊細でリリカルな感性をもった、優れた監督である。「同級生」や「異人たちとの夏」「廃市」を見れば、それはよくわかる。その才能を、あたら批評精神の伴わない冒険主義や不勉強な反戦思想で無駄にしたのを、一映画ファンとして残念に思う。