シン・エヴァンゲリオン劇場版のレビュー・感想・評価
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最高すぎかよ!
映像の作り込みだけでも観る価値有り
思春期・ヤマアラシのジレンマ・孤独への葛藤の物語。
かつて第3次アニメ革命を起こしたエヴァンゲリオンが帰ってきた。そして完結した。
変わらずみる人を選ぶと言うかエヴァらしいと言うか…エヴァに耐性が無い人には辛いかも知れません。ストーリーの解釈は色々あると思いますが、主人公たちの14歳で止まった時が葛藤と成長を経てラストで時が進み未来に向かっていく姿をみることができ感無量でした。待った時間だけファンが考察し、語り、それぞれのエンディングを思い描いていた作品だとも思うので賛否両論も極端な感想もあるとは思います。しかし私は満足です。
おめでとう!ありがとう!さらば!
終わらせることだけを目指した映画
「エヴァQ」から8年強。Qの正当な続編であることはいうまでもなく、テレビシリーズから続く「恒例化したエヴァ」を終わらせるための映画。
ひとことで考察するなら、映画内に存在する複雑、奇形化した「語りうるエヴァ」を登場人物たちに全てを無理矢理押し付け、各々の物語を主観的、あるいは客観的に語らせ、ある意味で終わらせることにより、「作品としてのエヴァ」を完結させた映画。
ベタベタなメタフィクションを持ってして、キャラクターたちによる、がんじがらめになった毛玉の中から、一本ずつ糸をといていくさまは、期待を裏切られた感は否めないものの、物語としては一応成立はしている。
つまりこの映画、結局はキャラクター達の物語でした、みんなの期待するエヴァはどこにもありませんでしたと白状しているのだ。
結果として、エヴァという得体のしれないものはせいぜい作品を象徴する、ある種のシンボルマークに過ぎなかった。
一方で、アクションシーンに関しては度肝を抜かれた。
オープニングでは、赤く染まったパリの街を背景に、オブジェがこれでもかと自由自在に飛び回る。
もはやどの距離にもどの角度にもオブジェを動かすことができることをさまざまと見せつけられた。
画面すら余裕で飛び超えてくる迫力満点の動きのすさまじさはここ最近のアニメーションでは味わえなかった映像美としての「動」であったことは認めざるを得ない。
でもまあ二回目は飽きたし、あまりにビュンビュン動き回るものだから目で追いづらく、しかもめちゃくちゃ光るから捉えづらい。迫力だけが取り残されて、本来大きくて重いものが、ちゃっちぃものに見えてしまったのは、自分の目が慣れていないからなのか。
まあ欠点は目につくものである。そんなことよりも復興の街を描いたところがこの映画で最も評価できるところなのだ。あれがなければエヴァに希望も何もあったもんじゃない。
そして自然。あれだけ自然を蔑ろにしてきたはずの庵野がキャラクターをうまく自然に組み込み、映画として守られるべきものを見事に表現し、美しい時間を演出した。
あの街での生活を一生描いていて欲しかったものの、やはり終わらせるための映画として、エヴァは動き出してしまった。しかもシンジ君の豹変ぶりは如何に。自然に興味なしのアスカ。唯一街に溶け込んだレイでさえ浮きっぱなし。自然だけを描写していればいいものの、不器用な予感だけで全てを無かったことにしようとするのはいかがなものか。
まあ結果的には紆余曲折した物語の中で、キャラクターそれぞれの道があることを示すベタな展開は久しく忘れていたし、00年代から用いられてきた、アニメとしての本来のおもしろさを味わえただけでもこの映画は見る価値はあるのではないでせうか。
遂に終劇!!
当時シンジくんたちと同じぐらいの自分も30代の後半に入り、遂に終劇。相変わらず何やってるかよくわからないけれど、やっと心落ち着けるゴールになったと思えた。ゲンドウがシンジの中にやっとユイを見つけ、カヲルくんがループから解放され、レイがエヴァのいらない世界を探し、アスカの心もサルベージされ、シンジくんは巻き戻しも再構成もないエヴァのいらない世界で生きていく。うん。良かった。そしてしっかり歳をとっているトウジとヒカリ、そしてバリカッコよくなっているケンスケ。それぞれがちゃんと大人になっている世界…あれ?あの世界線と最後の世界線はどうなってんだ?と思うけどきっとみんな幸せです!
そう言えばマキって結局何なんだっけ?
少年から大人へ
それぞれが辿ってきた「序」からの14年という想いと感情を描き、碇シンジがその想いを受け止め、それをどの様に還すのかを描いた作品だと思います。
世界(社会)はそれほど悪いもんじゃないってことかな。
ただし「序」「破」「Q」を観ないと意味が分かりません。
一時代の終わり
長い!
ファンの四半世紀も巻き込んだ壮大な作品
エヴァンゲリオンは昔からこうでした。
小難しい言葉を並べ、中二病に浮かされて意味を探り、概念と真実、虚構と現実を織り交ぜて
通常人にはわけのわからないストーリーが展開されます。
エヴァはどういう人のための映画なのでしょうか。それはわかりきっています。
子供向けのわかりやすいストーリーに難解なセリフを織り交ぜられ、謎の結末を迎えた旧作に対し、
中二病に浮かされて聖書を読み、様々な考察を重ね、心理学に手を出し、はてなき議論を重ね、
余人にはわかるまいと自分やその周囲を選民思想のように持ち上げてきた。
そして、普通の人からは「キモヲタ」と見做されつつも、逆におまえらのような薄っぺらい事は考えていないと嘯いて、
やがて、そんな鬱屈した少年時代からそれぞれの成長をへて「大人」になった人たちのための映画です。
人によっては目をそらしたいような過去から、君は大人になったかい?と問いかけてくるような、
シンジやアスカ達はこういう風に大人になったよ、と、かつての友人の近況を知らせてくれるための映画です。
私とおなじように、キモヲタだったかつての14歳。今やアラフォーのための映画です。
非常にターゲットが狭いものではありますが、自分にエヴァという名の槍が突き刺さったことを幸運に思います。
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・カップリング
トウジとヒカリがくっついていた!・・・って、何が意外なのか。
いやシンジ視点なら意外だ。発言主のケンスケ視点ならもっと意外だっただろう。
・第三村の復興っぷりが素敵。
あれは田舎の共同体であり原始のコミュニティです。
身を寄せ合って、それぞれが最大級の社会貢献をしなければ維持できない共同体です。
それだけに弱者に手をさしのべる余裕など全くないはずです。働かざるもの食うべからず。
コミュニケーション能力がなければ簡単に爪弾きにされるという田舎の気風が増幅されているはずで、
それならば事情はどうあれぐったりしているシンジや、物事を知らない黒波には地獄なはず。
そこの住人が何故あれほどまでに優しいのか……、やはり有力者の後ろ盾の強さだと思うのです。
トウジは真似事といっていましたが、おそらく医師としてかなりの働きをしたのでしょう。
そしてケンケンも充分に共同体の中心部にいるのでしょう。この二人がしっかりと信頼を勝ち得ているからこそ、
うだうだ生ける屍と化していたシンジも、労働力になれない程度の黒波も放置されないのだと思います。よくやったね!
・ヴィレとネルフの人員事情
身を寄せ合って生きていかなければならないレベルの残存人類事情。
なぜそこであそこまで高度な技術力を維持することができているのか。消耗品や素材の調達ができているのか。
再生水が必要になるほど水資源が少ないのに、再生水生成装置を稼働させられるのか。
さらにいえばネルフです。冬月先生が単独突貫しているレベルなのに人手がほとんど見えません。
Qの時にも思いましたが、まさかあの二人だけで運営しているわけではないと思うのです。
すると一体どんな人員がそこにいるのでしょう。食料すら事欠く有様の世界で、政府機構が壊滅しているのに。
気にするのはヤボな点だと思いますが「エヴァを壊した時の修理費用で国がひとつ傾く」程の大量消費ができるシステムが気になりました。
・「後をお願い」
冒頭の書き残し。
ゲンドウからシンジへ。
ユイからシンジへ。
加持からミサトへ
ミサトからJrへ。
冬月からマリへ。
次の世代に託すという意思が感じられます。好き。
・なんてものを見せるのか。
この結末については賛否両論あるのだろうと思いました。
あれだけ押してきたレイかアスカかの話を、ひとつふたつ前にポッと出で出てきたマリが持っていく。
あれだけ分かり合えないと押してきたゲンドウとの関係は対話ひとつで修復していく。
あれだけ複雑だった人間関係を時間という薬で修復する。
時間。そう時間が必要だったのです。
この結末を迎えるために必要だったのは時間です。視聴者の成長です。
なんてものを見せるのか。
当時のターゲットが中二の少年であるならば、広げた風呂敷を畳もうとする今、彼らはすでにアラフォーです。
リョウジやミサトを超え、なんならゲンドウと同じ年齢に近い視聴者も多いのです。
視聴者は帰れるのでしょうか。
エヴァ開始当初、すでにバブルは崩壊していましたが長い不況は予想されていませんでした。
これほどの未婚化も少子化も予想されていませんでした。
往年、エヴァのファンは私同様「キモヲタ」だったわけです。
彼らは結婚できたのでしょうか、子供がいるのでしょうか。
もちろんかつてはキモヲタであっても、努力や幸運と共に人間本来の営みに戻れた人もいるでしょう。
ゲンドウやミサトさんのように次世代に希望を見出し、あるいはアスカやレイのようにこの先に希望を見出し、
なんならシンジのように未来に希望をもって旅立っている人もいるのでしょう。
しかし、あの頃のキモヲタのまま今を生きて、さらに若さまでなくした視聴者にはどのように響くのでしょうか。
エヴァは、レイやアスカと共に二次元に投影した自己の承認欲求を求め、それにこたえてくれる話ではありませんでした。
ほとんどの層はそれぞれの定義で「大人」になっており、このメッセージに対処する方法を得ているでしょう。
しかして「なんだこの結末は!」「こんなもの求めていない!」そう思った人も少なくないようです。
願わくば、荒廃した人類の中でも生きるしかないと第三村を開拓した人々のようなたくましさが備わりますように。
//ここからは本格的にネタバレです。ネタバレを気にしない未視聴の人は見てからどうぞ//
・シンジの話
シンジ君の不幸は周囲に導いてくれるまともな大人・話を聞いてくれるまともな大人がいなかったことにあります。
シンジ君は 実の父母を含めて大人から目をそらされ続けていました。
スパロボのシンジ君は「周囲の大人に話を聞いてもらえる、導いてもらえる」という状況にあれば普通に優秀です。
(だってシンジ君はユイとゲンドウの子供なのです。遺伝子的に超優秀なのでしょう)
精神状態最悪の状況とはいえ、一か月以上もの放置期間と、ただただ待っていてくれる拠り所を置いておけば回復します。
この作品において、たまたまとはいえ、自分の中で心の整理をつける時間と見守ってくれる大人・仲間がいたのは僥倖です。
情報を集め、時間があり、心に余裕があればシンジはとても優秀なのです。
・レイの話
Twitterでフォロワーさんのつぶやきが完全に突き刺さったので少し砕いて紹介します。
「ハートに巻いた包帯をゆっくりほどいたのはそこらへんのオバちゃんとネコ」
黒波もポカ波も大好きです。そしてタイトル回収のネオンジェネシス。
ポカ波が向かった先は新世紀の世界だったのでしょうか、それともパンを加えて走ってた方でしょうか。
エヴァに乗らなくていい世界、つまりはパンを加えて走っていた方かもしれません。
シンジに必要なのが時間と環境だったのならば、黒波に必要だったのは人間関係と学習だったのかと思います。
・アスカの話
ケンスケはアスカと同居しています。アスカの住み慣れっぷりとケンスケのアスカ全裸対応からしておそらく前から一緒に住んでいたのでしょう。
一緒に住んでいるどころか、もうかなりの仲です。
しかしアスカ、加持さんのときといいケンケンといい、
自分を子ども扱いしてくれてなんでもできる系の要領がよい。能力として器用でも、生き様な不器用な男が好きですね。
ってことで、家事万能で、エヴァに乗って戦えていて、コネも社会的後ろ盾もあるので生きていきやすい状況にありつつ、
でも自暴自棄で自責他責に囚われてうだうだ悩むシンジはわりと好みのタイプだったわけです。
なので、うだうだ悩みすぎて気力が尽きてしまい「なんにもできない」になるとその時点で好みの対象ではなくなるのです。
好きだった相手が嫌いなタイプになるというアスカ的には一番ムカつく状況だったんじゃないでしょうか。
ケンケン宅での無防備なアスカも、浜辺のむちむちアスカもいいです。今回はがっつりサービス要員。
アスカが無頓着な性格ということではなく、ケンケンとシンジにめっさ気を許しているから、だと解釈したいです。
・マリの話
「破」の冒頭でマリは「自分の目的のために大人を利用するのは気が引ける、と言っていました。
マリの目的は何だったのでしょう。イスカリオテのマリアという名前から聖書からマグダラのマリアだいや聖母だ、イスカリオテのユダだ、いや、マティアだ。
などという役割についての話がSNSにありますが、
ゲンドウの目的がユイに会いたいことであり、アスカの目的が自分を認めてほしいということであり、それらの個人的な目的はそれぞれの大義名分とは異なるエゴにあったのです。
では、マリの個人的な目的はなんだったのでしょうか。
漫画版ではマリはユイが好きだったそうです(漫画は未読なので、ここらへんは伝聞です)
ゲンドウは本作の中において、目をそらし続けていたシンジの中に探し求めていたユイの存在を検知して認めました。
マリはおそらく最初からシンジの中にユイを見出していました。「ユイのにおいがする」とかでしょうか。
で、あるならばマリの個人的な目的はユイ(の存在を引き継ぐ)シンジをゲットすることであり、
旧劇・新世紀にいなかったマリが外からやってきて個人的な目的を果たした結果、周囲を巻き込んで良いENDに向かったのでしょう。
・鈴原サクラの話
今回の話題をかっさらっていくのはサクラだと確信しています。
直接の接点はほぼ皆無なのだと思いますが、感情がぐちゃぐちゃになっている描写は多々見受けられます。
それまで寝たきりだったのに、目覚めて数時間でいなくなった患者とナースの関係ではないです。
おそらくサクラはニアサー前のシンジの日常の情報(ひいては写真や動画)の記録を見ています。
幼い頃に自分がケガをした要因、助けてもらった恩人、家族を巻き込んだぶっこわれた原因、それでも今、ヴンダーが動いておりネルフに反逆できる中核。
思い込みと行動力があわさっているサクラなので、おそらく(巻き添えはあったけど)自分の日常を助けてくれたヒーローと、
アーカイヴを基に自分の中で思い描いていた理想像、なんなら夢小説でも書いていそうな夢想と、目の前にいるシンジの行動。
そこらへんの感情がごちゃまぜになり煮詰まって腐った結果、どうしていいかわからない状況だったんじゃないでしょうか。
面白いのはレイとの対比です。
「碇くんがこれ以上エヴァに乗らなくていいようにする」という目的に対して、
だから私が使徒をぶっつぶす。と、いう結論にいたったのがレイなのですが、
「死なない程度に痛めつければシンジはエヴァに乗らなくてよくなる」という超最適解を見つけ出しています。
例えばテレビで、例えば序破で、シンジかその周囲がそれに気づいていればおそらく展開は全く違ったでしょう。
(それはそれで、ゼーレかゲンドウの計画が完遂してしまうのでしょうが……)
///
今からいらんことを言います。
・使徒とは何だったのか。
・エヴァンゲリオンとは何だったのか。
・高次元生命体とは何だったのか。
・カヲル君は司令となって何をしていたのか
・マリの目的とは何だったのか。
疑問は残っているのです。
これ以上の作品は蛇足に過ぎないのはわかっています。
シンジはアスカはマリは、それぞれの道に踏み出しました。
少年少女の物語はこれで終わりでしょう。
そして、ちょうどよいところに神話になれそうな資質を持った少年がいます。
第三村で育っていた「ちょっと話しただけでいいやつとわかる」ようないい少年がいます。
シンジに促され、新世紀を目指して旅立つ少女がいます。
「さようなら」は、また会えるためのおまじない。
ならばこそ「さようなら、すべてのエヴァンゲリオン」です。
これは、凄すぎる…
面白かった。が…
先日やっとの思いで、スケジュールを空け見てきました。
中学の頃からリアルタイムで見てて、やっと終わりを迎えるのか!
と感無量な気分で鑑賞。
終盤、無駄にリアルっぽさを強制してきており、スタジオ撮影なんかは 完全に心が次回作「シン・ウルトラマン」の方に行っているのが分かりました。
旧劇及び漫画やTVアニメ見てない人は完全に置いてきぼり状態なので、まぁ、全部見直して下さい。
まぁ、庵野監督お疲れ様でした。とだけ言っておきます。
お疲れ様でした。
感謝以外の言葉があるのか
にわかファンです。私が小学生だった頃に兄の影響でこの作品と出会いました。今では誰もが知られたエヴァンゲリオンですが当時はどこか得体の知れないコアなアニメファンしか需要がないんじゃね?と思えるような作品でした。それが反対に興味を惹かれ、今の今までエヴァンゲリオンという作品がここまで大きくなった要因だと思えます。当時、中学生になった私は劇場版まごころを君に、を観たときはもう今まで味わったことのない複雑な気持ちになりました。「人間の精神の行き着くところまで行くとこうなるのか…」と、大人になった今、当時の気持ちの表現をすればそんな心境でしたネ。笑 そして時は経ち2007年。衝撃。新エヴァシリーズの開始。序、破、Q、そして最終作𝄇。それまで2〜3年の周期で公開されていたにも関わらず音沙汰が突如消え、さらに延期なども重なって私の脳裏から新エヴァンゲリオンの存在を忘れかけていたある日。今流行りのハ◯スク◯ブで最終作が公開していることを知る始末。Oh my god…。今週末観に行こう…!そして今日、ようやく観賞することができました。(話はさらに逸れますが笑)自宅を出る前に残酷な天使のテーゼをアカペラで熱唱し、映画館に向かう車内でもBGM「残酷な〜♪」と「Fly to the moon」を流しながら「あぁ、今日でエヴァンゲリオンが終わってしまうのか…。」と思うと、おっと…。車内で涙が、。そしてここでようやく本作品のレビューに移らせて頂きます。笑 簡潔にまとめます。予告編も敢えて見ずに、本編を観賞したので冒頭から見入りました。心から泣けるシーンがいくつもあって終焉を迎えるまで何度も涙を拭いました。ミサトさんとシンジくんの関係の修復、アナザーインパクトを止めるべく立ち向かうシンジに心の声を発する鈴原の妹サクラ、幾度となく勇敢な姿を見せつけてきてくれたアスカがまたもや13号機に向かって命を顧みずに立ち向かうシーン、碇ゲンドウとシンジのようやく親子としての心の距離を埋める対面シーン、ミサトさんの死、シンジの成長、空想の世界であるスタジオの背景に写るTV放送時代の描写コマ送りシーンなどは特に泣けました。
まだ14歳という少年がいきなりお父さんに呼び出されてエヴァに乗れ。と言われてから今まで26年。紆余曲折ありましたがこうしてエヴァンゲリオンという超大作が一つの幕を閉じるというこの瞬間を共に過ごせて悲しいような嬉しいような複雑な心境では今ありますが、ですが私が生きてるこの時に新世紀エヴァンゲリオンという作品と巡り会えたこと。心からの感謝と御礼を庵野秀明監督、作品を手掛けたスタッフや声優の皆様方、そして作中に生きる魂の込められた登場人物達。本当に「ありがとう」。新世紀エヴァンゲリオンは世代を通り越してこれからも愛と希望と夢を与えてくれます。
さよならエヴァンゲリオン(強制射出)
本当に、とても素敵で面白い。恐ろしくクオリティの高いロボットアニメをありがとうございました。
次回作エバンゲリヲンに期待してます。
と、庵野監督に言いたい半分。
もうエヴァを作り上げた頃のアニメの時代は終わりを迎えたんですね、お疲れ様でした庵野監督。見事な白旗でしたね。
と言いたい気持ちが半分。
正直、案の定な映画ではあった。
これは多くのエヴァファン()に受け入れられる絶賛される作品だろうとも感じた。
新世紀エヴァンゲリオンを完結したいという気持ち、謎を解きたい、納得のいくハッピーエンドを見たい!これは1990年代、ゴールデンアニメ全盛期、ジャンプアニメやゴールデンアニメで育った世代の描く理想だっただろう。
数多くの王道バトル漫画のように死闘や努力の上に、勧善懲悪な結果を勝ち取り、主人公やヒロイン達がきちんとそれぞれの道を進んでいく。
そんなアニメや漫画、ゲームで小学生時代を歩んだ人たちに衝撃を与えたのがエヴァンゲリオンだ。
明かされないのに深まる謎、自己投影してるはずの主人公はヒーローからずり下ろされ、意志薄弱なまま前も向けずにそれでもブラック企業のような強制労働を強いられていく。
そして、結局はTV版にせよ映画版にせよ周り関係なく自己の中で今までの経験や関わりから自己完結した結論を急に出して終わってしまう。
エヴァに影響を受けた多くのヲタク精神の自己完結型作品が”世界系”と揶揄され、主人公の立場ではなくモブ視点の人々から叩き続けられる要因になった作品でもあるエヴァンゲリオン。
これに納得できなかった人は多いはずだ。
そんなユーザー達に神聖化され、ロボットアニメ、ジャパニメーションの金字塔とされた『新世紀エヴァンゲリオン』ではあるが。作品としてはTV版でも旧映画版でもキチンと完結はしているのだ。
もちろん、視聴者側の気持ちもわかる。毎週魅力的な展開に、深まる謎、変化するキャラクターの精神、素晴らしい作画、膨らみに膨らんでる機体に対して、『おめでとうといったら、もうここで終わりなんです!はい、さようなら!』と突然シャッターを締められて追い出されてしまった。
そりゃまぁ、憤怒もする。
挙句、延々と待たされた映画をワクワクして観に行けば延々と総集編を見せられた上に、ようやく本編が始まった!と思ったら『私に帰りなさい〜♫』である。帰れるかボケェ!ともなる。
そして、更に待たされた先の結果は、再度訳のわからん精神世界に放り込まれた後にエヴァの映画をドヤ顔で見てる自分達を晒された上に『ほらっ、生きてく意思があればどこでも天国なの。さっさと現実に戻りなさい!』からの『気持ち悪い』である。
そりゃまぁ、ブチ切れる。
しかし、こう言ったアニメーションの作り方は別にエヴァだけがそうなわけではない。むしろアニメや漫画、ゲームの所謂サブカル的なポジションにあり、庵野監督らを育てた土壌はそう言った精神的に練り込まれた作品の方が多いし、そんなサブカルの土壌になった芸術や文学の多くも、説明責任など果たさず作者と作品による対話のような作品の方が多い。
むしろ、そんな遊び半分、精神的な対話半分な作品に対し説明責任と完結を追求し続けるユーザーがどこまでも監督を追い詰めた結果が今回の作品である。
1990年代から大衆文化としての面が強くなったサブカルというかヲタク文化であるが、自分たちで作品を解釈完結させれないユーザー達が、視聴者側が完結させろ!説明責任を果たせ!伏線を回収しろ!それができてないからこの作品は駄作だ!と叩く傾向が当たり前になったのもこの頃からである…。
オタク文化が海外でも大きく評価され、アニメがジャパニメーションなどという訳の分からない評価の庇護に落ち着き、オタク文化をクールジャパンなどという薄っぺらい言葉で綺麗に整備されると、オタク文化はよりわかりやすい精神性と美徳と綺麗で理解しやすい造形美を求められてきたし、作品自体もその傾向に迎合しつづけてきた。
そんな作品の多くが当たり前になった文化の中、満を辞して登場したエヴァンゲリヲンの映画に沸いた多くは恐らくエヴァというコンテンツありきで育った世代のヲタク達だろう…。
美しく描き変わった映像、今までと少しだけ違うエヴァ、全ての謎完結に向かうエヴァが今始まったのだ!と歓喜し。
破では、いままでのエヴァをまさに破壊する展開の数々に胸を躍らせ、まさに主人公として成長、変化していく新しいシンジに感動したユーザーが多かったはずだ。
しかし、このシンジは果たして新しいシンジだったのか?ここから個人的には今回のエヴァもエヴァンゲリオンというコンテンツしては完結しない気がしていた。
と、いうのも。前向きになり成長していくシンジやヒロイン。仲間になるカヲル君など、ようは作品を知ってるからこそ”こうあって欲しかったエヴァ”など、スパロボを始め、多くの2次創作で扱われたネタであり。公式のゲームや漫画などでも多々あった。正直、”いまさら”でしかないし。
そうなってくるともうこの映画シリーズ自体が公式が作る二次創作にしか見えてこない。
そして、エヴァという人気作品のコンテンツというよりは、エンターテイメント性を重視し、さらに精神対話を投げ捨てて来たのがQである。
ここでは、主人公に対しても視聴者に対しても不親切で訳の分からない状況が延々と展開される。
いうのであれば、おめでとう!で終わってしまったエヴァの再来だ。
しかし、エンターテイメントとしてはこれは大正解で、案の定当時と同じ手法で釣られた新規ユーザー達はもやもやを抱えたまま考察を重ねに重ね、完結を待つしかなくなる。
この時間が苦痛でもあり、楽しくもあり、コンテンツのユーザー層を広げて定着させるのは。蓋を開けて観たら駄作としか言いようがなかった『ひぐらしのなく頃に』が、未だにコンテンツとして人気があるが、ある意味では証明している…。
そんな風に見事に監督の手のひら、コンテンツを利用した制作サイドに転がされ回った今回の完結編ではあるが…、まぁものの見事に『お前らが見たかったエヴァはこれだろ?』的な二次創作祭りだった。
前向きになった綾波からの、綾波が命や自然と接して人間的な心を得ていく姿、アスカやマリがシンジと接することで恋愛を終わらせていく姿。
なによりも、エヴァという世界観が本来は極めてシンジの主観的、内在面に重きを置き、閉鎖的な空間からの解放のための物語であったことに対する不満が、この映画では早々に世界に存在する人々へフォーカスが移され、世界に対して存在する1人の人間でしかないエヴァパイロット達と、世界の人々達の物語へと一気に視野が広げられていく。
おそらく映画3部作で思考が閉鎖的になり、エヴァしそうになっていたユーザー達はその爽快感に感動するのだろう。まさにエヴァという陰湿的な世界系から開放されたような爽快感を得れたはずだ!
しかし、あえて言えば。そんな内在的な主人公から、視野が開け成長する主人公など。腐るほどみてきた。
むしろ、最近のロボットアニメ…どころか大衆受けするアニメではありがちな展開だ。
かつて碇シンジの物語として解釈されていた世界観が、碇ゲンドウの世界観としてシフトされ、対比され。全ての精神的な柵から解放され、新しい世界歩と踏み出す。
まさにエヴァという呪いからの我々を解放するための作品!という風にも見える。
けれど、今回のエヴァはそんなにしっかりと練られ、庵野監督が作り上げ、二十何年にも及ぶエヴァというコンテンツに対し、庵野監督が初期から考えていた作品の根底に対する解答だったのか。
ハッキリ言ってしまえばNOであろう。
実際、人類補完計画、ゼーレの設定、ヴンダーの設定、各キャラの設定。それらは全て旧設定とはずれてしまっているし、解答に関しても新の設定に対する解答にしかなっていない。
これは庵野監督が現代のアニメーションを取り巻く環境や自身を取り巻くからも、エヴァというコンテンツを進めて無理矢理にでも終わらせなければいけない!というある意味自決に近い意思表示なのだと思う。
エヴァによって大きく世界を変えてしまったアニメを取り巻く環境だが、庵野監督が求めた製作者とユーザーの関係は、皮肉にもエヴァによって崩壊が始まった。製作者が答えを出さないと、いつまでも口を開け続けて待ち続けるユーザー。作品を解釈、追いかける覚悟がないから、分かりやすい声優や作画といったコンテンツに執着し、安易で手軽なCG処理ばかりを絶賛し、製作側の意図や演出を汲めないユーザー。
宮崎駿が作り上げ、1980年代押井守や庵野達が楽しんで切磋琢磨して来たサブカル製作者とサブカルユーザー関係は見事に終わった…。
それでも、そういったコアな製作陣と視聴者の争いから生まれる文化の成長を信じて作られた、kharaと日本アニメ見本市であったが、作られていくアニメは結局何かの後追いをしたような作品ばかり、視聴者も昔のような対話ができるわけでもない。
そんな絶望的な環境の中、生まれた『シン・ゴジラ』に対するユーザーの反応は、おそらく庵野監督が今のユーザー達に感じている答えそのものだったのだろう。だからこその今回のエヴァなのだと思う。
エヴァンゲリヲンという作品は、常にエヴァという作品が止めてしまった各所の説明を進めてきた作品だった。
自閉的な部分から一歩踏み出したシンジ、アスカ、レイ。
ヒロイン達の支えを失い、カヲルという新たな支えを得たが、それすら怖くなり離れようとした場所に現れる冬月。
そして、今回の映画では人類補完計画、碇ゲンドウとシンジの関係、そして14歳で永遠に止まっていたシンジの時間。
これらはコンテンツとしてはまさにどんなに二次創作を繰り返し、ユーザーが針を進めようとしても、結局は初期に戻り繰り返し繰り返しやり直すしかない。
庵野自身が、エヴァという作り上げた絶対的な枠組みを広げない限り、永遠に抜け出せない繰り返しの世界でしかないのだ。
結果、庵野監督によりエヴァはありきたりなロボットアニメとしての枠組みの解放が図られ、各謎についても公式の回答という形で延々と続く考察厨というなの妄想とエヴァ囚われたユーザー達への終止符をうつことになったのが今回のエヴァなのだろう。
結果、14歳のまま時間を止められた多くの碇シンジ達も、大人になった周りの時間を見せられ、自身の時間を捉えてたコンテンツを進められることで、強制的に『現実』を見るしかなくなった。
監督自身がもう有象無象に群がるエヴァを神格化したユーザーと向き合う気力も、対話する気力もなくなり、分かりやすい餌と回答を与えることで『もう追ってこないでくれ』という意思表示のようも感じた。
かくして、映画エヴァンゲリヲンは伝説のアニメではなく、作画や演出が素晴らしいだけのロボットアニメに成り下り、ユーザーは自分たちの望む結末に湧いているのが現状である。
自身の内在的な問題や世界に対する部分から生まれた作品に対して、何十年も追いかけられ好き放題チープな解釈に落とし込まれ続ければ…そりゃ嫌にもなろうというものである。
個人的にはもう終始苦笑いで作品を見るしかなかった…。
なんにしても、お疲れ様でした庵野監督。
今回のエヴァで、アニメ社会に対する禊にしましょう。
ゆっくり休んで、DAICON FILMの頃からのように好きな作品を好きなように作ってください。
人気コンテンツに群がりたいだけの五月蝿いだけにわか達ばかりになったユーザー達の声も、あなたを神格化するばかりで新たな試みもまともにできない後輩達や業界にも、サブカルの未来に苦しむ日々も気にしなくていいのです。
見てくださいあなたの作った『エヴァンゲリオン』に対する絶賛の声達を。
もう、私たちが望むサブカル世界は変わってしまったのですから。
難しかった
シン・ゴジラ作った時叩いてごめんなさい!
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