シン・エヴァンゲリオン劇場版のレビュー・感想・評価
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カヲル君の謎や結末について考察と解説
ざっくりネタバレについて書きます。
・カヲルについて
カワルは『生命の書』にシンジの名前があると言っていました。生命の書は死海文書とは異なりますが、どちらにせよカヲルの発言から読み取るに、その書に記されているシンジの名はQの世界にいたカヲルが書き記したものではありません。(死海文書はゲーム設定ではアダムス、生命の書は謎のまま)
カヲルはこの書によってシンジを知り、そして好意を持ち、幸せにしようと動いていたと思われます。
ここでループ説についてですが、序→破→Q→シン・へと時系列は変わっていません。それと旧アニメや旧劇場版からの作品上で直接の繋がりはありません。
ですが、カヲルの存在によって今までの数ある世界には“エヴァンゲリオン”があり、インパクトが繰り返し起こされていたであろう事は認められるので各作品での世界線については変わっていないとは言い切れません。
今作で、カヲルは何度も自分の『役割』を果たそうとしていた事が語られます。
この『役割』とは“エヴァ世界におけるカヲル”に与えられた役目の事であって、メタフィクションな発言が含まれています。(※追加のメタ表現としてカヲルとの別れのシーンで、新劇のシンジが見ていないはずの旧作でのカヲルとの思い出の場所が映し出されます)
様々な世界があったからカヲルは無数ある棺から世界が変わっては目覚めて、変わっては目覚めてを繰り返してシンジを幸せにしようとしていました。
結果、世界線が違うエヴァの世界は存在していたし、ループしていたかもしれないといえばそうとも言える。あくまでそれは主人公であるシンジがエヴァありきでやり直す事を望んだ世界があったならですが…
私的には作品上の世界ではループは起こってなくて、カヲルだけはループしていた世界から登場してきたという結論です。(カヲルが経験したループ世界の中に旧作のような世界もあった可能性はあり)
シン・エヴァでシンジがカヲルの助けもいらない大人になり、エヴァンゲリオンの無い世界を選んだのでカヲルの役目も終わりました。
・ゲンドウはユイに会えたのか?について。
最後にゲンドウはシンジの中にユイがいた事に気づきました。ですが、気づいたと同時に舞台から降ろされてしまいました。
ユイは破で覚醒により初号機とシンジが同化した時に、シンジの中に入ったと思われます。
結論ですが、ゲンドウはユイと会えていたが最後の瞬間まで存在に気づけなかった。
ゲンドウが裏宇宙でユイを探しましたが会えなかったのは、シンジがアダムスの魂を有し、ゲンドウと同じ存在だった為に生命のコモディティ化?に巻き込まれず、シンジの中に留まっていたからです。
向き合い方が分からず最後まで息子と接触する事を恐れていた為にシンジの中のユイに気づく事ができなかったという悲しい結果です。
最後に気づいた事でゲンドウが報われていたのならいいですけどね、最後の背中がちょい寂しかった。
・シンジがマリと手を取った最後
私としてはレイやアスカやカヲルが一緒の学校、一緒のクラスで楽しく過ごす的なありきたりなエンドがベストでした。マリとは繋がったままレイやアスカとの関係が切れてるのを受け入れてしまうのが正直ツラかったです。
エヴァの無い世界を望んだら、本来エヴァがあってこそ関われた者と『他人』になるのは当然の結果なので、受け入れるしかないんでしょうね。
マリは現実という宇宙でシンジを見つけてくれた大切な存在だろうし、ファーストインパクトが無かったら存在しなかったレイやカヲルが、他人ではあるが人間としてどこかで生きていてくれるだけで良かったと思うようにします。
でも俺、レイが好きだったんだよぉおおおおおおおおおおお!
何でカヲルと一緒におんねん!?どういう関係なんや??似てるって言ってたから兄妹か?恋人ちゃうよなぁ?イケメンと美女でお似合い過ぎやわ。せめてシンジとくっついてえな。オオオオイイイイ泣
おっぴろげ!
今までは秘して花の如く、専門用語や曖昧な表現を散りばめ、ネットやムック本の考察に一喜一憂していたが、今回は違う。
専門用語はあるにせよ、それは飾り。
今までの秘密や曖昧なところをばっさばっさとはっきり明確に、そして具体的に回答を出していく。観客が尾ひれ手ひれをつけてあーでもない、こーでもないと議論していたことが恥ずかしくなるぐらいに。
メインの観客も良い年齢になったでしょう。
人生色々あったし他にやることも一杯あるでしょう。エヴァから卒業してもいいのでは?という監督の声が聞こえてきたように感じた。特に前半部の狙いはこれ。
そのぶん花火大会最後の連続花火の如く
がっつり映画は2時間半。(尺は二の次)
戦闘シーンてんこ盛り。これまでのキャラクター総登場。ファンが待ち望んだベストバウトあり。
もう秘して花はなくなり、後で語り合う楽しみはなくなった。
だけど花火のように見ている間は最高だった!
もうファンして心残りはない。
長年に渡る知的好奇心、スリル、ワクワクをありがとうございました。
I will (NOT) say goodbye
14でエヴァに出会い、旧劇で打ちのめされ
破で希望を見出し、28で完結を迎えることが
できたこと。監督と全てのスタッフに感謝。
心に残ったこと(個人的解釈)
神を殺す=人の世界に進む
槍がなければ実現できない神殺し
そして神が与えた感情(希望or絶望)で
進むのではなく、人間自身の意思で
神(守ってくれるもの)がない世界へ進む。
その決意は美しかった。
好きな人とずっといたい。その気持ちを
抱いた瞬間、黒波と綾波の魂は重なったのではなかろうか。
プラグスーツは白くなったし、魂に刻まれたツバメちゃんの
記憶も、エヴァの綾波に引き継がれていた。
イマジナリーではなく、リアリティで立ち直ったシンジくん
旧劇では他人と向き合うことを選んだ(自分を救った)けど
今回はすでに周りから救われていたから、
周りを救いたいという願いになったのだろうか。
まごころはシンジくんだけではなく
みんなにやっと届いた。大人になったね。
旧劇含め、ずっとユイに会うことが最終目的だったゲンドウ
今作ではユイの存在をシンジに見つけて終わりではなく
母親としてシンジを守りたいユイを見届けることを
補完の中心として望んだ。ユイに会って終わるではなく
シンジをユイと一緒に送り出した。
ゲンドウ、やっと親になれた。
母を持たないから、母の愛という呪縛が
なかったアスカ。旧作のオリジナルから
生まれた式波だから救われた。
シンジに裸を見られてもなんともなかったのに
砂浜で両思いと知った後は赤くなってるの
全てのアスカ派の希望だと思う。
ミサトさん。サービスはもう、ないんだね。
母親としてしてあげられるのはこれだけだった。
じゃあないよ。そのたった一つが
全ての子どもたちを救った。帽子ない方がきれいだよ。
シンジくんとも、健全な別れ方だったし
きっとカジとカヲルくんと農作業をやってるんじゃないかな。
カヲルくん。寂しがり屋で自分も幸せになろうと
してた。超然とした何かではなくて、しっかり心を
もった人間だと知れて、うれしかった。
トウジ、ケンスケ。生きててよかった。
きっと新世界とは別に、ニアサーの縁が繋いだ世界は残って
そこで素敵な家庭を築くはず。
彼らと全てのエヴァンゲリオンにさようならを告げ
僕らはシンジくんとマリさんと
汎用決戦兵器がない世界にやってきた。
エヴァがなくても、幸せになれる。
その掛け声が「行こう」だったのかなあ。
終劇という短すぎる時間じゃ
まとめられないけど、今感じたことは
今にしか書けないので残す。
ああ、終わってしまったんだな!(スッキリ)
さようならは、また会うためのおまじない。
だから、I will (NOT) say goodbye.
「解呪」とは言いえて妙
「エヴァンゲリオンはやっぱりエヴァンゲリオンだった」の言葉通り、エヴァンゲリオンでした。
映画の内容を一言でも喋ればネタバレなってしまいますねこれは……
シリーズの大締めの展開ばかりで、TV版・劇場版(序・破・Q)の各作品の予習は必須です。
エヴァファンなら単純に見ても楽しめますが、予習していた方が最高でしょう。
それくらいキレイに締めています。
自分はネタバレを見てしまうのが嫌だったので即見ましたが、予習しておけばよかったと若干後悔しています……それでも最高だったんですけど。
とはいえ、ネタバレ無しで敢えて言うならば、「解呪」という言葉を聞き言いえて妙だと思いました。
どこの誰が言い出したのかは知りませんがw
シリーズがようやく締められるという作品ではありますが、単なるアニメコンテンツの消化に留まらず、心の問題に整理をつけ、自分自身が一歩を歩き出す切っ掛けにもなりえる内容になっていると思います。
「糧になる映画」として考えれば、大人向けである分、「鬼滅」より良く感じました。
【始まりの物語】
「シン・エヴァンゲリオン劇場版:||」では、新劇場版の「序」「破」「Q」で生まれた様々な疑問や、テーゼに解が与えられていると思う。
「新劇場版:序」で感じたコントラストは、肯定されているのだ。
不安を助長するような対比ではない。
多様性や調和を内包しようとしているのだ。
狭い水槽のなかでも悠々と泳ぐ海洋生物たち。
実は、人も狭い世界でしか生きられないのだが、多様性を維持しながら争いを避け、生活していくことは可能ではないのか。
碇ゲンドウが、争いを止めるためには、補完された人類だけで構成された世界が必要だと言う。
ゲンドウの考え方は正しいのか。
選ばれた人と、旧約聖書のノアの箱舟の物語のように集められた多様な種の記録。
人は神の所有物ではないはずだ。
そして、
人は神の創造物でもない。
神は特定の人を選別して生かし、他を見捨てるのか。
そんな神は、もはや神ではありえないし、神は人の創り出したフィクションで、人も神になることなどないのだ。
宗教を背景にした世界中の紛争も思い出す。
ロンギヌスの槍は絶望を、カシウスの槍は希望を意味していた。
渚カヲルは、「やり直す」と言った。
しかし、絶望と希望などという二元論的な思想で、世界をリセットすることは出来ないはずだ。
世界は、そんなに簡単なものではない。
それに、人は生きる為に絶望を必要としているのか。
絶望を必要としているのは元来、人を傅かせようとする神の方ではないのか。
ありもしない絶望(例えば、地獄に落ちるとか)を示し、神に付き従うことを強制されることに、どんな意味があるのか。
クローンにも心は宿るが、オリジナルとも異なる。
もともといる綾波レイと、「新劇場版:Q」で登場した綾波レイは、姿かたちはそっくりで、仮に碇シンジに心を寄せるようにプログラムされていても、心の寄せ方は違っていたではないか。
プロセスで人は異なる存在になるのだ。
異なる個性を持つのだ。
カズオイシグロの「わたしを離さないで」でもテーマになった、クローンも感情を持つということを思い出す。
再び立ち上がるシンジと葛城ミサト。
「新劇場版:破」の終盤で葛城ミサトがシンジに向かって叫ぶ
「自分自身の願いのために行きなさい!」は、
実は、
「自分自身の願いのために生きなさい!」だったのではないかと改めて思う。
二人は戦う。
動機付けは最初、反発心などつたないものだったが、今は、愛するものや自分自身の願いのために戦っているのだ。
更に、希望は、あらかじめ与えられた希望(カシウスの槍)ではなく、自分達の希望の槍だ。
希望も自分自身で創り出すもののはずだ。
戦いのその先には、何か調和が待っている気がする。
それは、秩序とか、そんな窮屈なものではないはずだ。
多様で調和した世界があるはずだ。
そこには、絶望や過度な秩序を振りかざす神などいない。
運命を仕組まれた子供などあっていいはずはない。
運命は自分自身で切り開いていくものだ。
テレビシリーズで使われたテーマソング「残酷な天使のテーゼ」で歌われるフレーズ「少年よ、神話になれ」に対して、少年は大人になった。
僕は、そう思うのだ。
そして、音楽のリピート記号:||は、何度も繰り返すという意味ではない。一旦、同じ旋律を繰り返した、その先には。別の旋律が待っているのだ。
人は絶望を繰り返してはならないのだ。
そんな意味もあるのではないかと、僕は思うのだ。
※ この物語がテレビで始まった時は、まだ、東西対立の残り香があり、先進国と後進国と呼んだり、格差を南北問題と呼んだり、二元論的な考え方が支配的だったような気がする。
しかし、その後、僕達の世界の抱える問題は複雑化し、環境問題や、個人の重要性も重要視されるようになってきた。
この新劇場版の物語は、このような過程で、大きく進化したのではないかと思う。
長いヒストリーに感謝だ。
アニメ史に名を残す史上最高の傑作
※以下ネタバレ注意
印象としてとてもすっきりまとまっていた。そして何より、キャラクターはもちろん庵野監督のリアルでの25年の成長を描いた集大成としてとても見応えありました。
冒頭のパリ編はとても精巧なCGで戦闘シーンとしてつい見入ってしまった。そこからの第三村の40〜50分は、エヴァシリーズのファイナルとても意義がある。なぜなら、今まで庵野監督は市井の住民については全く描かず、あそこまで村人一人一人にフォーカスしたシーンはなかった。しかし、今までなかったそんな映像を上映時間の5分1くらい割いて何度も反復したことはとても良かった。
さらに、その後のレイのラストの流れも今までの旧作との繋がりをきれいに回収されており文句なかったです。一部の人から「レイいなくなるの早すぎ」と酷評してる人がいますが、そんなことはないです。結局、レイは恋人にはなり得ないし第三者だったという監督のメッセージに気づけていないと思います。
書けばキリがないのでこの辺で終わりますが、とにかく最後の(?)作品として完璧すぎるくらいでした。
ありがとう庵野監督。さよなら、全てのエヴァンゲリオン。
ありがとう、お疲れ様でした。
卒業
感動と喪失感
初日会社を休んで鑑賞。
多くは語りませんが、
ああ、終わったんだな
と、受け止める自分と、
終わってほしくない自分の感情が混ざって
昨日は複雑な気持ちでいっぱいだった。
アスカ推しの私は
式波アスカがそういう存在だったんだ、
ということにショックも受け。
加持との子供と幸せに過ごせずに
やっぱりシンジを大切に想い続け
最期まで務め上げるミサトに哀しみを持ち。
今回の「シン・エヴァンゲリオン劇場版」だけでも
シンジの成長がまざまざと表現されていて
なんだか感慨深い気持ちになり。
いまだに余韻に浸っています。
今回の劇場版4部作での名言は
シン・エヴァンゲリオン劇場版のアスカ
「ここは私が居る場所じゃない。
わたしが守る場所よ。」
これですね。
間違いない。
綾波の
「わたしが守るもの」
ともかかってそうな、
深い、いい言葉。
エヴァンゲリオンは、伝説だった。
けど、
シン・エヴァンゲリオンで、
もうひとつの伝説を作ったように感じた。
ネタバレされる前に劇場で見ましょう
本当にやっと公開されました
絶対にネタバレされたくなかったので、会社を無理矢理早退して劇場へ(笑)
本当にネタバレされずに観れてよかった
エヴァンゲリオン最終回
ずっと待ってました
テレビ版からリアルタイムで視聴していて、その時の衝撃をリアルに味わってきた、かけがえのない作品
本当にエヴァと一緒に育ったようなもの
ずいぶんと長い時間でしたが、終わってみるとあっという間だったし、すごく清々しい気分です
気づいたら自分もいい歳に...
シンジも成長して前進していた、あのラストはありきたりにも感じたし、エヴァらしくないとも感じたけど、とてもスッキリした終わり方だった
まさかエヴァンゲリオンがこんな綺麗に終わるとは思わなかったな
本当に今までありがとう
とにかくこの作品には感謝したい
シリアスなストーリーや、作中の音楽、キャラの精神描写など、自分にとって重なる部分が多く、随分とのめり込んでいたものでした
終わってしまうのはやっぱり残念だけど、この作品は大切な思い出として、心の中に置いておこうと思います
さようならエヴァンゲリオン
ありがとうエヴァンゲリオン
大人になったなと、そう思える作品
シンエヴァンゲリオンは面白かったし、良かったと思っている。
ただ、釈然としない。
エヴァンゲリオンに出会ったのは中学生の時だった。
当時の自分は大人への階段を上っている途中で、大人に振り回されるシンジと自分に同族意識のようなものを感じていた。
大人でも、子供でもない。ましてやヒーローでもない自分にとって、葛藤し恐怖しながら戦うシンジ君は、なんだか手が届きそうで感情移入しやすかったのだと思う。
破のラスト、ミサトさんがシンジ君を送り出すシーンには幾度となく励まされた。
私は物語として、アイコンとしてエヴァンゲリオンを追うようになった。
すべて過去形だ。
大人になって仕事をして、いつしかミサトさんや加持さんの立場で物語を見る視点を手に入れた。
本当にくだらないような、ともすれば現代社会において”よくある”ような話だ。
Qを見たときは、そんな感想を抱いた。
社会は知ろうとしない限り何も教えてくれないし、知識不足で短慮を起こすことなんかよくあることだ。
そしてその短慮を前提に、手ぐすね引いて待っている人がいることも、よくある。
シンエヴァンゲリオンは大人の話だ。
今まで子供のように今ある世界を否定し続けた人々が、今度は今ある世界の延長線上にある未来を夢見ることになる。
大人になると、自分という人間の個が流動性を失い、今あるものを守ろうと躍起になる。
消耗した人間性を補うように、珍妙な新製品に手を出さなくなり、明日の日常を願うようになる。
それが大人になるというものだと実感している最中だ。
シンエヴァンゲリオンは本当にずるい。
自分はひねくれているので中盤まで”くだらない”物語に落ち着いてしまったのだと落胆していた。
しかし私は涙を流していた。
そのことが自分にとってすごく意外のことだったし、困惑した。
だけど、泣くしかないじゃないか。トウジが、スズハラが、委員長があんな風に穏やかに生活しているなんて。
シンジ君にとっては、彼らがもっと過酷な生活をしていて、恨み言を言われた方が楽だっただろう。
とても酷な仕打ちに思える。
その方が自分にとっても、エヴァンゲリオンというものを”青春”のアンチテーゼとして楽しめただろう。
彼らが”小さな幸せ”を体現している風景なんて、泣くしかないじゃないか。
ニアサードインパクトで友人を殺してしまったシンジ君という彼に対しての同情と、忙しさにかまけて友人を切り捨てた自分がばからしく思える。
本当に良かったと心の底から思える。
シンジ君が自分のようにならなくて。
”子供”だった登場人物たちはいつしか”大人”になり、大人としての責務を果たしていく。
ミサトさんをはじめとしたブンダーの搭乗員たちも。
そして、シンジ君も。
クソみたいな最高な、おとぎ話だ。
本当に良かった。
面白かったといえる。
シンエヴァンゲリオンはそんな作品だった。
ただ私の心の奥底には釈然としない気持ちも残っている。
きっと中学生の私がシンエヴァンゲリオンをみたら、納得しなかったしクソみたいな作品で終わっていただろう。
大人になったなと、実感した。
そんな私のエヴァンゲリオンだった。
今感想を書きながら思い出すと、酒とたばこが止まらない。
感慨深く、釈然としない。
そんな話だった。
酔っていて、感情が制御できないので、この辺で。
さようなら 碇シンジくん
人はなぜ生きるのか。
あの小さな村。破とQの後、同級生たちがどうなったのかという説明以上に、そこには、エヴァ全体に流れる「人はなぜ生きるのか」のテーマに対する、作り手の誠実な総括があった。
破壊された世界でありながら、それでも人は懸命に生きようとする。ささやかな場所で希望をみつけようとする。
戦後のバラック、震災後の仮設住宅のようなあの場所で、クロナミを通して、私たちに生命の正しいあり方を思い出させてくれた。
誰かの命令、支配、依存、大義名分は必要ない。自由で自立した魂が心地良いと感じること。生命への愛(=光)に満たされること。すると、この世はなんと喜びで満ち満ちていることだろう。
クロナミはちゃんと自分の魂(=居場所)を見つけた。
ヴィレも同じだ。ヴンダーはクルーたちにとっての居場所だ。青葉シンジと日向マコトのグータッチはさりげないけど、明確にそのメッセージを感じさせる演出だった。
LCL化してひとつにならなくたって、それぞれの人がそれぞれの魂(=居場所)を守ればいい。
自己嫌悪というエゴを脱ぎ捨てニュートラルになったシンジは、もう何かと戦うのではなく、キャラクターたちをそれぞれの居場所へと導いた。
庵野監督は、みなしごとして運命づけられたキャラクターたちに、エヴァンゲリオン以外の居場所を与えたのだ。エヴァに依存しなくてもいい世界、自分の居場所がある世界を。
とりわけ、シンジとアスカとの海辺の会話を私は一生忘れない。
勝ちも負けもない。ありのままのアスカが、シンジの言葉にポッとなる表情を見て私は心から安堵した。つらいことばっかりだったアスカ。母目線の私は、アスカのあの顔がほんとに嬉しかった。このシーンがあることで、ケンケンと幸せになれることを確信できた。
ではシンジの居場所はどこか。
人類救済の聖母マリアに対して、マグダラのマリアは、精油を自分に塗ることでキリストに「自分を喜ばす」という尊さを示した。
ユイの一人子シンジに「自分を喜ばす」尊さを与えてくれる存在・キャラクターがどうしても必要だったのだ。誰かの犠牲者ではいけない。それがマリだった。
どんなに緊張する場面でも楽しそうに歌い、決して自分を犠牲にしたりしない。登場初っ端の「楽しいからいい!」ってセリフが腑に落ちる。
イスカリオテのユダではなく、イスカリオテのマリア。時に大人を欺きながら、シンジと、シンジと伴に歩いてきた私たちに、「これからは自分を喜ばせにゃよ」って言ってるみたいだ。
それにしてもミサトの口調と髪型が戻った時は嬉しかったなぁ。
あぁ、キリがない。「さよなら」は元気にまた会うためのおまじないだよね。涙。
最後までエヴァらしく
すべてのエヴァンゲリオン終劇!
エヴァンゲリオン、最高でした。Qからどうなるか不安でしたが?
シンジの主人公としての決着点は、最高の選択でした。ゲンドウ…ミサト…アスカ…レイ…など各キャラが、光っている演出に感激です。マリが愛おしいと思えました!シンジとマリに……!
ありがとう、エヴァンゲリオン!!
有終の美
やっと、やっと終わった?終わった!
エヴァンゲリオン
まずは制作にあたった全ての人へ賛辞を贈りたい。
本当に素晴らしい作品を、ありがとう。
この映画の感想については、その他の映画と同じ基準で評価を下すことは不可能だと思う。
ただ、庵野総監督によるエヴァンゲリオンの最後として、これ以上のものは無いのではないかと感じる。
一言で言うならば、他人が用意した空想の中にのみ存在する無限の感覚をきっぱり終わらせてくれる作品だ。
別に作者が終わらせる必要は無いんだけど、そこは庵野監督の哲学?優しさ?なのだろう。
メタフィクションに近い演出が見られるが、私が知る限りこれ迄の作品で同様の演出を見た記憶は無い。合理的説明を介して、あくまで作品の世界に留めている点が素晴らしいと思う。
また旧劇と基本的には同じ方向性を持った作品であると思うが、決定的に違うのは作品やキャラクター、ファンに対して愛情があるか否かだろう。
特に今迄のエヴァからは考えられないぐらいキャラクターがはっきりと説明してくれるため、必要な設定は一回ですっきりと理解できる。
だから、ファンは何度も見返す必要もなく、すんなりと終わりに辿り着くことが出来てしまう。
エヴァの呪縛から解放されたキャラクターと我々に残るのは、すっかり大人になった自分の身体と、自分では成長している否か判断がつかない心、そして想像とはかけ離れた現実世界。
そしてそれは、エヴァンゲリオンを知ろうが知るまいが変わらない。
ただこの作品に出会えた我々は、シンジくんと共に、同じスタートラインに立って全く新しい一歩を踏み出すことができる。
その体験は、他の作品では得難いものだ。
…それでも何だか心が苦しいのは、現実世界を生きるのが怖いからではない。
この素晴らしい作品との別れがやっぱり悲しいからだ!
また恋しくなったらレンタルして見返そうかな…。
さよならは別れの言葉じゃないしね!
終わった!
あちらこちらに謎をふりまいて、少年少女の心をかきみだし性癖を捻じ曲げた長い長い物語がこんなに美しく終わるのか。
見にいっといてなんだけど、正直、「こんだけ広げられた風呂敷を畳むのはいくらなんでも無理だろ~www一応終わりっていうんだったら見ないと気持ち悪いしな~…」という気持ちだけで劇場に足を運んだので、驚くほどに折り目美しくきっちりと畳まれて面食らいました。
きれいに畳まれ過ぎて、後半は特に答え合わせのような部分も多かったかなとは思いますが、それもまたすがすがしい気持ちで「エヴァ、終わったな~~~!!!!!」と思えてよかった。
とにかくQまでの「なんでそ~なってるの???」という部分をだいぶ腑に落ちさせてくれるのはありがたかったです。
Qでのミサトの塩対応、もうちょっと説明してあげてよォ~~と思ってましたが、説明しちゃうとシンジ君がまた荷を背負っちゃうからなんとか自分の責任の範疇で、人間たちの力で成し遂げるべくやった親心だったんだろうなとか。
加持の情報も、今回いろいろと明かされましたがなるほど感があって嬉しかった。
カヲルくんがあんなにシンジに好意を寄せる理由も謎でしたが、人と使徒、その渚にいるものとして二つを見続け、生まれ続ける運命である意味を求める自分と、世界を変える決断をすることに迷い続けるシンジくんに近いものを感じて好ましく見ていたんじゃないかな、とか。
シンジくんほっとけない同盟のこの2人が繋がってたのもなんか面白かったです。
それにしても、ド級コミュ障こじらせおじさんであるゲンドウがその心のうち(これ自体はほんとうにしょうもない!!!!!!!!!!!!!!!!!!!)を明かす時がくるとも思っていませんでした。
シンジがゲンドウにやっと向き合えたから、ゲンドウが唯一素直になれる存在であり焦がれに焦がれたユイをシンジの内に見出せたからこそできたことですが、親子がそれぞれを恐れずに向き合って話す、たったこれだけのことに25年。いや~~~ほんとに長かったな~~~お前………。ほんま………。
EDテーマが「One Last Kiss」から「Beautiful World」に移り変わったのもめちゃくちゃ良かった。序の公開時に「シンジくんのことを歌ったにしてはきれいごと過ぎるけど一体誰のことを歌った歌なんだろう」と思っていたけのですが、ゲンドウからユイへ、ユイからゲンドウへ、ゲンドウからシンジへ。また、シンジへ寄せられていたけど見えていなかったいくつもの温かいまなざしの歌だったのかなと思えて。
上映時間は長いけど一瞬たりとも退屈するときはありません。
とにかくいろんなものが良く動くし、動かなくても画面や間が美しい。
シンゴジラでは電車をどっかんどっかんやっておりましたが、今回はお船たちが働いているのもオッ!と思いました。おいその使い捨てたイージス艦建造費5000億円やぞ!
動くと言えば、とにかく女の子たちがみんな良かった。綾波のかわいさはいわずもがな、ミサトリツコはじめとするヴンダーの面々もマリも村のおばあ達もガッツにあふれて素晴らしかったし、なによりアスカが元気だとわたしは嬉しいよ。幸せになってくれよな……。
いろいろ書きたいことは尽きませんが、「おれたちをぐちゃぐちゃにしといてなにポカポカきれいに終わらせようとしてんだよ!!」という気持ちもないわけではないものの、とにかく25年、どっぷり好きだったときはなくてもなんだかんだで翻弄されるのは面白かった。
上澄みしか理解していないぐらいのテンションで追っていたわたしにとっては、とにかく気持ちよく終わらせてくれてよかったなあ!という気持ちです。
突然の宇部とシンクロ率∞というフレーズのバカさは笑いました。なんなん??
ただ、敬意と感謝を捧げます。
エヴァ初心者です。
それなのに、親子の相剋に象徴されるものや人間世界の解決できない普遍的で困難な問題への対処方法やそれを巡る決定的な選択という壮大なテーマがなぜかストンと腑に落ちたような感覚になります。
と言っても、何も知らない癖に知ったかぶって偉そうに語れるほど単純なものなど無いし、局所的なことに限定したとしても軽々に言葉にすることも私には出来ません。
ただ、なぜだか全身で分かったような気にさせられるほど、胸の奥に突き刺さってくる〝とても大事な何か〟が描かれているということだけは確実に伝わってきました。
たぶん、時間が経ち、実社会での経験や見聞を積んでいく中でやっと自分の血肉になっていくような何かなのだと思います。
これだけのものを創り上げるために一体どれだけのアイデアを絞り出し、取捨選択したのか。
それぞれの持ち場で一体どれだけのハードワークがあったのか。
創り続ける間の時間、世に送り出すまでの時間、創作のために削ったであろう家族と過ごす時間、一体どれだけの我慢と根気と理解と感謝があったのだろう。
そういうことを想像するだけで、全身が震えるほど感動しました。
作品の好き嫌いや萌えポイントは人それぞれだと思いますが、こんな体験をさせてくれたということだけで、文句無く敬意と感謝を込めて満点を捧げさせていただきます。
以上。
(追記)
映画の内容とは関係ないのですが、スズハラトウジという名前。
私の大好きな村上龍さんの小説『愛と幻想のファシズム』の主人公と同じなのです。
小説では、鈴原冬ニというカリスマ性のあるハンターと相棒的な存在ゼロによる日本統治までの過程などが描かれていきます。
監督のアイデアに少しでも影響があったのなら、それもまた嬉しいな、とひとりで喜んでます。
そういえば、ゼロの名前も相田剣介(アイダケンスケ)。
エヴァの登場人物の中にいたような…
どうやら一定のリスペクトを感じます。
今度、小説も読み直してみよう❗️
(追追記)
この作品、なんだか派生的に色んなことを考えさせられます。
厳しい父とその息子の葛藤と成長の物語。
十戒における厳しい神とモーゼの関係もひとつの象徴だと思うし、星一徹と飛雄馬なんかもそうでした。そして、いつでも周囲を巻き込んだ壮大なドラマになります。
もしかしたら、ウジウジした感情やトラウマもドラマにして浄化してしまえ❗️という男の悪あがきなのかもしれないですね🤗だとしたら、この悪あがきの創造パワーもなかなか侮れない。
最近は、どちらかというと優しいお父さんのほうが多いので、碇親子の関係性からはなんだかレトロな温もりを覚えました。
それに比べると、母と娘という関係は、周囲を巻き込んだ大騒ぎ⁈には至らず、割りと身近な世界の人間ドラマやコメディで描かれることが多いのではないでしょうか。
母と娘が世界を巻き込んで大喧嘩❗️なんて映画は意外と新分野になるかもしれません。
全ては宇部から始まった
仕事で3年半宇部に住んでいた。
同僚がやたらとエヴァが凄い観てほしい!と云うので付いていった。
宇部の寂れたアーケード街の片隅にこれまた昭和レトロの小さな映画館で『シト新生』を観賞。
TV版も観ていなかったけれどカットアップの斬新な編集や明朝体のタイポグラフィでたちまち虜になった。
次の週末地元福岡に帰り、全て録画しているという友人宅に押し掛け24話ほぼノンストップで観賞。
そして宇部へとんぼ返り。
それからずっとエヴァを追い続けてきた。
その間、躁鬱病にかかり、自死も考えるほど酷い状態に陥ってきたがエヴァを観ることで精神の安定を何とか保つことができた。
エヴァを知る前はアニメをどこか馬鹿にしていたからアニメ好きになって良かった。
安野モヨコの絵本を幼児が綾波に差し出したあたりから涙が止まらず大変だった。マスクしているから眼鏡が曇って見ずらいし。
しかしマスクがあって良かったのはほぼ嗚咽していたから表情を見られずに済んだ。
洞木ひかりが安野モヨコで綾波は庵野監督との子どもを意味していると思う。
大人になっていくシンジは今の庵野監督でゲンドウは過去の庵野監督を感じる。
おそらくそうした私生活があからさまな点が鼻につく人は厳しい評価になるのだろう。
私はこの作品&庵野監督との内面とシンクロ率が高いので一アニメ好きとして評価できているのか自分でも怪しい。
どんなラストでも受け入れたかもしれない。
ただ観た人なら気づいたと思うが「おとしまえをつける」という台詞が4、5回出てきて、見事に綺麗な形で終劇の白コマまで見せて(魅せて)くれてとても感謝している。
久しぶりに宇部を訪れてみるか。
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