シン・エヴァンゲリオン劇場版のレビュー・感想・評価
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さよならエヴァンゲリオン(強制射出)
本当に、とても素敵で面白い。恐ろしくクオリティの高いロボットアニメをありがとうございました。
次回作エバンゲリヲンに期待してます。
と、庵野監督に言いたい半分。
もうエヴァを作り上げた頃のアニメの時代は終わりを迎えたんですね、お疲れ様でした庵野監督。見事な白旗でしたね。
と言いたい気持ちが半分。
正直、案の定な映画ではあった。
これは多くのエヴァファン()に受け入れられる絶賛される作品だろうとも感じた。
新世紀エヴァンゲリオンを完結したいという気持ち、謎を解きたい、納得のいくハッピーエンドを見たい!これは1990年代、ゴールデンアニメ全盛期、ジャンプアニメやゴールデンアニメで育った世代の描く理想だっただろう。
数多くの王道バトル漫画のように死闘や努力の上に、勧善懲悪な結果を勝ち取り、主人公やヒロイン達がきちんとそれぞれの道を進んでいく。
そんなアニメや漫画、ゲームで小学生時代を歩んだ人たちに衝撃を与えたのがエヴァンゲリオンだ。
明かされないのに深まる謎、自己投影してるはずの主人公はヒーローからずり下ろされ、意志薄弱なまま前も向けずにそれでもブラック企業のような強制労働を強いられていく。
そして、結局はTV版にせよ映画版にせよ周り関係なく自己の中で今までの経験や関わりから自己完結した結論を急に出して終わってしまう。
エヴァに影響を受けた多くのヲタク精神の自己完結型作品が”世界系”と揶揄され、主人公の立場ではなくモブ視点の人々から叩き続けられる要因になった作品でもあるエヴァンゲリオン。
これに納得できなかった人は多いはずだ。
そんなユーザー達に神聖化され、ロボットアニメ、ジャパニメーションの金字塔とされた『新世紀エヴァンゲリオン』ではあるが。作品としてはTV版でも旧映画版でもキチンと完結はしているのだ。
もちろん、視聴者側の気持ちもわかる。毎週魅力的な展開に、深まる謎、変化するキャラクターの精神、素晴らしい作画、膨らみに膨らんでる機体に対して、『おめでとうといったら、もうここで終わりなんです!はい、さようなら!』と突然シャッターを締められて追い出されてしまった。
そりゃまぁ、憤怒もする。
挙句、延々と待たされた映画をワクワクして観に行けば延々と総集編を見せられた上に、ようやく本編が始まった!と思ったら『私に帰りなさい〜♫』である。帰れるかボケェ!ともなる。
そして、更に待たされた先の結果は、再度訳のわからん精神世界に放り込まれた後にエヴァの映画をドヤ顔で見てる自分達を晒された上に『ほらっ、生きてく意思があればどこでも天国なの。さっさと現実に戻りなさい!』からの『気持ち悪い』である。
そりゃまぁ、ブチ切れる。
しかし、こう言ったアニメーションの作り方は別にエヴァだけがそうなわけではない。むしろアニメや漫画、ゲームの所謂サブカル的なポジションにあり、庵野監督らを育てた土壌はそう言った精神的に練り込まれた作品の方が多いし、そんなサブカルの土壌になった芸術や文学の多くも、説明責任など果たさず作者と作品による対話のような作品の方が多い。
むしろ、そんな遊び半分、精神的な対話半分な作品に対し説明責任と完結を追求し続けるユーザーがどこまでも監督を追い詰めた結果が今回の作品である。
1990年代から大衆文化としての面が強くなったサブカルというかヲタク文化であるが、自分たちで作品を解釈完結させれないユーザー達が、視聴者側が完結させろ!説明責任を果たせ!伏線を回収しろ!それができてないからこの作品は駄作だ!と叩く傾向が当たり前になったのもこの頃からである…。
オタク文化が海外でも大きく評価され、アニメがジャパニメーションなどという訳の分からない評価の庇護に落ち着き、オタク文化をクールジャパンなどという薄っぺらい言葉で綺麗に整備されると、オタク文化はよりわかりやすい精神性と美徳と綺麗で理解しやすい造形美を求められてきたし、作品自体もその傾向に迎合しつづけてきた。
そんな作品の多くが当たり前になった文化の中、満を辞して登場したエヴァンゲリヲンの映画に沸いた多くは恐らくエヴァというコンテンツありきで育った世代のヲタク達だろう…。
美しく描き変わった映像、今までと少しだけ違うエヴァ、全ての謎完結に向かうエヴァが今始まったのだ!と歓喜し。
破では、いままでのエヴァをまさに破壊する展開の数々に胸を躍らせ、まさに主人公として成長、変化していく新しいシンジに感動したユーザーが多かったはずだ。
しかし、このシンジは果たして新しいシンジだったのか?ここから個人的には今回のエヴァもエヴァンゲリオンというコンテンツしては完結しない気がしていた。
と、いうのも。前向きになり成長していくシンジやヒロイン。仲間になるカヲル君など、ようは作品を知ってるからこそ”こうあって欲しかったエヴァ”など、スパロボを始め、多くの2次創作で扱われたネタであり。公式のゲームや漫画などでも多々あった。正直、”いまさら”でしかないし。
そうなってくるともうこの映画シリーズ自体が公式が作る二次創作にしか見えてこない。
そして、エヴァという人気作品のコンテンツというよりは、エンターテイメント性を重視し、さらに精神対話を投げ捨てて来たのがQである。
ここでは、主人公に対しても視聴者に対しても不親切で訳の分からない状況が延々と展開される。
いうのであれば、おめでとう!で終わってしまったエヴァの再来だ。
しかし、エンターテイメントとしてはこれは大正解で、案の定当時と同じ手法で釣られた新規ユーザー達はもやもやを抱えたまま考察を重ねに重ね、完結を待つしかなくなる。
この時間が苦痛でもあり、楽しくもあり、コンテンツのユーザー層を広げて定着させるのは。蓋を開けて観たら駄作としか言いようがなかった『ひぐらしのなく頃に』が、未だにコンテンツとして人気があるが、ある意味では証明している…。
そんな風に見事に監督の手のひら、コンテンツを利用した制作サイドに転がされ回った今回の完結編ではあるが…、まぁものの見事に『お前らが見たかったエヴァはこれだろ?』的な二次創作祭りだった。
前向きになった綾波からの、綾波が命や自然と接して人間的な心を得ていく姿、アスカやマリがシンジと接することで恋愛を終わらせていく姿。
なによりも、エヴァという世界観が本来は極めてシンジの主観的、内在面に重きを置き、閉鎖的な空間からの解放のための物語であったことに対する不満が、この映画では早々に世界に存在する人々へフォーカスが移され、世界に対して存在する1人の人間でしかないエヴァパイロット達と、世界の人々達の物語へと一気に視野が広げられていく。
おそらく映画3部作で思考が閉鎖的になり、エヴァしそうになっていたユーザー達はその爽快感に感動するのだろう。まさにエヴァという陰湿的な世界系から開放されたような爽快感を得れたはずだ!
しかし、あえて言えば。そんな内在的な主人公から、視野が開け成長する主人公など。腐るほどみてきた。
むしろ、最近のロボットアニメ…どころか大衆受けするアニメではありがちな展開だ。
かつて碇シンジの物語として解釈されていた世界観が、碇ゲンドウの世界観としてシフトされ、対比され。全ての精神的な柵から解放され、新しい世界歩と踏み出す。
まさにエヴァという呪いからの我々を解放するための作品!という風にも見える。
けれど、今回のエヴァはそんなにしっかりと練られ、庵野監督が作り上げ、二十何年にも及ぶエヴァというコンテンツに対し、庵野監督が初期から考えていた作品の根底に対する解答だったのか。
ハッキリ言ってしまえばNOであろう。
実際、人類補完計画、ゼーレの設定、ヴンダーの設定、各キャラの設定。それらは全て旧設定とはずれてしまっているし、解答に関しても新の設定に対する解答にしかなっていない。
これは庵野監督が現代のアニメーションを取り巻く環境や自身を取り巻くからも、エヴァというコンテンツを進めて無理矢理にでも終わらせなければいけない!というある意味自決に近い意思表示なのだと思う。
エヴァによって大きく世界を変えてしまったアニメを取り巻く環境だが、庵野監督が求めた製作者とユーザーの関係は、皮肉にもエヴァによって崩壊が始まった。製作者が答えを出さないと、いつまでも口を開け続けて待ち続けるユーザー。作品を解釈、追いかける覚悟がないから、分かりやすい声優や作画といったコンテンツに執着し、安易で手軽なCG処理ばかりを絶賛し、製作側の意図や演出を汲めないユーザー。
宮崎駿が作り上げ、1980年代押井守や庵野達が楽しんで切磋琢磨して来たサブカル製作者とサブカルユーザー関係は見事に終わった…。
それでも、そういったコアな製作陣と視聴者の争いから生まれる文化の成長を信じて作られた、kharaと日本アニメ見本市であったが、作られていくアニメは結局何かの後追いをしたような作品ばかり、視聴者も昔のような対話ができるわけでもない。
そんな絶望的な環境の中、生まれた『シン・ゴジラ』に対するユーザーの反応は、おそらく庵野監督が今のユーザー達に感じている答えそのものだったのだろう。だからこその今回のエヴァなのだと思う。
エヴァンゲリヲンという作品は、常にエヴァという作品が止めてしまった各所の説明を進めてきた作品だった。
自閉的な部分から一歩踏み出したシンジ、アスカ、レイ。
ヒロイン達の支えを失い、カヲルという新たな支えを得たが、それすら怖くなり離れようとした場所に現れる冬月。
そして、今回の映画では人類補完計画、碇ゲンドウとシンジの関係、そして14歳で永遠に止まっていたシンジの時間。
これらはコンテンツとしてはまさにどんなに二次創作を繰り返し、ユーザーが針を進めようとしても、結局は初期に戻り繰り返し繰り返しやり直すしかない。
庵野自身が、エヴァという作り上げた絶対的な枠組みを広げない限り、永遠に抜け出せない繰り返しの世界でしかないのだ。
結果、庵野監督によりエヴァはありきたりなロボットアニメとしての枠組みの解放が図られ、各謎についても公式の回答という形で延々と続く考察厨というなの妄想とエヴァ囚われたユーザー達への終止符をうつことになったのが今回のエヴァなのだろう。
結果、14歳のまま時間を止められた多くの碇シンジ達も、大人になった周りの時間を見せられ、自身の時間を捉えてたコンテンツを進められることで、強制的に『現実』を見るしかなくなった。
監督自身がもう有象無象に群がるエヴァを神格化したユーザーと向き合う気力も、対話する気力もなくなり、分かりやすい餌と回答を与えることで『もう追ってこないでくれ』という意思表示のようも感じた。
かくして、映画エヴァンゲリヲンは伝説のアニメではなく、作画や演出が素晴らしいだけのロボットアニメに成り下り、ユーザーは自分たちの望む結末に湧いているのが現状である。
自身の内在的な問題や世界に対する部分から生まれた作品に対して、何十年も追いかけられ好き放題チープな解釈に落とし込まれ続ければ…そりゃ嫌にもなろうというものである。
個人的にはもう終始苦笑いで作品を見るしかなかった…。
なんにしても、お疲れ様でした庵野監督。
今回のエヴァで、アニメ社会に対する禊にしましょう。
ゆっくり休んで、DAICON FILMの頃からのように好きな作品を好きなように作ってください。
人気コンテンツに群がりたいだけの五月蝿いだけにわか達ばかりになったユーザー達の声も、あなたを神格化するばかりで新たな試みもまともにできない後輩達や業界にも、サブカルの未来に苦しむ日々も気にしなくていいのです。
見てくださいあなたの作った『エヴァンゲリオン』に対する絶賛の声達を。
もう、私たちが望むサブカル世界は変わってしまったのですから。
100点ではない
ネタバレも含みます。
エヴァ全作を観続けてきて、まぁ及第点って率直に感じました。
文才がなく箇条書きで挙げてみます。
かなり方向性を変えて振り切りましたね。そして内容が全部盛り?詰め込み過ぎ?。謎や伏線は放置してでも、もう少しシンプルに雰囲気を大事に制作して欲しかったかな。まぁ情報過多…それが庵野作品ですが。。。
アスカの助演降格、マリの主演昇格、なんか違和感。
話題になっているカップリング問題。
アスカとシンジは破局?していてなんか寂しい気がしましたね。超雑魚サブキャラだったケンスケが、えらく達観したキャラになりアスカとできてるなんて…。そして委員長とトウジ、シンジとマリ、カヲルとレイ…なんだか最近流行りの恋愛ドキュメンタリーみたい。
シンジが活躍するのがクライマックスの少しだけ、あとはいつものグダグダ。
戦闘シーン(特にシンジとゲンドウのバトル)は何か単調で物足りなく感じた。過去シリーズや、破、Qの戦闘シーンの方が躍動感があって見応えがあった。ノアの方舟の役目のヴンダーの戦闘シーンも自分には何か物足りなかったなぁ。
そっくりさんの人の感情学習…ちょっとしつこい。ヴァイオレットエヴァーガーデンに少し被る感じがしました。田植え、風呂、子育て、食事…伝えたい事は何となく分かるが少し長く感じ、間延びした感じがしました。作者は震災や復興の要素を盛込みたかったのかもしれませんが、この部分だけエヴァと言う作品から、かなり浮いた印象でした。
使徒と人類の戦いではなく、結局、ゲンドウのユイに対するわがままな思いで世界を巻き込んで、シンジと親子喧嘩って事かな。
今作のエヴァと敵キャラデザインは、なんかしつこい感じで胸焼けする感じがしました。昔のシンプルでインパクトある個性的な、どこか愛着が湧くようなキャラデザインが良かったなぁ。
冬月、リツコもなんか中途半端は役所でしたね。
高雄コウジ の声優、大塚明夫さんは、やっぱりいい声ですね。スネーク、バトー懐かしい。
たらこくちびるの北方ミドリも好きになれないキャラ。
クライマックスの巨体綾波レイは肌の質感までリアルでクオリティには驚かされました。
エンディングの宇部駅…。強羅駅とかの方が良かったんじゃないかな。
観終えて、いい余韻に浸ると言う感じではなく、モヤっとした気持ちになりました。
まぁ結局、なんだかんだ言ってこんだけ感想が書けるって事は、それだけエヴァが好きだって事ですが、何か?(笑)
いい加減にしろ碇ゲンドウ!でも庵野さん、お疲れ様でした。
エヴァが注目されはじめた当時は「セカイ系」などと評されていましたが、たかが人間が「世界」を変えるなんて出来るはずがない…というのが、先ず言いたいことです。個人的センチメンタリズムで、世界を、社会をメチャクチャにするのは本当に止めてほしいです。人間は世界の中心にいるわけではないし、世界の主人公たり得ないのだと、あらためて言っておきたいです。
とは言え、庵野さんもこの間「成長」され、エヴァもテレビ→映画→序破Qとベクトルが変化していったのも確かです。その変化を、その「落とし前」を見届けるべく、今作品に期待していました。
今回の作品で庵野さんご自身もエヴァから卒業され、あわせてエヴァファンも卒業させた…というところでしょうか。
劇中、ふと「ポスト3.11だなぁ…」と感じました。あわせて、震災のあと、オウム真理教の信者だった指名手配中の容疑者が出頭してきたニュースを思い出しました。
世界は人間の社会の外側に厳として存在し、恵みと災いを、善人悪人の区別なく、いや、人間とその他の生き物の区別なくもたらします。そのスケールを認識しないと、真の意味での「人にとっての希望」は見出だせないでしょう。(加持の企みも、ある意味「人間中心主義」の延長線上にあり、その意味に於いては限界がありますが、無意味だとは思いません)
というわけで、碇ゲンドウの「人間的な、余りに人間的な」部分が語られた本作品ですが、ある意味「ゲンドウよ、よくぞ告白した!」とも思います。庵野さんに置き換えれば「勇気をもってパンツを脱いだ!」というところでしょうか。人間誰しも、若い頃を思い出せば「あの頃、私はウザかった…」という蹉跌はあるでしょう。
ここでふと、機動戦士ガンダムにおけるスレッガー・ロウのフレーズが思い出されました。いわく「人間、若い頃にはいろんなことがあるけど、いまの自分の気持ちをあんまり本気にしない方がいい…」 文脈は異なりますが、そういうことなのかな?とも思います。
思えば、四半世紀にわたり続いたエヴァですが、これでようやく「落とし前」がついたわけです。当日の劇場では私の後ろで三人組の男子高校生が鑑賞しており、ある意味普遍的に、エヴァは若い人たちに評価される作品なんだなぁ…と思いました。であればこそ、庵野さんには「お疲れ様でした!」と言いたいし、あわせて、まだまだ新しい作品を世に出されることを期待します。
庵野氏は8年間なにをやってたんでしょう
スターウォーズに続く衝撃的な最終作
「Air/まごころを、君に」を人生ベストにあげているからこそ、この終わりは、、、
過去作への目配せ、過剰接待、
「このシーンオマージュしたらウケるだろう」という制作サイドの魂胆が見え見え。
考察の隙すら与えない説明セリフの数々。
私が見たかったのはこんなエヴァではない。
突然の拓郎とユーミン。なぜ拓郎?年代が違いすぎるだろ。
ここまで旧作を意識するならもっとやれるだろう。TV版最終回の残酷な天使のテーゼも使って欲しいところ。あとゲンドウ主人公にして旧劇レベルの心理描写をして欲しいところ。
やっぱり「ラブ&ポップ」「式日」の90年代特有の重さがあるエヴァが好きだった。
そうでないのなら全く別の話に着地してほしかった。
旧劇をなぞることで、旧劇の素晴らしさがより際立った。アップデート失敗である。
もちろん映画として面白い部分もある。
急に作画が昔に戻ったら、そりゃ上がる。
単体の作品としては中の上くらいだ。
しかし、エヴァンゲリオンというコンテンツの終わりと考えると、20年弱追ってきてその報いがこの有様か…
破の後半あたりからじわじわ感じていた「旧劇で終わっていれば…」が現実に。
そして最後の「終劇」でイラっとした。
とてもおめでとうとは言えない。
(アスカ×トウジは公式実写であったから×ケンスケも別に、、、耐性がついていたのか(あと惣流ではないことが分かったからもうどうでもいい))
(やっぱりエヴァに大塚明夫の声は違和感というか慣れない)
追記:
とある人のレビューを見て思ったこと。
これまで壮大な物語、心理学や哲学、聖書にインスパイアされた物語だったのが、最終的にただの親子ゲンカで終わったのがつまらなく感じる所以かも。カセットプレーヤーのくだりも「いや、説明せんでも分かるけど、、、」と興ざめした。
シンジの願いは庵野の悲鳴
この映画で庵野監督はエヴァンゲリオンに決着をつけたが、TV版最終回やAir/まごころを君で描いた世界に決着をつけたわけではない。本当に、ただ単に、エヴァンゲリオンを終わらせただけである。
「ネルフの面々は子供に責任を押し付けてばかり」と批判されたからQで責任を引き受ける大人を描いた。今作では、「結局〇〇ってなんだったの?どういうこと?」と聞かれたからアイデアをふんだんにぶちまけて過剰に説明を行い、TV版で「え?終わり?」と皆を戸惑わせたからハッピーエンド感の強いラストを作った。それだけ。
人類補完計画を進めるNERV、それを止めるWILLE。決戦の舞台ははセカンドインパクトのあった忌まわしき地、南極…にあるよくわからない空間…の向こうにあるさらによくわからない空間。シンジとゲンドウは力ではなく言葉で語り合い、補完を望んだゲンドウをシンジが救済し解放し、責任を引き継いで自分の願いを果たした。その願いとは、エヴァンゲリオンのいない世界。チルドレンが幸せになれる世界だった。
というシンジの願いは、庵野監督の願いだったんでしょう?TV版をハッピーエンドで〆た、Air/まごころを君にで丁寧に人類補完計画を描いた。これでもみんな文句ばかり言うものだから、邦画でよく見る『何も解決してないけど解決した雰囲気を出した見てくれだけのハッピーエンド』を作って、エヴァンゲリオンもすべて消去して終えた。
シンジとゲンドウの戦いで書き割りが出てきたのはこの映画がただの虚構であることを示すため。ゲンドウにアスカ、カヲルがこれまでにないほど客観的に自身の心情を饒舌に語るのも、外側の視点を作中に導入した結果。エヴァンゲリオンはフィクションであり、それを構成しているのは私の趣味か意識である、と庵野監督は主張しているのだ。
とにかくエヴァンゲリオンにけりをつけたくて、エヴァンゲリオンを終わらせたくて、申し訳程度に人類補完計画やらなんとかインパクトを盛り盛りに描いて、最後はよくある展開を模倣しつつ物語を着陸させた。「なんやかんやあってみんな幸せになって暮らしましたとさ。おしまい」を地で行った作品。
ただ二人だけ、シンジとマリだけはエヴァンゲリオンの外に飛び出した。シンジがアスカともレイでもなく、破で突然登場したポッと出の女と結ばれたのは、庵野監督がエヴァンゲリオンの外側から来たる救いを求めていたから。アスカとレイがシンジに抱く偽りの愛(=fanaticの愛)ではなく真実の愛がほしかったから。
エヴァンゲリオンの中にいたのでは幸せになれない。外にいる誰かが助けてくれない限りは。庵野監督は誰かに助けてもらったことにしてエヴァンゲリオンから抜け出した。抜け出す際に大人を大人として描き、悲劇のチルドレンに幸せを与えたのは、シンジと同様に庵野監督も責任を果たしたかったのだろう。終わらせなければ終わらないのだから。
つまるところ、庵野監督はこの映画を通して「私は好きにした。君らはもう大人になれよ」とファンに伝えているのである。シン・エヴァンゲリオン・ユアストーリー。
正直、今ほど熱心なエヴァファンでなくてよかったと思ったことはない。神話ベースのSFは物語の本筋にはなく、マクガフィンどころかすべてノイズ。青春映画でいったら海に向かって石を投げるレベルの閑話。なくてもよいがあるとキリっとする程度の要素。TV版や旧劇場版を批判してSFの完結を待ち望んだファンはこれからもエヴァの呪縛に苦しむことになるだろう。
そして、シンジたちチルドレンに自己を投影していたファンは一人エヴァンゲリオンから脱出した庵野監督を見てどう思うのか。彼らに運よくマリが現れることがあるのだろうか。もしかしたら補完されたかったのではないだろうか。ならばエヴァの最終回としてふさわしいのはAir/まごころを君になのだが…。
なんだかよく分かんね
ごめん
なんか長い間待ったのがこれなのは正直がっかりした。なんかもう悲しいってなった。
流れを書くと
おーシンジくん→シンジさん!foo! I →は?シンジ→気持ち悪い
って感じ
旧劇エヴァのアスカの気持ちがわかった気がする。期待値を上げすぎた自分に後悔してる。
ただこれだけ。ミサトさん&ヴィレはカッコいい
やはりテレビ放送分と旧劇場版の方が完成されていると再認識したのみ
長年のファンとしてやはり完結した事には感謝感激です。
ただ、序、破、Q、と新劇版を見てきましたが、旧作ですべて完成されていると思っている私としては、やはりテレビ放送分と旧劇場版の方が謎の伏線や回収のバランスなども含め、無駄なく完成されていたなと再認識しただけでした。
この新劇版は、やたらごちゃごちゃと新たなキャラや新設定を入れ込んだものの、その多くの新設定が物語の中では説明不足&消化不良で、そこそこ旧作では知識オタだった私ですら解説動画などを見ないとよく分からない内容になっています。
うる星やつら「ビューティフル・ドリーマー」のオマージュ的な街全体が特撮のセットだったりするメタ表現などに至っては、この新劇から入った新規の人(少ないとは思いますが)にとっては意味不明レベルでしょう。結局は「アニメなんか見てないでいい加減現実に戻って大人になれよ」ってテーマ自体は基本的に同じでも、物語としては"語り過ぎ"で逆に説教臭さが強くなっているだけ。
結局、ゲンドウはシンジと精神世界でありきたりな親子対話を果たしたところで、ゲンドウは勝手に自分語りに納得して、あっさり計画を断念して途中下車(笑)。人間やめてまでやってきた計画を今さら止めるの?こんな自己啓発セミナー程度の内面語りで満足しちゃうくらいの人間関係の悩みでウジウジし過ぎでしょ、庵野監督。
また、肝心のシンジの復活がご都合主義。まだレイの成長はほっこりしてて良かったが、シンジは終始いじけてただけ。もっとレイと一緒に第三村のみんなと生活を共にして、他者との関わりの大切さや日常を生きていく事の意味を考えさせ、少しづつ自立していく過程を描くべきだった。それなのに周囲の人間が甘やかしているだけだから、シンジがニアサードの責任やレイの死を受け入れて立ち直る「精神的成長」が唐突で説得力が感じられなくなっています。
また今作ではマリが完全にシンジのお母さん的役割を担わされており、やはり旧作にいなかったキャラでありながら、そこまで重要なキャラとして描かれる事に対して最後まで違和感は拭えませんでした。
まあ、とは言え、ちゃんと庵野監督が作品として決着を付けてくれた事にはファンとして感謝しています。あとはそのうち「空白の14年間」を外伝的な作品として見せてくれたら嬉しいです。
ハリネズミ
エヴァンゲリオン、コレで終劇か。
時空の歪みが大きくて、力技で終焉に持っていかれたという感が強い。
結局のところ、人類補完計画とは何だったのだろうか?TV版を見ていたトキは、人間の愚かな負の側面を補うため、全人類が肉体の殻を脱ぎ捨て、魂のレベルで一体となり和合することで安寧を得る、といった辺りなのかなと思っていたが。おそらく、本作の人類補完計画の内容と大きくは違わないだろう。そして、人類が最後に選んだのは、ありのままの人間が紡ぐ世界に身を委ねること、というところだろうか。時にぶつかり、うんざりすることはあるけれど、それを乗り越えていく力を信じて、我々に生きていけということだろうか。
昨日と同じ今日を生きる、変わらない日常の大切さ、というニュアンスを感じる場面があったが、昨日と同じ一日なんてないし、そもそも、この作品の作り手達がそれに耐えられない人間の集まりなような。希望って、手にしたいけど触れられない、もしくは、手にすると痛みを伴う、ハリネズミのようなものなのかもしれない。
昔見たの思い出してレビュー
自分の個人的な解釈では
最後の終わりは結局 ループを抜けて別の世界線に移動した現実てことですかね
世界線を大きく移動したことでエヴァのいない世界にきたみたいなことかな
その今までいた世界は夢という形で昇華した
正直ここまで頑張ってみてもあまり意味はないがっかり作品でした
考察も無駄に多すぎてうっとおしいし
納得できない
劇場は貸し切り状態。1日で6回以上リピート上映され、感染対策も万全で座席は1個あけて満席でも50%しか入れない。そんな対策も杞憂に終わる。一人しか入場してないのに、ディスタンスもへったくれもない。どうやら口コミの効果も無く、世間の関心から置いて行かれているようだ。
そりゃそうだろう。だって世界中がウィルスに振り回され、これ以上ないディザスターが起きているのに、アニメの世界で人類の危機なのか福音なのかよく分からないシロモノを見せられても、しょせんは作りごとにしか思えない。
今回、劇場まで足を運んだのは、『ヱヴァンゲリヲン新劇場版:Q』で描かれた、この世界が展開する可能性について少し興味がわいたのと、好意的なレビューによるものだ。始まりのTVシリーズで何とも消化不良になり、のめり込んで見続けた劇場版で謎は余計に深まり、『シン・ゴジラ』にまで足を運ぶようになった身。「その落とし前をつけるにふさわしい」というようなレビューには期待をそそられた。
しかし、見事に期待を裏切られた。
ストーリーは非常にシンプルで、かつてネルフを指揮していた碇ゲンドウが目論む人類補完計画を遂行するための、フォース・インパクト発動への一連の活動と、それを阻止すべく敢然と立ち向かう葛城ミサト率いる謎の組織(もはや組織名とかバックグラウンドとかどうでもよくなってしまった)チルドレンたちは反ゲンドウの側について命がけのミッションをこなし、シンジくんは相変わらず体育座りのまま誰ともコミュニケーションがとれない。しかし、ゲンドウの息子であり、母親はエヴァの依り代でもあることから重要なキーパーソンであり、後半、人智を超えた活躍をして世界を救う。または滅ぼす。
生理的に受け付けないような気味の悪さも味わった。さらに、教室のセットの中で暴れる着ぐるみのようなエヴァンゲリオンや、色指定の原画のようなものまで見せられ、デジタルで作画されるであろう現在のアニメに昭和の時代のテイストを醸している。以前、劇場でスクリーンに客席を映して、現実への回帰をうながしたように、所詮はアニメなんですよと言いたいのだろうか。
精緻の髄を極めた画像や、印象的な音楽。もともと魅力のあったキャラクターは深みを増していたと思う。前作までは存在しなかった赤ん坊の存在は、アニメオタクの世代が子育てをするようになったことを示すのだろう。そうなると、チルドレンたちが貞操を保ち続けることに無理性が生じる。アスカが腰をよじって股間を露出してもそこに発情を伴わない無機質な記号にしか感じない。
全ての演出はそれらしく見せるための特殊な効果と言えよう。
かれこれ20年ほど続いた一連のシリーズも、これでおしまいなのか。とても納得できない。だからってこれ以上続けられても…
2021.3.22
主観です
最後はテレビ版と同じだけど、大して意味を持たせてなかったテレビ版のストーリー背景やら書き割りが人気出すぎたせいで監督の中では終わった作品をここまで作らされたからか、テレビ版の主旨が薄くなって変わりに視聴者や製作関係者に対する恨みつらみを新劇版4作目にしたって感じかな。
特に最後の方の実写背景や稽古場というか撮影スタジオの背景は、テレビ版回帰とテレビ版の終わり方に納得出来なかった人達に対する当てつけかと思いました。
CGは相変わらず綺麗なのですが、シンジとゲンドウが戦うところからしばらくは、それまでのCGと比べて安っぽいというかクオリティが下がります。
まぁ、一番の感想は、アニメなんだからテレビ版も新劇場版も深く考えずに見たままを楽しめばいいと思うよ。
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