「作品ではなく作者が一人歩きした映画」シン・エヴァンゲリオン劇場版 K介さんの映画レビュー(感想・評価)
作品ではなく作者が一人歩きした映画
私は大きな思い違いを2つもしていた。
●思い違いその1。
エヴァンゲリオンはシンジやレイ、アスカ、ミサトの物語だと思っていた。
だが違った。
「私、庵野秀明をご覧ください」という映画だった。
解釈、ではない。オーラスのシーンははっきりそう宣言しているに等しい。
庵野秀明の出身地・山口県宇部市の宇部新川駅が舞台となり、成長し声変わりまでした主人公が恋人と駆け出して映画が終わるのだ。
「シンジはわたしです。本作品はわたしの世界観がすべてです」ということだ。
創作の世界では「作品が一人歩きを始める」ことがよくあるというが、この映画は真逆だ。
作品ではなく「作者」が一人歩きしてしまった。
エヴァとは何だ。エヴァとは私自身ではないか。そう開き直れば何をしても許される。
綾波が輪島の千枚田で田植えをしようが、2台のエヴァが中学校の教室内で格闘しようが、碇ゲンドウが精神世界の電車にワープして来ようが、死んだカヲル君がまたぞろ語り始めようが、何でもありだ。
なぜならすべてが庵野秀明の世界観だからである。
庵野秀明の“わたしを見て”を是とするファンには、本作は素晴らしい映画となる。
が、私のように“あんたの頭の中は興味ない。シンジやレイ、アスカが何処に行き着くのかが見たいんだ”という者にとって、この結末は“何じゃそりゃ”なのだ。
●私の思い違いその2。
新劇場版 序・破・Q・:||は、テレビアニメ版・旧劇場版で物語を終わらせることができなかったことに対する贖罪の映画だと思っていた。
「前作は失敗しました。でも今度はちゃんとやり直します」ということだ。
だが違った。
これは贖罪の映画ではなく、25年間のエヴァ全史を肯定し、まとめて終結・卒業するための映画だ。キャッチコピーにある「さらば、すべてのエヴァンゲリオン」とはそういう意味だ。
テレビ版の「おめでとうパチパチパチ」も旧劇場版の「気持ち悪い」もすべてあるべくしてあったシーンであり、渚カヲルとはそのパラレルワールドを渡り歩いて世界を繋ぐ存在で、繰り返される円環の物語の目撃者だというのだ。
…なんといさぎ悪いことか。
(「いさぎ良い」の反対語は「未練がましい」だが、ちょっとニュアンスが違うのでこの変な言葉を使うw)
テレビアニメ版は放送スケジュールに追われ、終盤は作品の体をなしていなかったし、旧劇場版はストーリー的に破綻し、なんとも胸糞悪い「Bad End」になっている。
学生劇団であるまいし、広げた風呂敷を回収できないのはプロの仕事ではない。
私は庵野秀明の天才的感性に大きな敬意を払いつつも、エヴァの過去作品は明確に失敗品であったと思っている。
だから、過去作は明確に否定して決別し、新にやり直した作品を観たかった。
だが、製作者の思いは過去作も全肯定ということのようだ。
これは私にとっては大きな思い違いと言わざるを得ない。
●以下は上の2つの思い違いを踏まえた上での感想である。
・この映画が良かった点
完結したこと自体は本当に良かった。もやもやを引っ張るのが一番よくない。
製作者サイドから「これで終わり」というメッセージを強く感じ取った。
「鬼滅の刃」の原作同様、作品をちゃんと終わらせることは極めて重要なことである。
ラストの駅のシーンでは、まさかまさか、すべてはシンジ(=庵野秀明)の夢だったというオチかと一瞬怖れおののいたが、杞憂だったようだ。
・この映画が良くなかった点
あくまで個人的な思い入れだが、エヴァンゲリオンの肝はシンジとレイである。
綾波がどこに行き着き、シンジがどう変化するのか。それが腑に落ちる結末ならば私にとって「Good End」である。だが本作の綾波はあまりにもはかない。「黒波」が白くなってチュルンと消えるなんてあんまりだ。
また、アスカがクローンであることが明かされるが、このような悲しい存在は、綾波一人で十分ではなかったか。
最後、シンジが救世主と言える存在に成長し、ポッと出のマリがスーパーガールを演じるのに対し、25年にわたってメインキャストを務めてきた二人のヒロインに、このつれない仕打ちはどうなのだ。
結果的にマリがいたから本作は幕を引くことができた。レイ、アスカではなくマリに頼らざるを得なかったのは残念な顛末だ。
そして本作のラスボス・碇ゲンドウがあまりにちょろい。彼が目論む「人類補完計画」の真の目的は妻ユイと再会するという極めて個人的な願望だった。この歪んだ動機のアイディアは素晴らしい。それを支える冬月コウゾウのいかれ具合もいい味だ。
しかしその戦いざま、死にざまのなんと情けないことか。人類滅亡を招いてまでやるつもりのくせに、息子が怖いだの初めて孤独を味わっただの、ヘタレにもほどがある。
余談ながら一緒に映画を観た妻(エヴァの知識は乏しい)は、2時間30分の上映時間の半分はスヤスヤモードだったが、観終わって開口一番「ゲンドウがダメすぎて話にならん」と切って捨てた。おお、意外とちゃんと観てるやないけ、と見直した。
・この映画を理解できたか
裏側に精緻な世界観が構築されているようで感心させられる。
複雑で自力では理解できないので、YOUTUBERによる解説動画などを観て参考にした。
結論としては理解できてもできなくても、作品に対する評価に影響はしないと思った。
アダムスがどうでリリスがどうで、カシウスの槍だ、ニアサードだフォースだ…
ふ~ん、そういうことなんだぁ…。
………で?
理屈がわかったところで話が面白くなり、感情が揺さぶられるわけではない。
・庵野秀明ワールドについて
基本設定は近未来SFアニメである。なのに若き日の庵野秀明の目に焼き付いた原風景をそのまま映像化する手法はいかがなものか。思い切り昭和チックな光景を多用し、精神世界の表現もかなりレトロである。これではエヴァンゲリオンでなく庵野秀明の頭の中を覗いているに過ぎない。“一体これは何を見せられているのだ?”という気分に何度かさせられた。
仮に同じテーマは描くにしても、作品設定上のオブラートで包むのが創作の“作法”ではないのか。ダイレクトに自己投影したいのなら、はじめからSFアニメの衣をかぶるなよと言いたい。
庵野秀明は天才だ。尊敬する。だが、エヴァになると正気を失ってしまうように見える。
よほどエヴァは彼にとって特別なものなのだろう。
だから次作「シン・ウルトラマン」はいい意味で力が抜け、「シン・ゴジラ」に続く傑作になるのではないかと勝手に期待している。
ラスボスとの闘いがまさかの対話だった。
暴力で勝負が決まるモノではないとのゲンドウの言葉通り、最後は二人が深層心理で触れ合う。何とユイはシンジの中に居た。
その事に気づいたゲンドウは勝負から降り、ユイと共にシンジの身代わりとなることを望む。
究極のヘタレオヤジだったけど、まさかまさかの意外な幕切れでありつつ、力で父を殺すより面白かったと思う。
まあ、心までも強い父親を力で屈服させる方が王道だろうが…エヴァは万人受けするものでは無いのだ(笑) 奥様はまともな感性なのである。
ゆっきーさん
共感してくださってとてもうれしいです。
funya_tomoさん
批判的な箇所はビクビクしながら書いたので、そのコメント励みになりました。ありがとうございます。
ひのさん
ありがとう!最高!という感想が多い中なので、同じ感想と言ってくださると私もほっとします。
ナンダバナオタさん
>作者と作品を別物にしなければいけないという発想…
作者の思いはSFアニメのオブラートで包むべきであり、本作はダイレクトな自己投影が過ぎる、という趣旨で書きました。これは表現手法の話です。作者と作品は別物でなければいけないということではありません。
>あなたの好きなキャラクター達があなたの好きな行動をし続けるのをいつまでもいつまでも望む…
私にそうした望みはありません。「綾波がどこに行き着き、シンジがどう変化するのか(を観たい)。」と書いたとおりです。
背中にエンジンさん
ラストまで構想が固まった上での「序・破~」の船出と思っていましたが、4作目最終の〆切直前まで原稿が上がってなかったことが「プロフェッショナル」でやっていました。現場は壮絶だったのですね。
エヴァの呪縛とか、大人になれないとか大げさな事ではなく、「エンタメを作る」と言って始めた新劇場版の最後がコレってどうなの?って思います。
ラストが旧の焼き直しに過ぎないコレでは序・破を作る意味が無かった。
言葉そのものがまさにエヴァの呪縛に囚われた人のそれですね。
作者がいて作品があるので作者の思いは反映されて当然。むしろ作者と作品を別物にしなければいけないという発想自体がアニメ作品を神格化されてませんか?
綾波が白くなって消えた、それで良いじゃないですか。
いつまでも楽しいこと好きなことが続くんだ、俺の好きな綾波やシンジ達のキャラクターよ、期待する結末を見せてくれ?
全然わかってないです。
あなたの好きなキャラクター達があなたの好きな行動をし続けるのをいつまでもいつまでも望むことが結局大人になり損ねているんですよ。
時代も世の中も様々なことが変わったのにまだ昔の大好きな形であることを願うのですか?
現実世界の環境や人間どころか、アニメのキャラクターでさえ同じことをリピートすることに決着をつけたというのに。
成長してほしいものですね