「さよならエヴァンゲリオン(強制射出)」シン・エヴァンゲリオン劇場版 水樹さんの映画レビュー(感想・評価)
さよならエヴァンゲリオン(強制射出)
本当に、とても素敵で面白い。恐ろしくクオリティの高いロボットアニメをありがとうございました。
次回作エバンゲリヲンに期待してます。
と、庵野監督に言いたい半分。
もうエヴァを作り上げた頃のアニメの時代は終わりを迎えたんですね、お疲れ様でした庵野監督。見事な白旗でしたね。
と言いたい気持ちが半分。
正直、案の定な映画ではあった。
これは多くのエヴァファン()に受け入れられる絶賛される作品だろうとも感じた。
新世紀エヴァンゲリオンを完結したいという気持ち、謎を解きたい、納得のいくハッピーエンドを見たい!これは1990年代、ゴールデンアニメ全盛期、ジャンプアニメやゴールデンアニメで育った世代の描く理想だっただろう。
数多くの王道バトル漫画のように死闘や努力の上に、勧善懲悪な結果を勝ち取り、主人公やヒロイン達がきちんとそれぞれの道を進んでいく。
そんなアニメや漫画、ゲームで小学生時代を歩んだ人たちに衝撃を与えたのがエヴァンゲリオンだ。
明かされないのに深まる謎、自己投影してるはずの主人公はヒーローからずり下ろされ、意志薄弱なまま前も向けずにそれでもブラック企業のような強制労働を強いられていく。
そして、結局はTV版にせよ映画版にせよ周り関係なく自己の中で今までの経験や関わりから自己完結した結論を急に出して終わってしまう。
エヴァに影響を受けた多くのヲタク精神の自己完結型作品が”世界系”と揶揄され、主人公の立場ではなくモブ視点の人々から叩き続けられる要因になった作品でもあるエヴァンゲリオン。
これに納得できなかった人は多いはずだ。
そんなユーザー達に神聖化され、ロボットアニメ、ジャパニメーションの金字塔とされた『新世紀エヴァンゲリオン』ではあるが。作品としてはTV版でも旧映画版でもキチンと完結はしているのだ。
もちろん、視聴者側の気持ちもわかる。毎週魅力的な展開に、深まる謎、変化するキャラクターの精神、素晴らしい作画、膨らみに膨らんでる機体に対して、『おめでとうといったら、もうここで終わりなんです!はい、さようなら!』と突然シャッターを締められて追い出されてしまった。
そりゃまぁ、憤怒もする。
挙句、延々と待たされた映画をワクワクして観に行けば延々と総集編を見せられた上に、ようやく本編が始まった!と思ったら『私に帰りなさい〜♫』である。帰れるかボケェ!ともなる。
そして、更に待たされた先の結果は、再度訳のわからん精神世界に放り込まれた後にエヴァの映画をドヤ顔で見てる自分達を晒された上に『ほらっ、生きてく意思があればどこでも天国なの。さっさと現実に戻りなさい!』からの『気持ち悪い』である。
そりゃまぁ、ブチ切れる。
しかし、こう言ったアニメーションの作り方は別にエヴァだけがそうなわけではない。むしろアニメや漫画、ゲームの所謂サブカル的なポジションにあり、庵野監督らを育てた土壌はそう言った精神的に練り込まれた作品の方が多いし、そんなサブカルの土壌になった芸術や文学の多くも、説明責任など果たさず作者と作品による対話のような作品の方が多い。
むしろ、そんな遊び半分、精神的な対話半分な作品に対し説明責任と完結を追求し続けるユーザーがどこまでも監督を追い詰めた結果が今回の作品である。
1990年代から大衆文化としての面が強くなったサブカルというかヲタク文化であるが、自分たちで作品を解釈完結させれないユーザー達が、視聴者側が完結させろ!説明責任を果たせ!伏線を回収しろ!それができてないからこの作品は駄作だ!と叩く傾向が当たり前になったのもこの頃からである…。
オタク文化が海外でも大きく評価され、アニメがジャパニメーションなどという訳の分からない評価の庇護に落ち着き、オタク文化をクールジャパンなどという薄っぺらい言葉で綺麗に整備されると、オタク文化はよりわかりやすい精神性と美徳と綺麗で理解しやすい造形美を求められてきたし、作品自体もその傾向に迎合しつづけてきた。
そんな作品の多くが当たり前になった文化の中、満を辞して登場したエヴァンゲリヲンの映画に沸いた多くは恐らくエヴァというコンテンツありきで育った世代のヲタク達だろう…。
美しく描き変わった映像、今までと少しだけ違うエヴァ、全ての謎完結に向かうエヴァが今始まったのだ!と歓喜し。
破では、いままでのエヴァをまさに破壊する展開の数々に胸を躍らせ、まさに主人公として成長、変化していく新しいシンジに感動したユーザーが多かったはずだ。
しかし、このシンジは果たして新しいシンジだったのか?ここから個人的には今回のエヴァもエヴァンゲリオンというコンテンツしては完結しない気がしていた。
と、いうのも。前向きになり成長していくシンジやヒロイン。仲間になるカヲル君など、ようは作品を知ってるからこそ”こうあって欲しかったエヴァ”など、スパロボを始め、多くの2次創作で扱われたネタであり。公式のゲームや漫画などでも多々あった。正直、”いまさら”でしかないし。
そうなってくるともうこの映画シリーズ自体が公式が作る二次創作にしか見えてこない。
そして、エヴァという人気作品のコンテンツというよりは、エンターテイメント性を重視し、さらに精神対話を投げ捨てて来たのがQである。
ここでは、主人公に対しても視聴者に対しても不親切で訳の分からない状況が延々と展開される。
いうのであれば、おめでとう!で終わってしまったエヴァの再来だ。
しかし、エンターテイメントとしてはこれは大正解で、案の定当時と同じ手法で釣られた新規ユーザー達はもやもやを抱えたまま考察を重ねに重ね、完結を待つしかなくなる。
この時間が苦痛でもあり、楽しくもあり、コンテンツのユーザー層を広げて定着させるのは。蓋を開けて観たら駄作としか言いようがなかった『ひぐらしのなく頃に』が、未だにコンテンツとして人気があるが、ある意味では証明している…。
そんな風に見事に監督の手のひら、コンテンツを利用した制作サイドに転がされ回った今回の完結編ではあるが…、まぁものの見事に『お前らが見たかったエヴァはこれだろ?』的な二次創作祭りだった。
前向きになった綾波からの、綾波が命や自然と接して人間的な心を得ていく姿、アスカやマリがシンジと接することで恋愛を終わらせていく姿。
なによりも、エヴァという世界観が本来は極めてシンジの主観的、内在面に重きを置き、閉鎖的な空間からの解放のための物語であったことに対する不満が、この映画では早々に世界に存在する人々へフォーカスが移され、世界に対して存在する1人の人間でしかないエヴァパイロット達と、世界の人々達の物語へと一気に視野が広げられていく。
おそらく映画3部作で思考が閉鎖的になり、エヴァしそうになっていたユーザー達はその爽快感に感動するのだろう。まさにエヴァという陰湿的な世界系から開放されたような爽快感を得れたはずだ!
しかし、あえて言えば。そんな内在的な主人公から、視野が開け成長する主人公など。腐るほどみてきた。
むしろ、最近のロボットアニメ…どころか大衆受けするアニメではありがちな展開だ。
かつて碇シンジの物語として解釈されていた世界観が、碇ゲンドウの世界観としてシフトされ、対比され。全ての精神的な柵から解放され、新しい世界歩と踏み出す。
まさにエヴァという呪いからの我々を解放するための作品!という風にも見える。
けれど、今回のエヴァはそんなにしっかりと練られ、庵野監督が作り上げ、二十何年にも及ぶエヴァというコンテンツに対し、庵野監督が初期から考えていた作品の根底に対する解答だったのか。
ハッキリ言ってしまえばNOであろう。
実際、人類補完計画、ゼーレの設定、ヴンダーの設定、各キャラの設定。それらは全て旧設定とはずれてしまっているし、解答に関しても新の設定に対する解答にしかなっていない。
これは庵野監督が現代のアニメーションを取り巻く環境や自身を取り巻くからも、エヴァというコンテンツを進めて無理矢理にでも終わらせなければいけない!というある意味自決に近い意思表示なのだと思う。
エヴァによって大きく世界を変えてしまったアニメを取り巻く環境だが、庵野監督が求めた製作者とユーザーの関係は、皮肉にもエヴァによって崩壊が始まった。製作者が答えを出さないと、いつまでも口を開け続けて待ち続けるユーザー。作品を解釈、追いかける覚悟がないから、分かりやすい声優や作画といったコンテンツに執着し、安易で手軽なCG処理ばかりを絶賛し、製作側の意図や演出を汲めないユーザー。
宮崎駿が作り上げ、1980年代押井守や庵野達が楽しんで切磋琢磨して来たサブカル製作者とサブカルユーザー関係は見事に終わった…。
それでも、そういったコアな製作陣と視聴者の争いから生まれる文化の成長を信じて作られた、kharaと日本アニメ見本市であったが、作られていくアニメは結局何かの後追いをしたような作品ばかり、視聴者も昔のような対話ができるわけでもない。
そんな絶望的な環境の中、生まれた『シン・ゴジラ』に対するユーザーの反応は、おそらく庵野監督が今のユーザー達に感じている答えそのものだったのだろう。だからこその今回のエヴァなのだと思う。
エヴァンゲリヲンという作品は、常にエヴァという作品が止めてしまった各所の説明を進めてきた作品だった。
自閉的な部分から一歩踏み出したシンジ、アスカ、レイ。
ヒロイン達の支えを失い、カヲルという新たな支えを得たが、それすら怖くなり離れようとした場所に現れる冬月。
そして、今回の映画では人類補完計画、碇ゲンドウとシンジの関係、そして14歳で永遠に止まっていたシンジの時間。
これらはコンテンツとしてはまさにどんなに二次創作を繰り返し、ユーザーが針を進めようとしても、結局は初期に戻り繰り返し繰り返しやり直すしかない。
庵野自身が、エヴァという作り上げた絶対的な枠組みを広げない限り、永遠に抜け出せない繰り返しの世界でしかないのだ。
結果、庵野監督によりエヴァはありきたりなロボットアニメとしての枠組みの解放が図られ、各謎についても公式の回答という形で延々と続く考察厨というなの妄想とエヴァ囚われたユーザー達への終止符をうつことになったのが今回のエヴァなのだろう。
結果、14歳のまま時間を止められた多くの碇シンジ達も、大人になった周りの時間を見せられ、自身の時間を捉えてたコンテンツを進められることで、強制的に『現実』を見るしかなくなった。
監督自身がもう有象無象に群がるエヴァを神格化したユーザーと向き合う気力も、対話する気力もなくなり、分かりやすい餌と回答を与えることで『もう追ってこないでくれ』という意思表示のようも感じた。
かくして、映画エヴァンゲリヲンは伝説のアニメではなく、作画や演出が素晴らしいだけのロボットアニメに成り下り、ユーザーは自分たちの望む結末に湧いているのが現状である。
自身の内在的な問題や世界に対する部分から生まれた作品に対して、何十年も追いかけられ好き放題チープな解釈に落とし込まれ続ければ…そりゃ嫌にもなろうというものである。
個人的にはもう終始苦笑いで作品を見るしかなかった…。
なんにしても、お疲れ様でした庵野監督。
今回のエヴァで、アニメ社会に対する禊にしましょう。
ゆっくり休んで、DAICON FILMの頃からのように好きな作品を好きなように作ってください。
人気コンテンツに群がりたいだけの五月蝿いだけにわか達ばかりになったユーザー達の声も、あなたを神格化するばかりで新たな試みもまともにできない後輩達や業界にも、サブカルの未来に苦しむ日々も気にしなくていいのです。
見てくださいあなたの作った『エヴァンゲリオン』に対する絶賛の声達を。
もう、私たちが望むサブカル世界は変わってしまったのですから。