「さようなら 碇シンジくん」シン・エヴァンゲリオン劇場版 Raspberryさんの映画レビュー(感想・評価)
さようなら 碇シンジくん
人はなぜ生きるのか。
あの小さな村。破とQの後、同級生たちがどうなったのかという説明以上に、そこには、エヴァ全体に流れる「人はなぜ生きるのか」のテーマに対する、作り手の誠実な総括があった。
破壊された世界でありながら、それでも人は懸命に生きようとする。ささやかな場所で希望をみつけようとする。
戦後のバラック、震災後の仮設住宅のようなあの場所で、クロナミを通して、私たちに生命の正しいあり方を思い出させてくれた。
誰かの命令、支配、依存、大義名分は必要ない。自由で自立した魂が心地良いと感じること。生命への愛(=光)に満たされること。すると、この世はなんと喜びで満ち満ちていることだろう。
クロナミはちゃんと自分の魂(=居場所)を見つけた。
ヴィレも同じだ。ヴンダーはクルーたちにとっての居場所だ。青葉シンジと日向マコトのグータッチはさりげないけど、明確にそのメッセージを感じさせる演出だった。
LCL化してひとつにならなくたって、それぞれの人がそれぞれの魂(=居場所)を守ればいい。
自己嫌悪というエゴを脱ぎ捨てニュートラルになったシンジは、もう何かと戦うのではなく、キャラクターたちをそれぞれの居場所へと導いた。
庵野監督は、みなしごとして運命づけられたキャラクターたちに、エヴァンゲリオン以外の居場所を与えたのだ。エヴァに依存しなくてもいい世界、自分の居場所がある世界を。
とりわけ、シンジとアスカとの海辺の会話を私は一生忘れない。
勝ちも負けもない。ありのままのアスカが、シンジの言葉にポッとなる表情を見て私は心から安堵した。つらいことばっかりだったアスカ。母目線の私は、アスカのあの顔がほんとに嬉しかった。このシーンがあることで、ケンケンと幸せになれることを確信できた。
ではシンジの居場所はどこか。
人類救済の聖母マリアに対して、マグダラのマリアは、精油を自分に塗ることでキリストに「自分を喜ばす」という尊さを示した。
ユイの一人子シンジに「自分を喜ばす」尊さを与えてくれる存在・キャラクターがどうしても必要だったのだ。誰かの犠牲者ではいけない。それがマリだった。
どんなに緊張する場面でも楽しそうに歌い、決して自分を犠牲にしたりしない。登場初っ端の「楽しいからいい!」ってセリフが腑に落ちる。
イスカリオテのユダではなく、イスカリオテのマリア。時に大人を欺きながら、シンジと、シンジと伴に歩いてきた私たちに、「これからは自分を喜ばせにゃよ」って言ってるみたいだ。
それにしてもミサトの口調と髪型が戻った時は嬉しかったなぁ。
あぁ、キリがない。「さよなら」は元気にまた会うためのおまじないだよね。涙。
ミサトさんが髪をほどきながら
「やっぱり最後に頼りになるのは反動推進型エンジンね」(だったかな?)のところはめちゃ胸アツですよね!
恥ずかしながら38歳、劇中に3度、涙しました。
最初は開始10分のパリ奪還の戦闘シーン。
その時はなぜ涙が出そうになったのかわかりませんでした。今冷静に考えてみると「あぁ、これで本当に最後なんだ」と感じたんだと思います。
そのぐらい作り手の気迫を感じました。
一方でこの時はまだ鑑賞中に作り手の意図を考える余裕がありました。
二つ目は中盤から終盤に差し掛かる、ヴンダー艦上でのシンジと艦メンバーとの掛け合い後、ミサトに肩を押されるシーン。
登場人物それぞれ、色んなものとの決別が決定的になっていき、シンジの精神的成長が描かれる様子を見ながら、ここでエヴァンゲリオンという作品が自分の手から離れて行く感覚を覚えました。
自分の青春時代と共に物語が紡がれてきたエヴァでしか味わえない不思議な感覚だったと思います。
この時はもうすでに私の意識は完全に劇中に感情移入していました。
三つ目はシンジがユイに救われるシーン。
父親、母親それぞれの不器用さや愛の深さが描かれ、子を持つ身としても親を亡くした身としてもとても大きな多幸感を感じました。
その前の各登場人物の開放シーンも含め、劇中ずっと目元までで堪えていた涙が頬に流れてしまいました。
恐らく自分の中でここまで印象に残る映像作品にはなかなか出会えないだろうと思います。
なにせ26年の歳月をかけて私の心の中に印象を刻みつけた作品ですから。
ここまで時間をかけた(かかった)からこそ、視聴者自身の成長も作品の味の一部に加わっていると感じます。
またその26年を真正面から受け止めて、さらに期待を越える作品を生み出してくれた制作陣に深く感謝したいと思える作品でした。
鑑賞から1日過ぎましたが良い作品に出会えた興奮がまだ残っています。