終の信託のレビュー・感想・評価
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尊厳死のテーマとは違う目線
個人評価:3.7
「Shall we ダンス?」の3人が全く違う内容で再集結。ヘヴィな気持ちを残したまま物語は終わる。原作は未読だが、違う角度からでも見れる余白を周防監督は残していると感じた。
尊厳死のテーマとは違う目線。それは女医の人間の弱さや、男性への強い依存を描いている点だ。
病室で子守唄を歌い寄り添っているシーンの後に描かれた、奥さんが看病している様をドア越しで見つめる描写。あれは女としての嫉妬にも感じ、自分だけに明かした男の秘密を抱えたまま、独占欲からくる殺人も影を潜めている。
尊厳死と同時に人間の弱さと怖さを私は感じとりました。
「自分の死に方」を考えるには好個の一本
本当に意思の強い患者だったのですね。江木秦三(役所広司)は。自分の末期をこんなにしっかりと見定めて「ぶれない」ことに、心を打たれました。
もちろん評論子自身も自分の「死に方」というのは分からないのですが、交通事故による不慮の急死でもない限り、こんなにしっかりと腹をくくることはできないようにも思います。
おそらくは折井医師(草刈民代)は、医師としては優秀・有能という設定ではあったと思うのですが、反面、同僚の高井医師(浅野忠信)との関係でも、自分の「位置関係」を見定めることのできなかったという「弱さ」が、結果として江木の意思の強さに押し負けしてしまい、本作の結果に至ったのではないかと思われてなりません。 (その意味では、塚原検事(大沢たかお)のややもすると強引とも言える取り調べも、本件判決の結論も妥当な線なのかと思い直したりもします。)
いずれにせよ「自分の死に方」に思いを致して観るには、好個の一本かと思います。評論子は。
(追記)
実は『ロストケア』が評論子には満足の行く作品ではなく、同作を鑑賞しながら脳裏に浮かんだのが、本作でした。
ずっとずっと以前に観ていて、再観になりるのでけれども、本作を改めて観て、書けずに苦しんでいた『痛くない死に方』のレビューも何とか書くことができました。
『ターミナル・ケア』とか『リビング・ウィル』ということに関しては、やはり本作が評論子の「土台」になっているのかも知れないと思いました。
美人ヤブ医者。
段取り下手の美人ヤブ医者に終を信託した役所が融通の利かない(そうあるべきだ)お役所に死んでから叱られる、ぶ厚そうに見えて薄い話し。
周防は嫁にこう殺されれば良いが、同じ役所の失楽園の死の方が気持ちE。
濡れ場は愉しんだ。
プロが面倒な手続から逃げると罪に成る、恋愛感情が絡むと女は手続を怠りがち、という手続論の映画か。
前半の尊厳死論と後半の手続論の間に観客を留まらせるのが狙いなら成功作だが、そういう映画を観たいと私は思わない。
【心が傷ついた女医と末期患者との心の交流をきっかけに起きた出来事。周防監督が”安楽死”について、世に問うた意義深き作品。】
ー物語は、冒頭、検事の塚原透(大沢たかお)に検事局に呼びだされた折井綾乃(草刈民代)の憔悴しきった姿から始まる。-
■折井綾乃は長年、重度の喘息に苦しむ江木(役所広司)の担当医。
江木は病に侵されているが、心優しく、聡明な男であることが分かる。
一方、折井は不倫の相手、同僚の高木医師(浅野忠信)から裏切られ、院内で、睡眠薬による自殺を図る。”俺、結婚するなんて、言ったっけ・・”
-何故、江木があんな下衆な男に惹かれたのかは描かれていない・・。ー
・江木は苦しい体調の中、折井に優しく接する。
-折井は江木の医者だが、折井は江木の心の支えになっていく・・。-
・江木の幾つかの言葉
”人間、死の時は最後は聴覚が残るそうですね・・”
-江木の妹の終戦中の話。-
”これ以上、妻に辛い思いをさせたくない・・。僕の看病から解放してあげたい・・”
”先生、お願いがあります。その時が来たら”楽に”してください・・。僕は何より、先生を信頼しています・・。”
■ある日、江木が意識不明の状態で病院に運び込まれる。折井は必死に治療をするが、
気道に居れたチューブの中の、血を見て・・、妻たちに涙ながらに言う言葉。
”自然にお任せしたら・・”
”これ以上の延命治療を望まれますか・・”
江木は激しい痙攣に襲われ、
”江木さん、ごめんなさい・・”
ー耳元で”子守唄が流れる・・-
◆場面は一転して、冒頭の検事局に戻る。
ーここからの、塚原検事と折井との"終末医療”に対しての考え方の相違を基にした遣り取りは圧巻である。ー
塚原の検事として折井の行為は殺人である・・、という考え方と、折井の助からない人の命を、苦しませながら延命させるのは違うのではないか・・という二つの考え方。
-周防監督の考え方は、高圧的な塚原検事の描き方で、推測が付く。ー
<現在でも大きな解決の道が見えていない、”終末医療””安楽死”を題材に周防監督が正面から取り組んだ意義ある作品。
あのラストをどう見るかは、人それぞれだろうが、私は塚原検事の姿勢、考え方は肯定しない。
何故なら、江木を長年支えてきたのは、折井である。
二人の感情の結びつきが深まっていた背景があるという事も分かっているが、チューブの中の胃潰瘍による血を見てしまった時に彼女は覚悟を決めたのだろう。
”これ以上苦しませてはいけないと・・。”
その行いを罪に問うのかどうか・・。>
<2012年11月 劇場にて鑑賞>
<2020年10月 他媒体にて再度鑑賞>
嘱託殺人
2020年2月22日
#終の信託 鑑賞
喘息の重症患者から、危篤の場合安楽死させてくれと頼まれていた医師が、その処置を殺人罪として立件される。川崎協同病院事件というのがモデルらしい。
安楽死と嘱託殺人って難しい問題がテーマ。ダンスをしてるばあいではなくなっていたか。
恋愛なんて他人から見れば喜劇なんだよ。
尊厳死。安楽死とは若干違い、延命措置を拒否して安らかな死を望むと、患者や家族から意思表示してはじめて認められるもの。法的判断の詳細については検察庁での大沢たかおがしつこいほど力説していたが、なかなか覚えられない。とにかく、意思表示=インフォームド・コンセントがなされて成立するものだ・・・母親の入院の際、何度もハンコを押さされたことまで思い出した。作品の設定では2001年ですが、今の病院では徹底しているのだ。
単純に考えたら、草刈民代演ずる折井医師はちょっとしたことで心が折れるほど弱い人間。東大医学部出身で頭脳明晰、優秀すぎる医者なのだが、不倫志向のある世間知らずのお嬢様だったに違いない。ただ、自分も死ぬ際にはこういう女医に看てもらいたくなる女性でもある。
『Shall we ダンス?』以来16年ぶりの共演となる草刈、役所コンビと周防監督。明るい過去作とは打って変わって陰湿なムード漂う病院でのやりとり。『それでもボクはやってない』で警察・検察の取り調べと同様、司法の矛盾についても問題点を投げかけているようですが、ラストの大沢たかおとの演技合戦だけでしかメッセージが感じられないのが残念だ。
それにしても役所広司の心肺停止状態、死の直前のリアルさや、大沢たかおの人間味の無い無機質な検事が印象に残ります。草刈民代もヌード・濡れ場を披露しているのですが、彼女の実年齢が気になってしょうがなかった。鑑賞に耐えうる最後の年齢という意味で、体当たり演技をするようにと夫でもある周防監督に尻を叩かれたのだろうか。検察でのシーンはともかく、若く感じられましたよ。
観ているときよりも後からじわじわと終末医療のことを考えさせられる作品。演技力もさすがだと思いますが、実際の医療現場をリアルに再現していることにも驚きました。視覚と聴覚のエピソードや満州で妹を亡くしたエピソード、それにオペラ「ジャンニ・スキッキ」の話など興味深いところ満載。でも、一番凄いと感じたのは几帳面な八木。裁判所で提出されたのは61冊の闘病日誌。最後の一言だけが救いとはなったけど、「リビング・ウィル」についても考えさせられるなぁ・・・遺言書みたいけど。
後半の蛇足感
尊厳死、安楽死、その人らしい死。永遠のテーマ。解決不能。
管につながれた肉の塊になってまで生きたくない、秦三は言った。
そんなことは誰しもが考えることであって、
死の間際になったらホントにそう思うのか?検事が尋ねる。
呼吸器外したら苦しみだしたのは生きる意志があったからじゃないのか?
検事が詰める。
折井は返す。
命の尊厳を守るのはその人の幸せのため、
意識が無くても意志はある、だったかな。
自分の考えを加えるとすれば、
生あるモノが生きようとすることは本能的なことで、
そこには意志、理性は無い。
苦しんだから生きたいと望んでいたとは考えにくい。
じゃあ怪我とかで苦しんでいる競走馬の様に、
薬剤投与の安楽死は医療行為なのか?
そこは司法判断では殺人になるんだろうなあ。
基本的には折井に肩入れしたくなる話だが、
折井の独断であることは否定できず、
家族の同意も何かぼんやりしてる。
そもそも江木一家のキャラの弱さが問題。
話としても、「それでもボクはやってない」みたいな、
検察の揚げ足取りの強引さを誇張してる感じで、
またそーゆー話か、としか思えなかった。
だから前半の折井と秦三の話だけで済まして、
「この後折井はこれこれこーで…」とかで説明だけで、
後半の検察場面は無くても言い。
どーせ最後はアレなんだから。
故に、大沢たかお要らない。浅野忠信も要らない。
特に大沢は急に口調変わったりとか、
要らないところで動揺してたり怒鳴ったり、
すごく嘘くさい検事になっちゃってる。要らない。
草刈さんはやたら早口で口角狭く台詞が聞こえない。
字幕付きで見ることをお勧めします。
良かったのは役所さんですね。泣かせる。
この人はこーゆーいい人が合ってる。
「渇き。」のクソ親父は無理がある。
泣きました。
終末医療のお話で、折井が患者の江木さんの意向で尊厳死を望んだ時、色々な事情で家族には託せない事を理解し、折井は医者としてでなく管を抜いたと思います。それは許される事では無かったがそうせざるを得なかった。特に死が近づけば表現出来ないけれど、ちゃんと聞いている、判ると江木が話すのを聞き、私ごとながら義父が亡くなるとき、運悪く主人が腸閉塞で入院していて、わりと名の知られた人でしたので、私では葬儀は出来ないと思い外国に出張している義弟が帰るまで生きていてねと頼みました。もちろん返事できる状態で無かったのですが、義弟が面会した日の夕方に亡くなりました。だから泣けてきて感謝しました。家族を亡くした人には判る映画だと思いました。
有罪です
女医の第一印象、髪なが。医者も肉体労働だから髪長いとじゃまっけだろうに。髪を切らなければならない理由があるから仕方ないけど。監督は「それボク」、本作と映画的表現からズレている。そうやって冤罪が作られるんだとか、そうやって自白させられるんだとかは分かるけど、そんな勉強したくて映画観に行くんじゃないから。「ファンシイダンス」「シコふん」への路線回帰はないのかな。ないだろな。
終末医療に於ける問題提起と曖昧な意思表示に警鐘
自分の命が間もなく消えようとするとき、その終わりの在り方を信じる人に託したいという願望は誰にでもあるだろう。
通常ならば託す相手は家族ということになる。だが本作の末期患者・江木秦三 (役所広司)が選んだ相手は主治医の折井綾乃(草刈民代)だった。綾乃は秦三の希望を尊重して延命処置を絶つのだが、数年あとになって訴えられる。
綾乃は検察庁に呼ばれ検察官の塚原(大沢たかお)から尋問を受けるのだが、ここでの検察官は非情な人間として描かれている。検察官による厳しい追求と、告訴に都合のいい言い回しの聴取書に、同席した検察官の助手が綾乃に同情的な表情を見せるから、余計に検察官が悪者のような印象を与える。
だが、人の生死に自然ではない人為的な行為が絡んだ場合、その是非を問われるのは法の場だ。
裁判に必要な判断材料は“事実”の積み重ねであって感情論ではない。検察官のとった行為は間違っていない。生命維持装置の取り外しについても、家族への説明が充分だったとは言えないように見える。綾乃がとった行為は、自分だけが選ばれた人間だとでもいうような振る舞いで、感情で医師としての職権を乱用したと言われても仕方がない。医療に携わる者として綾乃の行為は許されるものではない。許したら、それこそ患者を生かすも殺すも医者次第ということになってしまう。
亡くなった秦三にも責任がある。本気で綾乃に終を託すのなら文書にしておくべきだ。家族にもその旨を伝えておく義務がある。結果的に第三者が見て、もっともな行為だったと納得させるものの用意が必要だ。
秦三の家族にも問題がある。秦三と真の意味で信頼関係があったとは言いがたく、そもそもの発端はそこにある。
けれども裁判になったら、問われるのは綾乃がとった医療行為の是非だけだ。
この作品は終末医療がどうあるべきか、その難しさを問題提起するとともに、迂闊な終の信託が殺人事件に発展する危険性に警鐘を鳴らす。
秦三の妻・洋子は、自分以外の女性に夫が最期を託したことに嫉妬を覚えなかったのだろうか? 半端な“書き残し”は遺恨を残すことも考えねばなるまい。
重いテーマを、ひときわドラマ性の強い、見応えある映画になったと思います。
周防監督の性格が伺える超生真面目な作品です。笑いをとる場面が一つも無く、重病のぜんそく患者の病状経過と死亡時の尊厳死にの是非について愚直に追求していきます。作品のテーマは、終末医療と司法のかかわり、安楽死などを中心に据え、死について観客に問いかけてきます。ただ、そこは周防監督。重く硬質なテーマを大上段から振りかざすことはしません。毎作品ごと特殊な舞台に見いだし、優れた娯楽作に仕上げてきた周防監督作品。今回は、ひときわドラマ性の強い、見応えある映画になったと思います。
息が詰まるような2時間24分の長尺でしたが、細かいカット割りと、時間軸が巧みに前後していくシークエンスの組み立て方で、全編最後まで画面に釘付けとなって見終えることができました。
見どころは、息詰まる医師と検事の対決。方や法律の番人として杓子定規に主人公の医師折井を殺人者に仕立て上げようとし、検事のあまりの決めつけ方に反発した折井が、それでもあなたは人間なのかと言わんばかりに、物言えぬ患者の苦痛を代弁して、殺人ではなく人道的な処置であったと反論します。
このラストに行き着くまでの、重症のぜんそく患者江木と担当医の折井との交情の過程はいささか冗長過ぎるきらいもあります。けれども、折井がなぜ尊厳死を選択肢か、その決断に至るまでの心理を観客に伝えるためには、周到な伏線が必要だったのかもしれません。
本作を着想したきっかけは、前作の痴漢裁判を題材にした『それでもボクはやってない』のシナリオ執筆のための取材中に本作の原案となる公判と遭遇したところから。
二つの作品共に、密室での取り調べがいかに危険か。結論ありきで自白を強要する捜査手法を批判的に描かれている点で共通しています。しかし塚原検事の捜査手法のそれは、尋問対象の折井に対して冷徹で尊大。観客の反感を一手に行き受けてしまうような悪の権化として描かれながらも、論理はしっかりと構築されており、その完膚なき論理性と理詰めで白か黒か選択させる、一切の情状の説明を拒絶したディベートのシャープさに、折井に感情移入している小地蔵のこころもは何度も、揺すぶられてしまいました。
優れた映画というのは、主人公に敵対する人物が強烈な説得力を持っているものです。それゆえ、観客は感情ではなく理性で判断させることで、作り手の主張をこころに刻むようになれるのです。もちろん、狡猾な尋問テクニックを屈指する塚原検事の捜査手法には、問題が多いとは思います。けれども冷徹な塚原の論理が、折井の行動の是非を観客に投げかける周防監督の観点は、見事なまでに公平であるといえるでしょう。
毎回、新たな題材にアプローチするときの周防監督のこだわりは、凄まじさを感じます。医療のプロでなくても、治療の現場は、所作といい、専門用語の使いこなしといい、まるで研修医の教材となる臨床ビデオ見ているくらいの精巧さで、情報量の多さが目立ちました。また検事の取り調べシーンも、かなりの取材を重ねて、実際の取り調べてとほぼ同じ捜査手法や逮捕・起訴に向けた手続きを再現しているものと思われます。
さて。物語は折井に検察から呼び出し状が送られて、塚原検事に面会にくるところから描かれます。しかし約束の時間よりも40分も早く到着したことから、そのまま待たせっぱなしにするでした。これも塚原検事のテクニックのひとつ。なんと約束の時間を超えて、2時間も待たせて、やっと面談に及びます。
待ち続ける折井は自然と、身の上に起こった出来事に思い馳せるのでした。以前折井は、呼吸器内科の医師で、重度のぜんそくを患う江木を担当していました。病院の中では、同僚の医師・高井と長く不倫関係にありました。ここで問題のベッドシーンが挿入されます。長年バレーで鍛えられた肢体を、草刈民代は惜しげ無く披露し、乳房を浅野忠信にもまれるのです。その肉体美は凄いのですが、だからといって、自分の愛妻の絡みをファインダー越しに、冷静に演出していく周防監督の神経がどうなっているのか、理解しがたいです。
不倫関係というのは、いつか報いがあるもの。高井が若い女性と旅立ったこと知った折井は、失意のあまり睡眠薬による自殺未遂騒動を引き起こしてしまいます。蘇生処置として、鼻に管を通して水を流し込む胃洗浄のきついこと。わが身にも経験があるだけに、折井の辛さがよく伝わってきました。このとき味わった、治療に対する苦しみが伝えられないもどかしさが、やがて逆の立場に立たされたときの、尊厳死の決断に繋がっていきます。
江木の病状は進行し、入退院を繰り返します。織り込まれる自動車交通の多さや、工場地帯の映像が、さりげなく印象的。江木に転地療養を勧めるものの、あくまで折井の治療が受けられることを望みます。
やがてふたりは、医者と患者の立場を超え、2人は人間として向き合うようになっていくのでした。
とうとう江木に死期が迫ってきます。かつて死を自覚した折井には、ほっとけない連帯感が芽生えてきます。それは恋愛感情というより、生死を分かつ同志としての信頼感のようなものだったのでしょうか。
江木は綾乃に、終戦直後、満州で妹を亡くした悲痛な体験を語り、延命措置について、彼女に判断を託します。終の信託を受けることになったのは家族でなく、折井というところがポイント。家族には、無用な負担をかけさせたくないという江木の優しさが、後日塚原検事に追及する論拠を与えてしまうことになるとは、夢にも思わなかったでしょう。
それと、江木が語る「臨死のときも最後まで残るのが聴覚」という言葉が、印象に残りました。自分の母親の最後の時も、ずっと話しかけたことを思い出しました。だから、江木は妹に子守歌を聴かせ、その子守歌を終の信託として自分にも歌って欲しいと折井に託すのです。子守歌の切ない響きが心に残りました。
余談ですが、臓器移植の時も、脳死だけではまだ神経感覚は残っているという臨床結果が明らかにされています。生きたまま麻酔もかけずに内臓をえぐられるのは相当な恐怖を感じるのでしょうね。
本作は、最後に下した折井の判断の是非を問うているのではありません。やはり尊厳死へ至る、折井と江木のエモーショナルな推移を描くことがメインであったと感じます。それとラストの45分にわたる、塚原検事と折井の激しい応酬の末に下される、法の判断の是非。周防監督は法の正義か、人間性の重視か、その違いを簡潔に映像としてみせるばかりで、主張はしようとしません。しかし、ただ1点、発行された逮捕状を書記官が折井に渡すとき、一瞬罪悪感を浮かべる書記官の表情にこの長い物語の結論が描かれているような気がしました。
演技面では、役所のぜんそくシーンは見ている方が息苦しくなるほどリアルだし、臨終シーンののたうち回るところは、鳥肌が立つ思いの凄さでした。草刈は、バレリーナから転身した頃と比べて、女優として進化をとげ、演技力に磨きがかかっていると思えました。何といってもヒロインを容赦なく追い込む、大沢が素晴らしいと思います。この役で芸幅が拡がったことでしょう。そんな実力を引き出したのも、周防監督の力なんだろうと思います。
肉体を動かしてこそ出会いも輝く
頭の中の話だけで人生を分かった気になってしまう今
とつとつと語る現実の体験談が どれだけ深いニュアンスで入ってくるかの心理センサーに問いかける。
信じる気持ちの濃さを 怪我をした心に染み入る漢方薬としての強靭な出会い。
肉体は瞬時で忘れられる。魂は永遠。
はっきりした重みのある逢瀬の深みは 実際に苦しみながら甘みを掴んだ結果でないと見えない。
ほんとうに、こわいもの
濡れた馬のような、、って比喩が昔あったけれど、
そんな、(よい意味も含めて)暗く、静かな作品でした。
時間の流れが一方通行なので、
やや 作品に奥行きが出ない感は残りました。
それにしても 俳優さん 皆さま眩しいです!☆=
死とは、悲しみなのか、安らぎなのか。
パラシュートを投げたときに、
落下するのは丸をつけた目的地ではなく、
個人の情念という風に吹かれたその先なのだという昔から続く現実。
そのことに、黙ることしかできないのか??
楽しい というのとは違うけれど、いろいろと考えさせられる作品です。m--m
重いテーマです
2007年の『それでもボクはやってない』に続く、周防監督の社会派作品。あわせて、1996年に大ヒットしてハリウッドでもリチャード・ギア主演でリメイク作品まで作られた『Shall we ダンス?』以来の周防正行・草刈民代・役所広司が揃った作品としても話題になっている。
でも、やっぱり『Shall we ダンス?』よりも、『それでもボクはやってない』と比較しちゃいますね。『Shall we ダンス?』はコメディでしたが、『それでもボクはやってない』は社会啓蒙、民衆啓発の社会は作品。そして今回の『終の信託』も社会派作品ですからね。
『それでもボクはやってない』の時は、痴漢冤罪が社会問題化しつつあるタイミングでの映画界でしたが、この『終の信託』は、“終活”などという言葉も出来るほど、人間の一章の終わりに注目が集まりつつ有る時期の作品。そういう意味では、非常に良いタイミングでの映画化です。
いやぁ、作品終盤の折井が塚原に取り調べを受けるシーンですが、「あぁ、こうやって犯罪者は“作られていく”んだ」と思いました。まぁ、“事実”のみをつなぎ合わせると、塚原の言う感じになるのかもしれませんが、それでは背景が全く示されておらず、かなり一方的な主張に思いました。でも、『それでもボクはやってない』も思いましたが、あれが現実なんですかね。
ツッコミを一つ。江木が救急搬送されてきたシーン。あまりにも緊張感に欠けていないか?もうちょっと何とか出来たのではないかと思いました。
シナリオはいいんですが。
シナリオはいんですが、残念ながら、草刈民代さんは、医師に見えませんでした。重いテーマに正面から取り組む周防監督には、敬意を表しますが、キャストがしっくりきていないというのが率直な印象でした。
ただ、大沢たかおさんは、はまり役だったと思います。
周防監督、草刈さん、役所さんと、文字通り「役者」が揃っているのですから、もっと、エンターテイメント性の強い作品を、ファンとして期待しています。
寡作な周防監督ですが、次回作では、笑わせて下さい。
全22件中、1~20件目を表示