「映像も斬新さに欠けるが、脚本が決定的にだめ。」プロメテウス moviebuffさんの映画レビュー(感想・評価)
映像も斬新さに欠けるが、脚本が決定的にだめ。
SF映画ファンにとって、プロメテウスへの関心が高かったのは、これがブレードランナー以来のリドリー・スコットによるSF作品であること、そして、それがエイリアンの前章、もしくはそれに関連する作品であるというこの2つによるものだった。
かつてエイリアン、ブレードランナーという2作によってその後のSF映画のルックを決定付け、未だにほとんどのSF映画がその2本のビジュアルの影響下にあるという偉業を成し遂げた監督が、自ら自分の原点の映画の一つであるエイリアンに関連する作品を作る。ひょっとして、そこには私達が未だ見たことのない、新たなSFのエポックメイキングとなりえるビジュアルが展開されるのではないか。そのことから来る期待感が多くの映画ファンにはあったはずである。
結論から言うと、その期待は完全に裏切られている。
ロケーションこそすばらしいものの、これが何か新しい世界観を提示出来た映画かというと、リドリースコット自身が過去に自分の作り出したイメージを超えられていないし、超える気もなく、職人的に与えられた脚本をこなした感がいなめない。過去のインタビューやメイキング映像、書籍などを通して、彼の作品へのこだわりを知るものにとって、このこだわりのなさは、リドリースコットに最早作家性は望めないのか、という気さえしてくる。これが70歳を超える巨匠の作品ではなく、最近のSFX工房上がりの新人監督が撮った映画だと誰かに言われても、前情報さえなければ信じてしまうだろう。
まず、一番大きな問題点は、これがエイリアンの前章か、独立した物語か、あいまいなままにしている、そして恐らく、それをあいまいなままにしておこう、という判断だ。そのために、はっきり言って、「じゃあ素直にエイリアンの前章を作れよ!」という気になる。なぜエイリアンに似せた生物をエイリアンに似せた設定で、「別のSF映画」としてオリジナルの作品を作った作家がやる必要があるのか?理解に苦しむ。
プロメテウスに無くてエイリアンにあるもの。それは、想像力の働く余地である。
エイリアンの一作目が怖いのは、エイリアンがほとんど全体像で登場しないという事。それは当時の技術的な問題ではなく、演出である。観客が自分のイマジネーションによって、恐怖感を高める演出がエイリアンにはあった。プロメテウスでは、CGによって全てを表現してしまうこと,あるいはクリーチャーを明るい船内で見せてしまう事で、観客のイマジネーションが失われてしまった。スペースジョッキーの一作目の存在感も、そこにかつて何かがあったことを想像する事でより高まった。それが起源を掘り起こし解釈が決定してしまったことで、元々のイメージの象徴性やイマジネーションが奪われる形になってしまったと思う。
はっきり言ってこの作品で優れている美術は、過去のギーガーのデザインによる、エイリアンの美術のパートである。
あの巨人のデザインにしても、元のギーガーのデザインがすばらしいのだから、そのまま生かしてエイリアンや巨神兵のような外骨格のある宇宙人とすれば良かった。
中途半端な解釈や新しいクリーチャーのデザインを入れるぐらいなら、HRギーガーの画集をそのまま再現するぐらい、惑星の世界観を巨大でおどろおどろしいものに統一した方がよかったかもしれない。
各プロダクトや美術のデザインは洗練されていても、プロメテウスには、かつてのリドリースコットのSFにあったような一つのコンセプチュアルな統一された世界観がない。
プロメテウスは、プロットに関して言うと穴だらけだ(もしくは私が見逃しただけで、ただわかりにくいだけなのか?)。オリジナリティは低いにしろ、映像のクオリティがA級なだけに、B級のプロットとのギャップが際立つ。
例えば、なぜ強酸で顔の溶けた地質学者の乗組員がゾンビになるのか?録画された立体映像で巨人の宇宙人たちが逃げ込もうとしているのが、なぜ自分達がコントロール不能になった危険な生物兵器のある部屋の中なのか?評論家の町山さんが話していたように、縦に転がってくる巨大なものがあったら、横に逃げるのが普通の考えだ・・。
更に、一番不可解だったのは各キャラクターの動機。
例えば、序盤で地質学者が主人公が気に入らなくて怒り出し別行動を取るが、そこまで気に入らない理由がよくわからず唐突に感じる。目の前で起こっている事が人類で始めて体験することばかりなのに、自分の分野でないという理由から全く関心がないのは不自然だ。
社長やデビッドは、何人も船員が殺されている状況を見聞きしていて、宇宙人が生物兵器を持ったまま地球に来る予定だったのを知りながら、なぜ、まだのんきに「巨人の宇宙人は善玉」と信じているのか?しかもその巨人が人間の延命治療を施せるかどうかというのは、巨人と話せる事と別問題。巨人が「んな事できねえよ。」と言えば終わりである。その為にあんなよぼよぼの社長が一緒に現場に来る必要はあるのか?宇宙船で待機するか、地球で報告を冷凍されたまま待てばよいのではないか?
また、キャプテンが自分のクルーと自分の命を「人類の為」とあの一瞬で判断して捨てる事が出来るのはなぜなのだろうか?彼らがそんなに選りすぐりの強い精神性を持つ乗組員という描写はどこにもなかったと思うのだが・・。
そしてやっぱり極めつけは主人公。次から次に起こる出来事に「私達は間違っていた・・。」と泣きながら言い、しかもあんな事やこんな事を体験した後、「あいつらの住んでる惑星に行こうと思う」って・・。どう考えても「なぜ?」とたずねるデビッドの方が普通の人間の感覚である。
一つ思うのは過去の映画のキャラクターのステレオタイプのイメージに頼りすぎなのだろう。描写をせずに、こういうキャラクターなら、ヒロインにつっかかりそうだとか、キャプテンなら勇敢に命をかけられるだろうとか、最後まで作りこまずに観客に投げてしまっている。そのためにキャラクターの感情の流れに一本筋が通っていないと観客は感じてしまう。
なんでこんな事になったのかと考えれば、それは脚本家の力不足というしかないと思う。
プロメテウスの脚本家デイモン・リンデロフはカウボーイ&エイリアンも担当していたようだ。あの映画も非常にムラのあるプロットだった。(カウボーイ&エイリアンに関して言うと、そもそも普通ならありえない、ばかばかしい設定を、ゴーストバスターズやMIBのように、自嘲的ユーモアで笑い飛ばせる要素がたくさんあるのに、シリアスに書いている時点でセンスがない。)
LOSTの脚本を担当したという事で、この脚本家を評価している人もいるのだろうか。だが、はっきり言ってテレビシリーズの「次から次に謎が出てきて、次回の展開が気になる」という作りは、物語を終わらせる責任をとらなくてよい。普通の映画の「話に整合性を持たせて、2時間で物語を収束させ謎を回収する」という技術とは別だと思う。JJエイブラムスはともかく、この人はそれが出来ていない。