マシンガン・プリーチャーのレビュー・感想・評価
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2003年、南スーダンのある村が軍隊に虐殺されるシーンから
出所したサムはいきなり酒とドラッグ。レイナードスキナードの「サタデーナイト・スペシャル」が心地いい。銃を撃って金を奪い、ドラッグでいい気持になりながらのドライブ。途中、浮浪者ぽい男を乗せてしまったのが失敗。浮浪者がいきなり運転するドニーにナイフを突き立てたので、防衛反応で殴り、車から振り落としてしまったのだ・・・
妻に助けを求め、いきなり教会で洗礼を受ける。自慢だったバイクも売ってしまい、建設現場での仕事ももらい、まっとうな生活を始めたサム。やがて住んでいる地区を竜巻が襲い、受注が増えたのをきっかけに新しい家まで構えるようになれた。
あるとき、教会にウガンダのレリング牧師がアフリカの現状を訴えにきた。自分が建設面で力になれると思い、アフリカに飛び立った。ウガンダでの建設ボランティアとして働きながらも、スーダンの軍人に出会ったおかげで、南スーダンの現実を見てみたくなったサム。そこで少年が爆撃で両足を失い死亡する。凄まじい殺戮現場を目の当たりにした彼は帰国してからも落ち着かない・・・
自宅近くに教会を建て、自らが説教するとともに、こんどはスーダンの難民キャンプ近くに児童養護施設を建設するのだ。LRA(神の抵抗軍)に妨害に遭い、困難を極めたが何とか孤児院を建てる。そこからは何度もアメリカとの往復生活。子供たちを救うためにトラックを購入・・・しかし、金銭面でも困難に見舞われ、やがて借金がかさみ自宅を抵当に取られるまでに。
最初は純粋な気持ちで行ってきたボランティアも、LRAの中に少年兵がいて、知らずに撃ち殺してしまったことや、40人ほどの孤児をトラックに乗せるも半分を置いてきてしまったために再度戻ってみると惨殺されていたりと、精神的にもまいってしまう。故郷ではドニーが死に、娘ペイジの願いも聞き入れない。憎しみにまかせて銃を乱射するサムは“白人のプリーチャー”という呼び名から“マシンガン・プリーチャー”と呼ばれるようになり、LRAのリーダー・コニーから懸賞金までかけられるほど恐れられる存在に・・・
凶暴になっていったサムは、故郷のアメリカのマスコミから“アフリカン・ランボー”などと揶揄されるようになり、国連の女医から「傭兵と同じよ!」などと言われる。そんな有れ荒んだ精神状態でいるとき、LRAの元少年兵ウィリアムから、LRAの命令で母親を殺したという悲惨な体験(映画冒頭のシーン)を聞かされる。憎しみを持っていては解決できない・・・少年はそれまで英語がわからなかったのにサムのために心を開いたのだ。憎しみ・・・自分が説教で使ってた言葉と同じだった。
エンドロールには実在のサム・チルダースの映像や発言。自分とは関係のない黒人の子供を救うという点では理解できない人も多かろうが、彼の純粋さだけは評価できる。イスラム勢力がキリスト教の人民解放軍を襲うという構図は強調されつつも、終盤ではそれが色濃く表れてこないことがまだ救い。実際、イスラムとは直接関係なさそうだし・・・
タイトルなし(ネタバレ)
メモ
ドラッグに溺れ酒に溺れる荒んだ日々の中でとうとう人を殺してしまうサム。妻の助けを借りて信仰に目覚め、南スーダンやウガンダの悲劇を目の当たりにすることで自らの使命を自覚し、牧師=伝道師として生きることを決意する。
困っている人を助けたい。だからといって世界中の人を救うことはできない。
そんなことは誰でもわかっている。だから人は自らの愛する人と、世界の果ての不幸との間で折り合いをつける。ある時は知らないふりをして。またある時は目を塞ぎながら。
遠い世界の不幸。それは実際に目の当たりにしたものでなければその地獄、深刻さを実感することはできないだろう。だからと言って誰も好き好んで他人の不幸に首を突っ込むようなことはしたくない。
サムはわざわざ遠い国の不幸に首を突っ込む。そして不幸を目の当たりにして、その悲劇に心を痛め心の底から助けたいと実感する。でもその実感は遠い国に生きている普通の人には伝わらない。その実感の乖離にサムは一人孤独になって行く。人を助けるためにしていた行動が、愛する家族さえバラバラにして行く。
世界中の人を救えないならば、やはり自分の近い人にだけ愛を注ぐべきなのか。やはり世界は救えないのか。
愛の行為の範囲だけが問題ではない。その行使において暴力が容認されるのかという問題もある。
南スーダンのような内戦状態にある状況において、英雄は一方の側、つまり敵にとっての虐殺者でしかなく、どちらか一方の正義を正当化することには常に危うさが伴う。
子どもを救うためとはいえ、マシンガンを撃つサムに、同じく人道的支援活動をしている白人女性が揶揄する場面がある。暴力に訴えるものは皆、自分を正当化している。虐殺者として描かれるLPRの指導者コニーも、かつてはあなたのようだったと。
殺さなければ殺される現実の中で、暴力に加担するしかない現実に、自分のしていることにさえ絶望して家族や仲間さえ失いかけていたサムだったが、一人の少年の言葉に救われる。憎しみに支配されたらあいつらの思うツボだと。
少年は生きるために母殺しをした。悲劇というにはあまりにおぞましい地獄が今この瞬間にも南スーダンで起きている。駆け付け警護で派遣された自衛隊は無事に帰国したと聞く。サムチルダースがマシンガンをもって戦っていることの是非はともかく、彼の行為やこの映画の突きつける現実はあまりにも重い。
暴力肯定、礼賛の説教師
実話。
シガニー・ウィーバー主演の「愛は霧のかなたに」(1988)という映画がある。かつて、アフリカ・ルワンダのマウンテンゴリラの保護につくした動物学者ダイアン・フォッシーの物語。裕福な家庭に生まれたものの、幸福感を得られず自分の居場所を見失ったフォッシーは、アフリカの動物、とくにマウンテンゴリラに魅せられ、18年近くもかの地で暮らし、その研究と保護にあたった。しかし自分の人生の全てを注ぎ込んだエキセントリックな行動は、次第に生活のため動物の密漁をせざるをえない現地住民との軋轢が絶えなくなり、最後は自分の住居で何者かによって惨殺された死体で発見される。
「マシンガン・プリーチャー」にも似たようなところがある。
刑務所を出所したばかりのサム・チルダーズ(ジェラルド・バトラー)は、あいかわらず麻薬やアルコールに溺れ自堕落な生活をしていたが、改心してクリスチャンとなり、真面目に働くようになる。ある日教会でアフリカ・南スーダンの状況を聴いて、困窮に喘いでいる住民を助けるため、ボランティアで短期間現地に行くことにした。ところがスーダンでは、民族、宗教、政治の違いから内戦が続いており、女子供まで虐殺される状態だった。そこでチルダーズは教会と孤児院作りに奔走する。建築現場をゲリラに襲撃され、自ら銃をとり反撃するチルダーズ。最初は信仰心から彼の行動を理解していた妻(ミッシェル・モナハン)や家族も、仕事も捨て、財産も孤児のためにつぎ込む姿をみて、次第に心が離れていく。そして自分のミスから、多くの子供達を死なせてしまったチルダーズは絶望し、神の存在さえも疑うようになる。
最初は純粋な気持ちであったものが、次第に常軌を逸してエキセントリックになっていくのは、よくある。周囲の理解を得ようとする努力をすることなく、悲劇的な結末に向かっていく。そのことはフォッシーの場合、現実になってしまったのだけれど、チルダーズの場合は、その内なる絶望感を「眼には眼を」という形で、暴力には暴力で反駁していこうとする。
物語の内容、映画の作りとしては、真面目だ。アフリカにおける現実をちゃんと描いているし、それを「遠い国の知らない出来事」と片付けがちな観客に、ちゃんと理解はさせようとしている。また前半の信仰心を得て改心し、クリスチャンとして生きていくところ、特に幼馴染みで同じ麻薬中毒者だったドニー(マイケル・シャノン)を地獄から救おうとする場面は、同じ信仰を持つ者として、共感する部分もある。だが映画を見終わって、心のなかに残るわだかまりのようなものはなんだろう。
結局、それは「暴力には暴力で対抗する」というチルダーズ自身の決意が、受け入れられないせいでもある。劇中、こんな場面がある。NGOの女性医師が彼に非暴力を訴えるが、彼は「自分は自分のやり方でやる」と吐き捨て、忠告を受け入れない。のちにその女性医師はゲリラに襲われ瀕死となるが、駆けつけたチルダーズは彼女を見下ろしている。口の中に砂のようなものを含んでしまった不快感がある。まだエンドロールで、チルダーズ本人が出てきて、暴力肯定ともとれるメッセージをおくるのは醜悪の極みだ。
結局、米国キリスト教右派の宣伝映画という感じしか残らないのは、後味が悪すぎる。
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