「暴力肯定、礼賛の説教師」マシンガン・プリーチャー 梅薫庵さんの映画レビュー(感想・評価)
暴力肯定、礼賛の説教師
実話。
シガニー・ウィーバー主演の「愛は霧のかなたに」(1988)という映画がある。かつて、アフリカ・ルワンダのマウンテンゴリラの保護につくした動物学者ダイアン・フォッシーの物語。裕福な家庭に生まれたものの、幸福感を得られず自分の居場所を見失ったフォッシーは、アフリカの動物、とくにマウンテンゴリラに魅せられ、18年近くもかの地で暮らし、その研究と保護にあたった。しかし自分の人生の全てを注ぎ込んだエキセントリックな行動は、次第に生活のため動物の密漁をせざるをえない現地住民との軋轢が絶えなくなり、最後は自分の住居で何者かによって惨殺された死体で発見される。
「マシンガン・プリーチャー」にも似たようなところがある。
刑務所を出所したばかりのサム・チルダーズ(ジェラルド・バトラー)は、あいかわらず麻薬やアルコールに溺れ自堕落な生活をしていたが、改心してクリスチャンとなり、真面目に働くようになる。ある日教会でアフリカ・南スーダンの状況を聴いて、困窮に喘いでいる住民を助けるため、ボランティアで短期間現地に行くことにした。ところがスーダンでは、民族、宗教、政治の違いから内戦が続いており、女子供まで虐殺される状態だった。そこでチルダーズは教会と孤児院作りに奔走する。建築現場をゲリラに襲撃され、自ら銃をとり反撃するチルダーズ。最初は信仰心から彼の行動を理解していた妻(ミッシェル・モナハン)や家族も、仕事も捨て、財産も孤児のためにつぎ込む姿をみて、次第に心が離れていく。そして自分のミスから、多くの子供達を死なせてしまったチルダーズは絶望し、神の存在さえも疑うようになる。
最初は純粋な気持ちであったものが、次第に常軌を逸してエキセントリックになっていくのは、よくある。周囲の理解を得ようとする努力をすることなく、悲劇的な結末に向かっていく。そのことはフォッシーの場合、現実になってしまったのだけれど、チルダーズの場合は、その内なる絶望感を「眼には眼を」という形で、暴力には暴力で反駁していこうとする。
物語の内容、映画の作りとしては、真面目だ。アフリカにおける現実をちゃんと描いているし、それを「遠い国の知らない出来事」と片付けがちな観客に、ちゃんと理解はさせようとしている。また前半の信仰心を得て改心し、クリスチャンとして生きていくところ、特に幼馴染みで同じ麻薬中毒者だったドニー(マイケル・シャノン)を地獄から救おうとする場面は、同じ信仰を持つ者として、共感する部分もある。だが映画を見終わって、心のなかに残るわだかまりのようなものはなんだろう。
結局、それは「暴力には暴力で対抗する」というチルダーズ自身の決意が、受け入れられないせいでもある。劇中、こんな場面がある。NGOの女性医師が彼に非暴力を訴えるが、彼は「自分は自分のやり方でやる」と吐き捨て、忠告を受け入れない。のちにその女性医師はゲリラに襲われ瀕死となるが、駆けつけたチルダーズは彼女を見下ろしている。口の中に砂のようなものを含んでしまった不快感がある。まだエンドロールで、チルダーズ本人が出てきて、暴力肯定ともとれるメッセージをおくるのは醜悪の極みだ。
結局、米国キリスト教右派の宣伝映画という感じしか残らないのは、後味が悪すぎる。