「「木」と「風」の映画」テイク・シェルター ゼリグさんの映画レビュー(感想・評価)
「木」と「風」の映画
この映画では、いたるところで画面上に「木」が登場し、必ずといっていいほど「風」に揺られている。
ちらりと見える窓の外や、外にいる登場人物の頭上の木の枝。建物の上の星条旗。
少なくとも、全体の7割以上は何かが風に揺れている。
それは、観ている側がよく注意しないと気付かないほど、細かいところまで。
木が入りこむように設計された構図を見ても、これは監督の意図したものと思って間違いない。
風に揺れる木を撮りたいが為に、主人公の家の周囲に木を設置したということだ。
では、この「風」は何なのか。
もちろん、嵐を畏怖の対象として描いた作品なのだから、不穏な雰囲気を出すため、または終盤でシェルターに入るきっかけとなる嵐の前兆を現していたと考えるのが普通だろう。
だが監督は、主人公がシェルターから出てきた、安堵するべき場面でも木を風で揺らしている。
これがロケ地の環境による偶然の産物かは定かではないが、これはおかしい。
全体を通して明らかに「揺らしすぎ」なのだ。
恐らく監督は、嵐の恐ろしさや人間の心理だけを撮りたかったわけではなく、何かを美しく揺らしたかったから「嵐の前触れ」であるこの映画を撮ったのではないだろうか。
だからこそ、ラストシーンで嵐に対峙する主人公の妻の髪すらも風で揺らしたのだろう。
すべては「風」の為に撮られている。
嵐という自然災害を扱った作品なのだから、当然といえば当然なのだが、これはどこか他の災害映画とは違い、珍しく「風」という細部への丁寧さを感じた。
個人的に、主人公が「仕事をクビになった」と告白し、妻が平手打ちをして部屋を出ていくまでの過程でカットを1度も割っていない事に好感を持った。
余談だが「ラストは今までどおり主人公の夢オチ」という意見を目にしたが、わざわざ嵐の前兆である黄色い雨を、主人公ではなく妻に体験させたのは、夢オチだと誤解されないように監督が配慮したからだと思うので、恐らく夢オチとかではなくただのバッドエンドではないだろうか。
それもまた、前述した「揺らしたい」ものを考える過程で生まれた結末だと思えてならない。