ベニスに死すのレビュー・感想・評価
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原作以上の出来栄え
原作も読んでいるが、原作以上の出来栄えだと思う。
冒頭のゴンドラに乗っている主人公、マーラーの音楽をバックにゆったりとした流れが、この映画全編の一貫した流れで、それに加え次第に退廃ムードが色濃くなっていく。最後まで芸術色豊かな作品で、映画がすべての芸術作の頂点であることを証明してくれた作品である。
この映画を最初に見たとき、砂時計の砂は常に下に落ちているのに、その変化に気づかない程いっぱいあった。今は、砂が確実に少なくなっていることに気づいたが、既に残り少なくなっている。老年の域に達した今、あの喩えを痛感している自分がいる。
トーマス・マンがどんな性合なのか知らないが、この映画を見て、単なる...
トーマス・マンがどんな性合なのか知らないが、この映画を見て、単なるゲイの話ではないと、僕は思った。
寧ろ、死を間近にした者が、迎える事になる状況を、走馬灯の如くに描いたストーリーだと思った。
間近に施した化粧は、死化粧だと直感できる。セリフにも『老いる事の醜さ』と言った様なセリフがある。つまり、この少年の姿は、はるか昔の自分の姿を見ているのかもしれない。
この映画の原作はまだ読んでいないが、『魔の山』は読んでみた。長編なのでテーマはいくつもあるが、大きなテーマはやはり『死』であったと感じた。因みに『魔の山』の『ハンス・カストロプ』は結核を患いなから、ある方法で死を選ぶ行為を選択する。それで話が終る。『魔の山』は『ベニスに死す』の関連作品と言われる。
さて、よくよく考えれば『死す者』が物語なんか書けるわけないのだから、死を前にする走馬灯の様な瞬間を示しているのは明確だと思うが。
さて『ビョルン・アンドレセン』は僕と同世代なので、この物語の主人公の年代を迎えている。美少年は今どう思っているのだろうか?ネットで、彼の姿を拝見してはいないが、言うまでもなく、ただの爺なはずだ。勿論、死化粧はしていないだろうが。僕はこの映画を始めて見て、なんだか分からなかったが、今になって、わかるという不思議な話。でも、分かるのがつらいよ。
兄妹や母親はただの置物見たいな役割なのに、シルヴァーナ・マンガーノって可笑しい!?でも、ソフィア・ローレンやクラウディア・カルディナーレじゃ存在感が大きいか?やっぱり『にがい米』級なんだね。
我が亡き父はシルヴァーナ・マンガーノのファンだと良く話してくれた。その理由は『にがい米』を見れば直ぐに理解できる。
二度目の鑑賞で感動
若い頃にちらっと観た時は、タージオの美しさよりも、主人公のおっさん、化粧なんかして気持ちわるっ〜って印象が悪かったのですが、、、。
NHK BSにてじっくり鑑賞したら、あ〜私も老いたのね。もうすっかりアシェンバッハの気持ちがわかる、わかる。次はいつ登場するのかタージオ一家の出番を待つばかり。笑笑 高貴とクールの中にある彼の微笑みは本当に美しい。
そして、母役のシルヴァーナ、マンガーノの衣装と佇まいにもうウットリ。あの時代の貴婦人方は、あんなに大きなお帽子を被ったままお食事なさるのね、重そう〜笑笑。もう見せ合いっこの世界ですね、荷物になるだけなのに。(あ、それも下僕の仕事でしたか。)
アシェンバッハは一度、島を離れる事になり、手違いで荷物が誤送され、怒りまくってたのに、ホテルに戻る渡し船の中で、もうウキウキが止まらない笑顔になってゆく、わっわかるわぁ〜。
伝染病の事を、「失礼ながらマダムー」と助言する想像のシーンがとても素敵で良かったです◎
彼に触れる事ができたのだから。
娼家の少女が片足でドアを蹴って閉める動きに迫力あり、夜の合奏団の男のうるささと不気味さ、裏通りの街の汚さ。
美と醜悪の対比
美しいマーラーの曲と、アシェンバッハの切なさは迫るものがありました。でも彼は幸せなラストだったと思います。あんなに愛おしく思ってる人を眺めて亡くなるのだから。
改めて観て、とても良かったです◎
精神性の敗北に美しい形象を付与した稀代の傑作
本作は、初老の芸術家が美に陶酔し、美に殉じ破滅していく姿の美を描いた耽美主義映画である。ことさらストーリーを書くのも気が引けるが、映像が寡黙であるため、ここで原作の内容を紹介しておいたほうがいいだろう。
〈原作のあらすじ〉
主人公の老小説家アシェンバッハは避暑地ヴェニスで14歳くらいの少年に出会う。その印象は、「自然の世界にも芸術の世界にもこれほどまでに巧みな作品をまだ見たことはない」と思わせられる美しさで、彼はその夜、「あとからあとからいろいろのこと」を夢に見る。
次に会った時、今度は「神々しいほどの美しさ」に度肝を抜かれる。
やがて何度も海水浴場で見かけるうちに「小さな肉体の、あらゆる線、あらゆるポーズを知悉し、いくら感嘆してもし足りず、いくらやさしく味わい楽しんでも楽しみ足りぬ」というほどに陶酔しきってしまう。
これはもう、完全に恋愛である。しかし、この頃はまだましだった。「美とは人間が精神に至る道であり、ただの手段に過ぎぬ」と考える余裕があったからだ。美など、アシェンバッハが刻苦勉励して築き上げた精神世界に至る入口程度のものだと。
しかし、出会ってから4週目に入る頃には、彼は少年一家の散策をこそこそ付け回すようになっている。
一方、ヴェニスは滞在当初から「ものの腐ったような匂いのする入江」であり、「不快に蒸し暑く、空気は澱んで」いたのだが、今では町の中心部に消毒剤の臭いが漂い、事情通のドイツ人たちはすっかり引き上げてしまった。
原因を追究したアシェンバッハは、それがコレラの蔓延であると教えられ、ただちに引き揚げるよう勧められる。今ならまだ「自分が再び自分の手に戻ってくるかもしれぬ」と彼は思い惑い、しかし、そうする代わりに留まることを選択してしまうのだ。
今や彼は、美から精神に至る道は「本当に邪道であり、罪の道であって、必ず人を間違った道へ導く。われわれにはただ彷徨することしかできない」と、狂躁した頭脳で思いめぐらす。
美に踏み迷ったアシェンバッハは、もはや精神世界などそっちのけで美を享受することに全精力を傾けるだけであり、彼の芸術はたった一人の少年に敗北したのである。
さらに彼は少年に気に入られようとして、かつて唾棄するほど軽蔑した若作りの老人と同じ化粧を施し、少年一家の後を追って病んだヴェニスを彷徨し、最後には「腰から手を放しながら遠くのほうを指し示して、希望に溢れた、際限のない世界の中に漂い浮かんでいる」少年を追おうとして砂浜に立ち上がったところで、コレラにより絶命してしまう。
〈美学・芸術論について〉
原作でアシェンバッハの内面の葛藤として描かれている美学・芸術論を、映画はアルフレッドなる友人を登場させ、アシェンバッハと議論させる形で表現している。
「美は精神的な営為によって生まれる。感覚への優位を保つことによってのみ英知、真理と人間の尊厳にたどり着ける」というアシェンバッハは原作の通り、自然美より精神性により生まれる美を優位に置いている。
これに対しアルフレッドは、「美は感覚だけに属し、芸術家が創造することなどできない。英知、真理、尊厳――そんなものが何になる」と彼を批判する。
友人の意見は、アシェンバッハが少年に出会った結果、その芸術観を揺るがせていく過程の比喩である。彼が少年に惹かれれば惹かれるほど、その批判は手厳しくなっていく。
「芸術は教育の一要素」と言うアシェンバッハに対し、友人は「芸術は個人道徳と無関係。汚れに身を晒し、道徳から解放されれば、君は最高の芸術家だ」と、彼を堕落と狂気に誘い、その結果、アシェンバッハは醜悪な化粧に手を付けてしまう。
末尾に近くアシェンバッハの公演が失敗に終わるのも、現実というより己の芸術が敗北した自覚の比喩だろう。だから友人の最後の声は死刑宣告の悪夢と化すのである。
〈評価〉
ヴィスコンティ監督は、主人公の職業を小説家から音楽家に代えたこと、美学・芸術論の内容をいくらか変更させていること、主人公の妻子や売春宿シーンを追加したこと等を除き、この映画を原作に忠実に作っている。したがって、上述のストーリーはほぼそのまま映画作品のストーリーと考えてよい。
結局のところ、本作は精神性が美に敗北する耽美主義の映画という結論になるが、ここで何より素晴らしいのは、腐敗臭と消毒剤、汚染物を焼却する煙にまみれたヴェニス、コレラを病む古都の頽廃の美が、見事に映像化されていることである。
ことに醜悪な化粧を施した主人公が、汚染物を焼却する炎と煙に巻かれた迷路のような街並みを、病に侵され弱った足取りで少年一家を付け回す狂躁と徒労に、観客は惹きつけられてしまう。
果実は腐りかけがいちばん美味いという。全編を通して流れるマーラーの第5番は、敗北した芸術家の辿る腐敗した街並みと響き合い、甘美な頽廃とでもいうべきものを伝えてくるのである。精神性の敗北に美しい形象を付与した稀代の傑作だと思う。
美の渇望は生きる活力となるか?
ルキノ・ビスコンティ監督によるドイツ三部作第2作。
Amazon Prime Videoで鑑賞(レンタル,字幕)。
原作は未読です。
アッシェンバッハがタージオに抱いた感情とはなんなのだろう。恋なのか憧れなのか崇拝なのか。そんなことを考えながら観ていました。アイドル・ファンの視点で考えると、推しを愛でる感覚と同じなのかなぁ、なんて思ったりしつつ。
生きる気力を失っていたアッシェンバッハは、タージオの美しさに心を打たれ、次第に活力を取り戻していきました。それと同じかは分かりませんが、私は推しの頑張っている姿から元気をもらっていますし、だからこそ応援しようと思える。
アッシェンバッハが追い求めた美とは、努力と創造の果てに生み出されるものでした。しかし、老いと共に作曲も思うように行かなくなり、友人からそのことを批判され、身も心も疲弊していました。そんなときに出会ったタージオは、完成された美を持っていました。性別を超越した中性的な美しさ。うっとりしてしまうような魅力に溢れているなと思いました。
アッシェンバッハは、どんなに頑張っても辿り着けなかったものを持っている彼に夢中になって、じっと彼を見つめ、どこまでも追い掛けていました。やっぱりこれは恋と云うよりも、憧れの感情に近いのかもしれない。それが彼に幸せを与えるのと同時に自らの醜さを実感させられ、その崇高さに容易に声も掛けられない。めちゃくちゃプラトニックな感情。
しかし、世界は残酷でした。コレラに感染したアッシェンバッハは、キラキラと輝く海に佇むタージオを見つめながら、その生涯を終えました。明るい未来が待っていそうなタージオに対して、若づくりのための白髪染めが溶けて黒い汗になり、白粉がまるでピエロのような物悲しさを漂わせる姿のアッシェンバッハ。対比が印象的なラストシーンでした。
人生は対比に満ちているのかもなぁ、と…。幸福と不幸。若さと老い。生と死。本作で描かれたものは、生きている上で逃れられないものばかりだなと思いました。
どんな形であれ、「好き」は生きる力をくれる。
その結末が幸せなものだったとしても、反対に不幸せなものだったとしても、愛を求め続けて命を燃やした日々は、人生にかけがえの無いものを与えてくれるのかもしれない。
※修正(2023/05/23)
よく眠れた
ビスコンティの映画は必ず眠くなるのだけど、その中でも特に眠かった。見始めると5分で眠くなるので、見終わるまで10日くらい掛かった。主人公のおじさんが顔を白塗りにしていたのは、笑った。冗談でやっているのかと思ったらそうではなく、真面目でやっていたのでどうかしている。とてもつまらなかった。
砂時計
マーラーの名曲が響く。対比が美しい。
特に最後のシーン。海と陸。黒と白。直立と座位。若さと老い。生と死。いくら努力しようとも決して到達し得ない美しさ。その美は存在そのものが尊い。砂時計はひっくり返した瞬間からゆっくりとしかし確実に落ちていく。生から死へと。砂が減っているのに気づくのは砂がほとんど落ちてからだと言う。自分の力では到達できない美しさを生命という砂をすり減らしながらみた彼。ベニスでの療養のはずが逆に心身を痛ませる結果になった。砂時計の砂は上にはいかない。それは、美を追求する彼がみたものを忘れることができないように。彼もまた椅子から落ちた。広い砂浜へと。
彼は美を追い求め、その中に沈んでいった。彼がかつて愛していた子の死は彼をより観念的な海に身を沈めさせたのかもしれない。現実の悲壮は現実で癒すか、現実とは遠く離れた場所に訪れることでしか癒えないからだ。後者をとった彼はベニスに死す。優美な化身が海の中で踊るのを目にしながら。
あの笑顔
午前十時の映画祭にて鑑賞。
美しい映像に美しい音楽、そして美しいタジオ!
物語としてはものすごく淡々としている。
もうおじさんが美少年にずっとモジモジしてるだけ。
だけれど、死んだように生きていたおじさんが美少年に出会ったことで生き生きとして死んでいくのがなんだか心に残る。
中盤、ベニスから帰ろうとした主人公が荷物の手違いでベニスに残らなくてはいけなくなってしまった場面、そこでの主人公の表情がなんとも印象的だ。
今まで全然笑わなかった男が、心底嬉しそうに笑うその笑顔!彼は初めて生きる意味を知ったのだと思った。
「永遠の美」には届かない
主人公は作曲家だ。
彼のモットーは「永遠の美」「理想的な美」「完全で純粋なもの」。
人々の振る舞い,さりげない所作にも気品を要求する。
しかし大衆は彼の芸術を理解せず,挫折する。
回想に登場する友人もまた,主人公に対抗するようにして「俗」の考え方をぶつける。
そんな彼がベニスを訪れて出会ったのが,完璧な美を備える少年タージオ。
美しく,また所作からも上流階級の教育が見て取れる。
主人公はタージオに近づこうとベニスの街を彷徨うが,触れることも叶わない。
やがて主人公は伝染病に罹患。化粧が醜く崩れていくなか,夕日に向かって進んでいくタージオの背中を眺めながら砂浜で息絶える。
*
完全な美を目指す主人公にとって,タージオはまさに理想を具現化した存在。しかしいざ彼を目の前にして,自分自身こそが醜い存在であり,理想の美は自分には得難いものなのだと悟る。夕日に向かっていくタージオは,主人公にとっての理想が遠ざかっていくことを表している。主人公の目指した芸術性は,彼の死とともに敗北を迎える。その様を2時間かけてじっくりと丁寧に描写した。夕焼けのラストへ向かって、この映画はマーラーの交響曲とともに絶頂を迎える。
*
本作において,笑いというのは下等で俗で下品なものとして描かれた。
笑う者は俗であり,上品な人間は笑わない。
主人公も無表情を貫くが,自分の死を悟ってようやく笑う。
それは主人公が俗へと転落した瞬間であり,またそのことを自覚した自らへの嘲笑でもあった。
何が起きているのか分かり辛い
総合50点 ( ストーリー:50点|キャスト:75点|演出:40点|ビジュアル:70点|音楽:75点 )
「苺は危険、この暑さだから」
この前振りから始まる伏線を見逃すと彼がなぜ体調を崩したのかがわからない。突然始まる消毒に疫病の報告があるが、そもそも彼が体調をそんなに崩しているとも思えなかった。コレラということだが、それらしい症状が主人公からは感じられない。まして死んだとは思わず、ただ寝ているだけだと思った。
タッジオのことにしてもそうで、主人公が彼に対して恋愛感情や性欲をもっているなんてことはわからなかった。
このように物事をはっきりさせずに淡々と外側から展開を映すだけの演出では、一体何が起きているのか伝わってこない。だから物語がさっぱりわからない。若いころに初めて観たときは全く理解できなかった。結局後でネットで調べてその内容を理解することになる。
原作は未読だが、調べてみると言いたいことはなんとなくわかる。年齢を重ねて若さと健康をなくし、芸術を追及して仕事で行き詰まり、そんなときに保養地で会った純粋に若さを楽しむ美少年は自分が無くしたものを全て持っていた。それに対する憧憬と美に引き寄せられる自分。特に私も年齢を重ねてくると理解できる部分が昔よりも増えていた。
原作を知っている人はいいだろう。だが内容を知らず調べもせずに映画を観ても何が起きているのかさっぱりわからないしただ退屈。何が起きているのか主人公の心の内を物語としてわからせなかった演出は、芸術性に傾斜しすぎているように感じる。
芸術作品
ひたすら美少年をつけ回すオッサンの話……
と言いたいけれど、なぜかそれが美しくて見とれてしまう。オッサンにとって美少年は一種の芸術であり、美の追求や若さへの憧れとして見ている。決してショタコンではない。(たぶん)
疫病の流行に恐怖しつつも、結局は国から離れることなく死を選んだ。もし、美少年が少しでも嫌な顔をしたり、あからさまに不快をあらわにしていたら、オッサンは帰っていたかもしれない。そして疫病にかかることなく、しばらくは普通に生きていたはずだ。
しかし何のつもりなのか美少年は、いつだって優しく微笑んでオッサンを誘惑するのだ。
あざとい。美とは時として凶器である。
美しい恐怖
悪く言えば
美少年に惚れこんでしまったおじいちゃんが130分間もじもじ彼を追いかけまわして挙げ句死んでしまうという色んな意味ですごい映画。
今の時代(じゃなくても?)に見ようものなら、通報されるんじゃないかとか、少年に毛嫌いされるんじゃないかとか、少年の母上に嫌われるんじゃないかとか、イロイロ考えてしまう。
だがこの映画でビックリなのが、以上のような事がないどころが、少年とおじいちゃんが会話をする事すらない。セリフも少なく、ただベニスで過ごすタージヒ少年の家族と主人公が淡々と写されていく。
追いかける過程の中で何度も何度も死の影がちらつく。一見、不自然なほどに話の中に伝染病の話題が出てくる。後半だんだんと背筋にくるような印象が強くなってくる。知らず知らずの間に主人公は病にかかっている。そして題の通り、ベニスで死んでしまう事に。
少年は微笑みかける。
タージヒ少年の美しさはもうそれはそれははんぱじゃない。妖怪じゃないかと思ってしまうほど。主人公は一喜一憂しながら少年を追いかける。この恋というのがまた。同性愛的でない。相手が少年なのと、妖怪かと思うほどに美しいからなおさらそう思う。女でないからその感情に性的な感じが漂わず(あくまで私の意見だが)とても神聖な領域の話にみえてくる。実際にタージヒ少年は天使とか悪魔のたぐいにも見えてしまった。彼の微笑みが主人公を死へ導いた。老いという苦しみを与えた。考えるほど奥が深く、深く深く色んな意味が詰まっている映画なんだろうと思った。
印象的だったシーン。
主人公がベニスに留まる事を決め、ボートにのり、笑顔が満開!もらい笑いしてしまった。結局苦しい死を迎えるわけだけど、死ぬ前にこんなに本気の恋が出来た事はとても幸せだったのかもしれない。
美への純粋な愛
深くて美しい映画だった。
美しいものを見た時、人は性別関係なく惹かれてしまうことがある。
綺麗な肌を見たら触ってみたいと思う。
いい匂いのする人がいたら近くにいたいと思う。
誰しも多かれ少なかれ、このような感情はあるはずだ。
それまでの美への価値観を覆してしまうほどの衝撃を受けた作曲家グスタフは、
まるで初恋をした乙女のような行動をとるほど
タジオの虜になってしまう。
この映画は単に同性愛を描いたものではない。
グスタフにとって、タジオが男であるか女であるかは関係ないだろう。
タジオがたまたま男でありながら美しすぎただけなのだ。
一人の老いた芸術家が、
若くて美しい天然の美を誇る少年に出会う。
今までの芸術に対する考えを覆され、
届かない美の象徴である少年に翻弄され苦悩し、
果ては醜い姿で死に至る。
天然の美へのどうしようもない憧れ・・・。
人間の普遍的な執着を描いた
ある種残酷な作品に仕上がっている。
タジオが女ではなく男であるとしたところに、
「美しいものへの純粋な愛」を際立たせ、
どこかミステリアスな雰囲気をこの映画にもたらしている。
しかし、グスタフのあまりに腰抜けな動作には見る度笑ってしまう。
手も足も出せず、ただただ見つめるだけ、そっと近づくだけ。
妄想までしてしまう始末。
またベニスへ戻ってくる時のどこか嬉しそうな表情。
なんて滑稽なんだろう。
グスタフは何を思い死んでいったのか。
彼の人生とは何だったのか。
タジオに出会わなければグスタフはあそこで死ぬことはなかったかもしれない。
醜態をさらすこともなかったのかもしれない。
しかし、翻弄されながらも
追い求めていた美を眺めながら死んでいった彼は
ある意味幸福だったのかもしれない・・・。
最近観たどの映画よりも叙情的で不思議な魔力を持つ作品だった。
これから何度でも観るつもりだ。
タジオの美しさについて。
まるで地上に降り立った天使。
西洋画から抜け出してきたような美少年。
とにかく、俗っぽさ、男性らしさを一切感じさせない。
白い陶器のような透き通った肌、
薄紅の頬と唇、
耽美さを増す髪型のウェーブ、
ヒョロッとした華奢な体つき、
高い腰の位置。
ビョルンは性別を超えた美しさをこの作品では誇っている。
意外と低いが何気に声もいい。
ビョルンの素材がよかったのは勿論言うまでもないが、
ここまでタジオを永遠の美少年に仕立てあげたのは
演出の力も大きいだろう。
彼が纏う衣装はどれも似合っていて美しさを際立たせるものだった。
ふとしたときのポーズも、まるでわざとらしいくらいに計算されている
(きっと、腕や足の位置を細かく指定していたのだろう)。
グスタフの視線に気付いてからは挑発的で小悪魔な感じの態度を見せるが、
これもまた彼の魅力の一つと言える。
黒目が小さく切れ長でSっぽい目つき・・・。
グスタフが思わず愛しているとつぶやいてしまうのにも納得だ。
ただでさえ美しさにノックダウンされているのに、
更に魅惑的な顔を見せられてしまっては、
「これ以上翻弄しないでくれ」という気持ちが起こってしまう。
タジオの母親も、タジオに負けず劣らずの美しさだった。
衣装も派手で優美でため息が出るほどだ。
二人が揃えばまさに負けなし。
タジオに執拗にイチャつく友人が気になった。
「まさかこの友人もタジオに惹かれている?」と思わせるほどだった。
この演出は監督が狙ってのことだったのだろうか・・・?
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