もうひとりのシェイクスピアのレビュー・感想・評価
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この作品を真実だと思い込んでしまうほど完成度が高い。 内容に対して...
この作品を真実だと思い込んでしまうほど完成度が高い。
内容に対して時間が短く、ストリーを追うのに疲れるが、美しい映像の16世紀、イギリスに引き込まれてしまう。
時間が足りなかったのか、女王の描写が浅く感じた。
フィクションとしてのリアリティ
特に選んだ訳でもないが『ブーリン家の姉妹』の次に同じくチューダー朝を舞台にした作品を観ることになる不思議。
今作の舞台はアン・ブーリンとヘンリー八世の娘エリザベス一世の治世。
今もまことしやかに語られるシェークスピア別人説に基づくフィクション。
シェークスピア別人説については極論としてあまり真面目に取り上げられることもないようだが、これは実在した登場人物を使い、結果としての史実を見事にフィクションとして融合させた秀作だと思う。
ストーリーとして良く出来ていると共に、“あったかもしれない事実”として、とても説得力がある。
物語の中心人物は“もうひとりのシェークスピア”であるオックスフォード伯エドワードだが、彼を取り巻く登場人物、エリザベス一世、セシル親子、ベンジャミン・ジョンソン、ウィル・シェークスピア、サウサンプトン伯など皆キャラクターが立っていて、この時代の群像劇としても見事に成立している。
監督はローランド・エメリッヒ。
この人は、大味な大作映画の人というイメージで、まったく興味もなかったのだが、今作では、監督も“化ける“ということを痛感させられた。きっと今までは、いい企画と脚本に巡り合えなかっただけだったんだろう。
舞台に始まり舞台に終わる構成も、ストーリーにピッタリだった。
監督も俳優も、食わず嫌いは禁物です。
言葉で世界は変えられるか
本作冒頭に「言葉で世界は変えられる」というセリフが出てくるのだが…。
言葉…広くとらえれば物語…それには映画も含まれると思う。
「映画で世界は変えられる」なんつう重いテーマをエメリッヒは持ち出してきたのか。
そんな自分に跳ね返ってくるブーメラン投げて大丈夫なのか?
ガチなテーマに、ふてぶてしく、いやココロザシ高く挑んだエメリッヒ会心の一作だと思う。
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シェイクスピアの正体。
それに様々なドラマが絡んでくる。権力争い、陰謀、親子関係、恋愛関係…。
そんなテンコ盛りなお話を分かりやすく手際良く描いていく。
どんでん返しもあり、ストーリーを追っていくだけでも充分楽しい。
当時の街並みや貴族達の意匠、舞台装置など映像的にも美しく観ていて飽きない。
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テンコ盛りなお話の中でもやはり核となるのは、
「言葉を書く人」「物語を作る人」たちの苦悩だろうか。
禁止されても愚か者と罵られても、書くことを止められなかったシェイクスピア。
シェイクスピアの圧倒的な才能に深く嫉妬し、彼には敵わないことを承知しながらも、自分も言葉を書き続けた劇作家のベン・ジョンソン。
二人の最後のシーン、セリフがいい。
シェイクスピアがなぜベンに戯曲を託したのか。
「言葉を書く人」同士の強い連帯と敬意が溢れ出ていて、胸に迫る。
二人の健気さに、この物語を作ったエメリッヒの健気さが重なって、なんだか込み上げてくるものがあった。
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「言葉で世界が変えられる」
世界とは、社会や歴史といった大きいものを指すと同時に、個人の心情・精神世界といったものも指していると思う。
そういう意味ではこの映画、私の心をしっかり揺さぶって変えてくれたと思う。
「ロミオとジュリエット」と「ジュリエットとロミオ」
映画「もうひとりのシェイクスピア」(ローランド・エメリッヒ監督)から。
「戯曲37曲 ソネット154篇 物語詩 数編
それらは全て人類と英語における究極の表現として、知られる。
それなのに、それなのに、
シャイクスピアの自筆の原稿はいかなるものであれ、見つかっていない。
400年もの間、何ひとつない。我らのシェイクスピアは謎の存在だ。実体がない」
この台詞で始まる物語は、シェイクスビア別人説を私に信じ込ませた。
日本でも「織田信長」や「上杉謙信」の女性説などがあるように、
まったく否定できないところに、この推理の面白さがある。
実は、原題の「Anonymous」は「匿名の」の意。
(書物では)作者不明の、(歌では)読み人知らずの、という使われ方をする。
しかし「作者不明」よりも、仮説を立てて立証していく方が、ワクワクするし、
真実味が増すのは、言うまでもない。
日本的に言えば「影武者」の要素が強いかもしれない。
メモしていて気付いたことだが、1か所だけ首を捻るシーンがあった。
オックスフォード伯は「(ロミオとジュリエット) ロマンス悲劇だ、
『弱強五歩格』で」と作品名を告げたにもかかわらず、
影武者の劇作家は「ジュリエットとロミオ」と作品名を間違える。
単なる和訳の間違いなのか、意識的に間違えたのか、気になっている。
こうなったら、もう一度、原語で確かめるしかないかなぁ。(汗)
P.S.(ラストシーンの台詞を・・)
「奥さま、あなたやご一族や、この私やエリザベス女王でさえ、
ご主人と同じ時代に生きることができて光栄です。
見事な言葉が書かれたその時代に。
石ではなく、詩で形づくられた記念碑は、永遠に人々の記憶に残る。
言葉は息から生まれる、息が命から生まれる限り」
素晴らしかった
1600年前後のイギリスという全く馴染みのない世界が舞台で、登場人物が多くてややこしい上に時系列も前後するので、これはついていけないかもと不安に思っていたのだが、意外とすっきり見やすくて、いつの間にか没頭していた。けっこう長い映画なのに、全く時間が気にならないくらい面白かった。
何が素晴らしいかと言えば、シェイクスピアの本体である、エドワードがお金でも名声でもなく、ピュアに創作を人生の仕事として取り組んでいるところだった。もちろんその創作で、敵を失墜させようとしたり、恋の手管として活用したりもするのだが、それも含めてすべて創作の糧として、どっちが先か後か分からないくらい人生と創作が密接に不可分であってこそまた創作ではないかと言っているかのようであった。
ベン・ジョンソンを実はエドワードがその実力をとても認めていて、彼の賞賛を一番求めていたというのも非常に感動的であった。それがベンには呪いであり、ウィリアムが馬鹿だから気にしていないかもしれないけど、彼にとっても呪いであった。どうあがいても太刀打ちできないほどの才能が周囲を苦しめていた。
あの息子、馬とか兵隊引き連れて城に行ったらそれは、どう見てもクーデターにしか見えないだろ、と思った。一人で徒歩で行けよ。
エリザベスが大して賞賛すべき人物として全く描かれていないところも面白かった。
シナリオとスタッフに拍手
16世紀、エリザベス一世統治下のロンドン。宰相として権力を振るい、王位継承者にスコットランド王ジェームスを据えようと企むウィリアム・セシル卿は芝居を忌み嫌い、それが民衆にもたらす力を恐れて弾圧する。オックスフォード伯エドワード・ド・ヴィアは、セシルの陰謀に反抗するように自作の戯曲を劇作家のジョンソンに託し匿名で上演させる。芝居は喝采で民衆に迎えられ、民衆は作者の登場を要求する。そこへ自分が作者だと名乗り出たのは、エドワードが自身の替え玉として選んだジョンソンではなく、その劇に出演していた役者のシェイクスピアだった。
ローランド・エメリッヒ監督が、18世紀に始まったシェイクスピア別人説論争の中で有力とされている、第17代オックスフォード伯エドワード・ド・ヴィアが真の作者であったという説に立ち、なぜ彼がその真実を隠さねばならなかったのかを主題にしながら、愛と陰謀渦巻く宮廷を描いた歴史ミステリー。
しかしこの作品は、彼が真の作者であったことを証明しようとするものではなく、彼が作者であったのならこんな物語だったのではなかろうかという、あくまでも「物語」であり、その真実味溢れる重層的で重厚なシナリオとともに、16世紀のにおいまでも伝わってきそうなほど現実味を持ってロンドンを再現してくれた「特撮」と美術や撮影スタッフの素晴らしさに拍手です。
大胆な推理がおもしろい。
ウィリアム・シェイクスピアが、実は別人だった?!
今に至るも、自筆原稿や日記などが見つかっていない。そのため、推測される別人説。
別人として有力視とされるのが、哲学者フランシス・ベーコンや第17代オックスフォード伯エドワードなど。
その一人、オックスフォード伯エドワードに焦点を当てた作品だ。
監督は、ローランド・エメリッヒ。
「インディペンデンス・デイ」の監督だけれど、以外にも、良かった。
重厚な造りの邸宅やお城。
衣装。
文字の美しさ。
何気なく使われる小物。
そのどれもが、素晴らしい。
それを見るだけでも、嬉しくなっちゃう。
法律や古典の知識が無いと書けない戯曲など、学歴のないシェイクスピアが、どうして書けたのだろう。
シェイクスピア後の売れっ子作家となったベンジャミン・ジョンソンを、使い走りに使ってみたり。
当時の政治状況やエリザベス1世との愛憎を交えた大胆な推理は、おもしろかった。
シェイクスピアが有名になってから獲得した紋章には、「NON SANZ DROICT」と書かれている。
意味は、「権利なかざるべし」だそうな。
それにしても、リス・エヴァンスは、上手な役者さんですね。
いけすかない意地の悪い役もこなせば、こんな悩める役もサラッとこなしてしまう。
さすがです。
サウサンプトン伯ヘンリーを演じたゼイビア・サミュエル。
若き日のオックスフォード伯を演じたジェイミー・キャンベル・バウアー。
この二人がそっくりに見えて、困った。
二人ともイケメンだよね~。
デビッド・シューリス演じるセシルと、息子のロバートと、前出の3人をしっかり覚えておくと、ストーリーがよくわかる。
ベンジャミン・ジョンソンは、お顔に特徴があるので、見分けがつく。
William Shakespeare。
shakeは、揺れる。震動する という意味。
spearは、spear carrie で、チョイ役、エキストラ という意味。
な~んて、考えると余計に面白い。
VFXを駆使した背景は素晴らしいものの、ストーリがやや難解。予習が必要な作品です。
ローランド・エメリッヒ監督と言えば、パニック大作で著名な監督。その監督が歴史大作を手掛けただけに、得意のVFXを駆使して400年前のロンドンの街を懲りにこだわって忠実に再現。丁寧な時代考証、重厚な装飾とスペクタクルに彩られ、見応え十分の歴史絵巻に仕上がりました。このこだわりが、シェークスピアが活躍した時代の再現に説得力を与えたのです。
本作の原題は、『Anonymous』(匿名)。つまりシェイクスピア劇の“真の作者”は、なぜ匿名を貫いたのか、その謎を解き明かすことがメインテーマの作品です。
。歴史的な名作の数々は、どのようにシェイクスピアなる人物の手に渡ったのか。これらの謎解きのドラマに期待したのです。しかし、いともあっさりとシェイクスピアは誰だったのか、明かされてしまいやや興ざめしました。むしろエリザベス1世時代の権力闘争やドロドロの愛憎模様が軸になっているのですね。だから、謎解きの部分とエリザベス1世の後継を巡る権力争いが交差しだす後半部分になるまで、ストーリー展開が掴めず、筋に追いついて行くのがきつかったです。それに加えて、主人公のオックスフォード伯エドワード・ド・ヴィアを取り巻く大勢の登場人物を把握するまでが大変。これは誰だったけといちいち思い出さねばならないことがホネでした。
さて、なぜシェークスピアに別人説がまことしやかに語り継がれているのでしょうか。本人の自筆の原稿が全くないということに加えて、その根底には、『リア王』などの王侯貴族の戯曲の数々を、田舎町の職人の息子が、書けるはずがないという差別的な発想も影響していると思います。貴族の暮らしや外国の文化について、彼の生まれ育った環境ではそんな知識は得られるはずもないではないかという指摘には一理あると思えました。だから貴族のエドワードが、もうひとりのシェイクスピアとして、スポットライトが当たっても可笑しくはなかったのです。
本作では別人説がエドワードであることに立脚して語られるのですが、それでも謎は残ります。なぜ彼は正体を明かさなかったのか。物語は丁寧にその事情を開かしていくのです。エドワードは劇中でこう言っている。「貴族は戯曲など書かない。家名に傷がつく」と。ただ真実はそんな貴族のプライドだけで済まされるようなことではなかったのです。 聡明なエドワードは、芝居が社会を変える力を持つことに気づいてしました。そこで自ら芝居を書いて民衆を煽り、政敵となった宰相ウィリアム・セシルの専横を抑止したかったのです。王位継承を巡り、エドワードとエリザベス女王の間に生まれた女王の隠し子にも、セシルの追及の魔の手が及んでいたのです。それは社会的な立場を追いおとすだけでなく、命まで奪おうという陰謀でした。あろう事か女王までその陰謀に陥れられて、隠し子と知りながらも処断しようとするのです。息子の命を守ろうとした、エドワードの対抗手段が戯曲による大衆扇動だったのです。劇中セシルそっくりの猫背の人物が登場して、専横ぶりを発揮する芝居ぶりには、ご当人には腸が煮えくりかえる思い立ったでしょう。 そんなわけで身の安全のためにも、エドワードは名乗り出なかったのです。
言葉を紡ぐことに天賦の才を持つエドワードでした。彼はしかし、作家としての称賛を得ようとは生涯思わなかったようです。臨終が近くなったとき、代役を務めた劇作家のベン・ジョンソンを呼び寄せて、自分が数多くの言葉を残せたことにいかに満足だったか、達観して語る思いには感動しました。後世に名を残すことはしないという執着のなさに、でもその気持ちはいかばかりだったろうと思いを巡られてしまいます。
ここで疑問なのが、当初の代役はジョンソンたったのにいつの間にか、役者だったシェークスピアの方にその役割が移ってしまったことです。そして不思議なことにジョンソンは劇作家として成功して、歴史に名を残しました。
本作では、シェークスピアが代筆させていることを感づいて、エドワードを脅した結果、代筆の権利と自身の専門劇場となるのグローブ座の建築費をエドワードからせしめることにありつけたのです。この辺は史実とはやや異なりますが。
立場を奪われたジョンソンは、自棄を起こして、エドワードを裏切ることになるのですが、問題はジョンソンから、一介の三文役者に過ぎないシェークスピアになぜ容易に原作者の権利を移すことができたのかということです。
当時は、劇作家の地位は役者よりも低かったのです。台詞を生み出す人間より、台詞を演じる人間、そしてさらに、それを芸術として享受しえる観客こそ尊いのだという考え方が当時では一般的でした。
この物語が進行する17世紀の時代の人間とって、筋書きは誰が書いたかなど今ほど重要視されていなく、誰でもよかったのです。だから「別人説」が登場するのは、劇作家の地位が上がった近代以降のこと。ということは、当時を誠実に再現すれば「実際に書いたのは誰か」という主題自体が無意味になってきます。それで、本作では「誰が書いたのか」という謎解きよりも、「なぜ秘密にしたのか」というエドワードの止むを得ない事情を、当時の王位継承にまつわる権力闘争に交えて描いていく展開になったのだと思います。
史実とフィクションが絶妙に融合され、破綻はないけれどやや難解。事前に歴史の下調べをして、登場人物の予習をしておいた方が、より楽しめる作品といえそうです。
2本の糸が途方もなくよじれ合う
この作品、2本の糸が絡み合う。
数々の名作を残したシェイクスピア。ところが400年もの間、彼の直筆による原稿は何一つ残されていない。シェイクスピアのものとされる作品は、実はほかの人間によって書かれたのではないか。1本はそうした推論にもとづくミステリーの細い糸。
もう1本は、シェイクスピアの正体とされるオックスフォード伯と、彼を取り巻く政治情勢だ。
エリザベス1世の統治下で宰相の座につく時の権力者セシル卿は「芝居は悪魔の産物」として、民衆が芝居に扇動されて政治が思うようにならなくなることを恐れていた。ましてや、貴族が芝居を書くなどということが許されるはずもない。オックスフォード伯は、自身が書いていることを世間に知られてはならない。そして、自身の文章によって政治を動かそうとする。このサスペンスの糸は太い。
この2本の糸の絡み合いは、現在と若き日の交錯によって途方もなく複雑によじれ合う。単にシェイクスピアの正体を暴くといったものではなく、その時代における文章の持つ力と権力による計略のせめぎ合いにザワ立つものがある。
たしかに歴史や政治観、民衆をトリコにするほどの文章力と教養を考えると、実はシェイクスピアが貴族だったというのもあながち作り話だとも言い切れない。
互いを思いやるオックスフォード伯とエリザベス1世を演じたリス・エヴァンスとヴァネッサ・レッドグレイヴ、そして情熱的な若き日の二人を演じるジェイミー・キャンベル・バウアーとジョエリー・リチャードソン、どちらもナイス・キャスティングだ。
16世紀末のロンドンを再現したセットとVFXも素晴らしい。
本当だったら面白いかも♪
シェイクスピアの文学的才能は、
本当は こんな血筋から。。という作品です。☆=
画面がずっと同じ調子で、
正直言って サービス感はやや薄いです。
シェイクスピアの正体、、というのは、
文学ファンのあいだでは 昔から大きな関心ごとだけれど、
案外 こんな血筋からあの傑作が生まれたのかなvv ^-^
いろいろと興味深い作品だけれど、
万人受けという感じではないので、
どちらかと言えば、知的な時間を味わいたい方におすすめです♪ m--m
シェイクスピアはいなかった…?この題材は面白い!
あのローランドエメリッヒだよね?
っと思った予告編見て興味湧きました。
やっぱり、あの監督でした。
やたら大作ばかりで大雑把な出来具合の作品ばかりなイメージがある監督だったけどこれはいたって真面目な作品でした。
ある意味、期待はずれ…良いほうで。
シェイクスピアは架空の作家っていう歴史的疑問がまずは面白い。
けど、自分の頭はこの作品についていけませんでした…玉砕。
登場人物がなんか似たような顔の人ばかりで途中で誰が誰だかわからなくなって、そんなだから、おまけに眠気が…。
誰が誰の子供で、なんで密告で裏切られたとか…しっかり理解していればかなり面白いんだろうな〜。
マギースミスとかも久しぶりに観て感動しましたけどね。
Shakespeare!!
2012/03/04
書くの忘れてました。
飛行機の中であったので観ました。
英語読めないので、予告等見てシェイクスピアものかなぁ?と判断←
帰ってきてからタイトル調べてやっと「これかー!!!」ってなりました。
日本ではまだ公開してないんですね(´・ω・`)
とにかく舞台にわくわく!!!!!
衣装にもわくわく!!!!!!!
まだまだ未熟者ながらシェイクスピア好きとしては内容もおもしろかったです。ほほう、そういう説もあるんですかい・・・と。
何より、ジェイミー・キャンベル・バウアーがそこそこに出演しているのに驚きました(n‘∀‘)η゚・*:.。. あらやだやっぱり美形ーーーー!!!!!
アンソニーくん(スウィーニー・トッド)以来ファンです。はい。
劇場でまた観たいですね。
シェイクスピアの本当の姿がわかる
シェイクスピアが謎の人物であることは周知の事実だ。
ウィリアム シェイクスピアは、英文学の最高峰、英国を代表する劇作家で詩人。 記録によると、1564年に生まれて1616年に亡くなったことになっている。出身はイングランド地方ストラトフィールド アポン エイボン。父は町長に選出されたこともある皮手袋商人、母は裕福な家庭出身で、3番目の子供として生まれ、ストラトフィールドにグラマースクールで学んだ。 その後、高等教育を受けたかどうか、全くわかっていない。18歳で26歳の女性と結婚したあと どんな職業についていたか、など何の記録もない。28歳くらいでロンドンに姿を現し 劇場で役者として演じたり、脚本を書くようになった記録がある。
この16世紀という時代には一握りの人間しか物を書くことが出来なかった。田舎で生まれ育ち、結婚し、高等教育を受けたかどうかわからない人間が 人間への観察と人生に深い洞察をもった膨大な量の文学作品を書くことが出来るだろうか。ヨーロッパ各地の気候や風土にも詳しく、外国を舞台に悲劇や喜劇を書き残し、舞台でも成功させた。仮に天才だったにせよ、たった一人でできる仕事量だったろうか。シェイクスピアは生前、自作の信頼できる出版を ひとつとして刊行しなかった。シェイクスピアは、本当に数々の作品を書き残した人物と 同じ人物だろうか。
この問いの一つの答えを映画監督、ローランド エメリッチが映画で描いてくれた。
エリザベス一世の時代。スコットランド、イングランド、アイルランド全土を エリザベス女王が治めていて、政治的に安定していた時期だ。エリザベスは芸術を愛し、詩や物語を愛したが とりわけ劇に興味を持っていた。ロンドンではエリザベス朝演劇の興隆にともなって劇場活動が盛んになった。オックスフォードの最も古い歴史を持つ貴族、エドワード デ べラ(伯爵1550-1604)は 幼い時から自分で脚本を書いて芝居を作る才能に恵まれていたことから エリザベスは 彼を子供のときから寵愛した。そして親が亡くなると、エドワード デ べラはエリザベスの宮廷に迎え入れられ、秘書官のウィリアム セシルによって、ラテン語、フランス語、ダンス、乗馬、射撃などのスポーツにいたるまで王室教育を受け 世界各国を旅行し軍隊経験もして育った。美しい少年から立派な青年に成長したエドワードが 文学だけでなく武道にもスポーツにも才能をみせるに伴い エリザベスは 彼をはるかに年下でありながら 男として愛情を持つに至る。
エリザベス女王の秘書官として政権を補佐をしてきたウィリアム セシルはエリザベスの義母の結婚相手でもあったが 詩や文学を学問の中では一番卑俗なものととらえ、エドワードの文学的才能を嫌っていた。セシルはエリザベスが子供のときから その教育係であったが、エリザベスが政権を継いでからは 政務全てにわたる補佐官として絶大な影響力をもち、息子ロバート セシルにも同じようにエリザベスに仕えさせていた。ロバート セシルは脊椎湾曲症の障害を持っていて、エリザベスの秘書官として終生を忠実に仕えている。
エリザベスとエドワードとの熱愛関係が 目に余るようになると、セシル父子は 政治的な計略を仕掛けて エドワードを謀反人として隔離し、女王から遠ざける。しかし、実はエリザベスは エドワードの子供を妊娠していて、秘密裏に男子を出産していたのだった。
エドワードは セシルの計略どおりに セシルの娘と結婚を強いられ、セシルの屋敷に住むことを強要される。愛人を奪われ、望みを失い、エドワードはセシルの屋敷で、書斎に篭ってばかりいる生活を送るようになった。
一方、街では演劇が盛んで 劇場が次々と出来て、市民も貴族もみな芝居を楽しんでいた。ベン ジョンソンという劇作家が 芝居の中で政治批判をした罪で逮捕された。罰を受ける寸手のところで エドワード デ べラが救いの手を差し出す。ベン ジョンソンを自分の書斎に招いて、エドワードは自分が書いた戯曲を ベンの名前で発表して上演して欲しいと頼み込む。セシルも妻も エドワードが戯曲を書くことを 禁じていたが、エドワードは書くことを止めることが出来なかったのだった。渡された芝居はどれも上演されて 市民の間で大好評だった。エドワードも芝居を見に来て、自分が書いて 演じられている芝居を観て楽しんでいた。以来、べンは定期的に エドワードの屋敷に行き、脚本を受け取り、それを上演するようになっていた。
劇場でシェイクスピアの名が もてはやされるようになって、観客達はシェイクスピアを見たがった。そこで大人気を良いことに 俳優の一人が自分がウィリアム シェイクスピアだと名乗りを上げた。この役者は ろくに文字も書けない男だった。これにはエドワードもベンも驚いたが シェイクスピアがこの役者と結びついて 人々の人気者になっていくことをとめることはできなかった。
エッセックスのリチャード デべラクス伯爵が セシルの命令によって謀反人として逮捕された。そのとき、一緒に逮捕された伯爵の親友が じつはエドワードとエリザベス女王との間に生まれて 密かに育てられていた息子だった とセシルから知らされて、エドワードは慟哭する。すぐに、エリザベス女王に膝をついて、息子の恩赦を乞う。女王は怒り狂う。しかし女王は、エドワードとの愛情の結晶だった息子に 恩赦を与える。そのかわり、エドワードの名を消し去るように、どんな記録からも消して、追放する と宣言する。
エドワードと息子とは 初めて出会い 親子として、しっかり抱きあう。
こうしてエドワードは 晩年、宮殿を追われ、貧しい暮らしの中で執筆を続け、死んでいった。死の直前、ベン ジョンソンが呼ばれ すべての著作がベンに手渡される。セシルはエドワードが書いたものをすべて葬り去ろうと火を放つが、ベンの機転で、著作の数々は守られ 後世に伝えられていく。
というおはなし。
2011年 トロント国際映画祭の開会式で初めて上映された新作映画。
1550年から1604年までのロンドンを背景に、VFX CGテクニックを使って シェイクスピアの謎に迫ったフィクションミステリーだ。
シェイクスピアは 数々の作品を書いた人物ではなく、実際の作者はオックスフォードのエドワード デ べラ伯爵ではないか、という説は 昔から根強くあった。この伯爵が 文芸にすぐれた知識人で、エリザベスと親しく、宮廷で音楽会や芝居を催して 女王や貴族達を喜ばせたことは事実とされていて、謎の多い人物でもある。たしかにシェイクスピアの作品をみれば エドワード伯爵のように、特別な英才教育を受け、ヨーロッパ各地を自由に旅行するだけの資格と資金を持った人間でないと書けなかっただろうと思われる。
「ヘンリー4世」、「リチャード3世」、「ヴェニスの商人」、「ロメオとジュリエット」、「リア王」、「ジュリアス シーザー」、「アントニオとクレオパトラ」、「真夏の夜の夢」、「マクベス」、「お気に召すまま」、「じゃじゃうまならし」、「テンペスト」などなど。美しいソネットの数々、、、。
多様で、膨大な著作の数々。シェイクスピアが誰なのか、、、一人ではなく、複数の作者が居るのではないか、エドワードではないか、フランシス ベーコンか、クリストファー マーロウかも知れない、、、いまはもう誰にもわからない。
しかし、彼の作品が ほかの誰にも書けなかった 素晴らしいものであることは、誰にも否定できない。
バネッサ レッドグレープが演じる、エリザベス女王がすごい迫力だ。いまだに健在でうれしい。
エドワード デ べラを演じた ライ インファンズと、若い頃のエドワードのジェイミー キャンベルが とても魅力的。素晴らしい演技をみせてくれた。
エリザベス一世の時代、セシルとの関係など、また諸外国との関係など、いろいろ出てきて、英国史のおさらいで勉強になる。当時の豪華な衣装や 儀式などの時代背景や ロンドンの市民の姿なども とてもよくわかって興味深い。
とても良い映画だ。
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