タイトルからして、そのものずばり、の妊婦映画。…のわりには、「妊婦割引き」とか「母子手帳割引き」とかやらないんだな…というのが観る前の漠然とした疑問だった。観て納得。これは、妊婦の映画ではない。
確かに、妊婦の主人公・光子は強烈で魅力的なキャラクターだ。光子を軸として、物語は絡まりほぐれ、転がっていく。けれども実は、光子を取り巻く人びとすべてが、様々な意味で強烈であり、魅力がある(もしくは、「粋」である)。そして、光子ひとりが彼らを変えたり引っ張っていったりするわけではない。互いの奇想天外なやりとりが、光子を含めた彼ら自身を変え、動かしていくのだ。光子の底力がマンション住まいでは生かされなかったように、光子自身もまた、彼らを必要としている、と言える。
いったいこの映画はどうなっていくんだ?という寄る辺ない気持ちを落ち着けてくれるのが、愛想ない男二人が切り盛りする食堂。物語がのびのびと活性化するのと並行して、彼らの食堂も活気を増していく。数々の映画の中で、繁盛していく食堂は、確かな幸福感をもたらしてきたことが思い出される。(例えば、日本映画なら「タンポポ」、「かもめ食堂」、海を越えれば「ソウルキッチン」、「浮き雲」などのカウリスマキ作品群)。この映画も、「食堂映画」というジャンルにおさめたいくらいだ(そんなジャンルがあるのなら!)。
光子の「粋」な行動は、いずれも不思議な説得力に満ちているが、特に印象的だったのは「いきなり昼寝」。悪化していく思考と行動の連鎖を絶ちきるため、電気のスイッチを消すように考えるのをやめる→まったく別のことをする、という「ストップ思考法」にピッタリあてはまる。知識としては知っていたが、実際はこうやればいいのか!と納得した。ぜひ実践してみたい。
おとぎ話のようでいて、生々しさも併せ持つこの映画。虚構と現実、ギリギリの境界を、怖いもの知らずなパワーで突き進む。バランスを崩すのを怖れてこわごわ進むよりは、崩れたらその時何とかすればよい、と大胆不敵。だからこそ、火事場の…的底力が発揮されるのかもしれない。極限に達した彼らの掛け合いは、舞台劇か、単なる棒読みか?という怒鳴り合い。その必死さが、おかしくもパワフルで、圧倒された。
そして(たぶん意図していなかったことと思うが)、彼らが向かう「福島」についても、今となっては触れずにはおけない。エンドロールを見る限り、クライマックスとなる福島パートは、河口湖で撮影されたようだ。なぜ、あえて「福島」なのか。思うに、フクシマになる以前の福島には、誰しもが持ちうる田舎・故郷というイメージがあった(例えば、「百万円と苦虫女」。映画では明らかにされていないが、桃もぎのパートは福島が舞台となっている)。都会=東京から近すぎず、遠すぎず。南国のように浮わつかず、北国のように過酷さや悲壮感はなく。ほどよい実直さと安心感・親近感があったのではなかろうか。この映画には、そんな福島がいまだ息づいている。彼らの奮闘に目を奪われつつも、そんな感慨を抱かずにいられなかった。
最後に、ふと疑問が。世界各国の映画祭等において、「粋」はどう訳されるのだろう?どう理解されるのだろう? この映画で「粋」を知り来日してくる人びとを失望させないためにも、何より自分の人生のためにも、光子を見習い「粋」であろう、と思う。