伝説巨神イデオン 発動篇のレビュー・感想・評価
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発動しました
分かり合えないヒトしかいない世界なら、消したほうがいい…。
すみません。私、この映画、観てません。ただ昔、TV版を少し見て、プラモデル組立てて、小説版を読みました。1/3世紀以上前の記憶が、何故か突然シンクロ。私のイデが発動しました。
上手くいけば、友だちになれたかも知れないヒトたちと接触しました。でも、気づいたら、傷つけ合っていました。死にたくないから、頑張りました。そして、誰もいなくなりました…。
このお話は、私達の未来予想図なの?。だとすれば、ドリカムの吉田さんに、一曲、歌ってほしいものです。富野氏にとって、かなり思い入れのあるお話だとか。たしか、冷戦ど真ん中時代に、リリースされたはず。富野氏にとって、イデとは何だったのかしら。単なる核へのメタファーだったのか、あるいはそれを凌ぐヒトへの可能性なのか、それとも絶望なのか。映画観たら分かるかもしれないけど、敢えて観ることなく、思い馳せるのも一興かな、と。
"皆殺しの富野"を、動かしていた衝動は何かしら。
競争することで、世界は発展しました。譲り合いと、分かち合いの理想郷を造る、共産化実験は、失敗しました。そして核だけが、残されました。
とはいえ、他者を押し退けて、富を独占する先に、何があるかしら。◯◯ファーストも、結構ですが、セカンドのヒトはどうなる?。サードのヒトは、何をする?。
一方で、凍てつく大地の大統領が、原子力で翔ぶミサイルを開発したと、公表しました。理論上、核弾頭を載せたミサイルが、永久に翔ぶそうです。彼は、伝説の巨神になりたいのでしょうか。
ポピュリズムと、歪んだ大国主義が、世界を分断しています。
納得できない世界をリセットして新たなる道を見出だす。新たなる世界を歩む。それが富野氏が求めたイデの力なのかな。
私達は、友だちになれたかも知れないヒトに、リセットできるかな。それは、私達のイデが発動するものなのか、伝説巨神のイデに委ねるものなのか、どちらがいいと思います?。
以上、観てない映画をレビューしてみました。
私のイデが、炸裂っぅ!。
時代の嚆矢たりえず
ファンなら、どんなことをしても見たい映画だった。それは、この映画が製作された背景によるものだが、一番大きいのは、『ガンダム』がヒットしたこと。そして、テレビアニメが、スポンサーなしに成立しないこと。この二律背反の原則だろう。今とは事情が違うが、熱狂的な人気を得ても、商業ベースに乗らなければ、テレビシリーズは打ち切りになる。残念だったのは、おもちゃの出来が決定的にしょぼかったことだ。いったいどんな低学年が、こんな小難しいSFを見るというのか。対象年齢を上げて、大人でも楽しめるキャラークター商品が開発されていれば、人々に愛されたかもしれないのに。
当時のサンライズは、『ガンダム』の成功をもう一度とばかりに、人気の出ないテレビシリーズを早々と打ち切って、劇場公開での成功を模索する。決定的に違うのは、『ガンダム』は打ち切られながらもテレビシリーズがきちんと完結したのに比して、『イデオン』は文字通り打ち切られたことだ。最終回に用意されていたエピソードが未発表のままお蔵入りになった。内容の暗さはさておき、ファンの渇望感は最大に膨れ上がった。
そして前代未聞の、テレビシリーズ総集編と、完結編の同時公開が為された。
ここに、『発動編』が完成した。
あたりまえの話だが、普通にその一本だけを見ても全く理解できない映画になった。長いテレビシリーズを、追っかけて見ていた人のためだけに用意された、ご褒美ムービーなのだ。ただしそのクオリティは最上級。湖川友謙率いる作画スタッフの情念と、当時から厳しい要求を満たす仕事ぶりのすぎやまこういちの素晴らしい音楽、作家性を追求し始めた富野喜幸という才能がぶつかって、訳の分からない凄みが出来上がった。アニメーション映画として、あり得ないほどの出来栄えとなった。
「わけわかんないけど、なんかすごい」映画が出来上がった。
のちに社会現象となった『エヴァンゲリオン』が、この方式に倣って劇場公開作品を制作したのには、苦笑いだった。
異星人との戦いの中にも人間の真理が感じられる
40数年ぶりに鑑賞
富野監督が観た感想
この映画ドットコム内の関連ニュースにある、2019年開催映画祭でイデオン上映時の富野由悠季監督によるコメントが興味深いので見てほしい。ここに引用する。
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富野監督は完成後も度々見直したが、「こんなすごい映画とは思わなかった!」
「これまでのイデオンの印象は制作状況の悪さもあって、稚拙にしか見えず、作品を通しての感想はなかったが、今回は1作品として見ることができた。作画もひどい。何もかもひどいけど、『こんな話かよ』と驚いた」
「人間関係の入れ子構造が上手だなと思った。(自分自身が)経年劣化を起こしていて、だんだん、ああいうことができなくなっている。たったひとつの言葉で人間関係を結びつける。見事だな、と思った」
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一見自画自賛に尽きるとみえるが、クリエイターは直線的に成長する一方ではなくピークがあり、過去の自分をピークと認め現在の自分を劣化していると評する。
これはクリエイターにとっては最も認めがたい事であり、得難い自己批評となっている。
このように老境にして自分の業績を俯瞰して評価するまでに至った監督。
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「『(玩具の)金型を作っているから、変更してもらっては困る』と言われて、頭に来た。当時の自分の精神状態はやばかった。それを制御しようとして、うつ病にもなった。(こんな壮大な話は)一人の能力では無理。チャラチャラやっては作れない。いい経験ではあったけども、自分に能力がないことも自覚した。能力があれば、スピルバーグにもなれただろうな」
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ぜひとも今後の余生はこのような過去の苦悩を清算するべく、ロボットからもオモチャからもエンタメからさえも自由になった、本当の富野由悠季100%の作品をネットフリックスか誰でもよいのでパトロンになって作らせてほしい。
売上・評判など気にすることなく後悔なく死んでほしい。
それが彼によって映像ドラマの可能性の夢とトラウマを授けられた我々ファンのせめてもの恩返しの願いである。
富野由悠季はトミノフスキー粒子を吹き出しその無限力を開放し富野映像の因果地平へと旅立つのだ。
33年ぶりに
理解しあえなかった人たちの結末
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