劇場公開日 2007年11月3日

「ヒッピーとニューギニア秘境めぐりの旅」ラ・ヴァレ じゃいさんの映画レビュー(感想・評価)

2.5ヒッピーとニューギニア秘境めぐりの旅

2020年11月17日
PCから投稿
鑑賞方法:映画館

このあいだ誕生日を迎えた私。
ちょうど「同じ年」(1972年生まれ)のカルト映画がK'sシネマで公開されていると知って、足を運んでみた。

メルボルン在住の若き仏領事夫人ヴィヴィアーヌが、バカンスと雑貨の買い付けのために、ニューギニア島を訪れる。古物商で買い物中、誤って怪我をさせた青年を病院まで連れて行ったあと、「きれいな鳥の羽を見せる」との誘いにのって、彼のキャンプに赴いた夫人は、なりゆきでセックスしたのち、青年たちヒッピーのファミリーで企図している「谷(ラ・ヴァレ)」への探検行に同行することに。
「谷」はニューギニア奥地の霧に閉ざされた「楽園」で、人跡未踏だから地図が空白になっている。ジープで行けるところまで行って、馬に乗り換えて奥地に向かい、「山の民」と交流をもったのち、誰ひとり訪れたことのない「谷」を目指すという計画だ。ヴィヴィアーヌは、旅の途中まで2週間だけ同行して、コフウチョウの羽を譲ってくれるという司祭の元を訪ねて、そこから単身セスナで戻ってこようというわけだ。

旅に出る、男ふたりと女ふたり、子供ひとりのヒッピー探検隊。
やがて、司祭館まで彼らはたどり着いたものの、お目当てのコフウチョウの羽を手に入れられなかったヒロインは、いったん乗ったセスナを敢えて戻らせて、最後までヒッピー探検隊に付き合うことを決める……。

本作は、1970年代のヒッピー・カルチャー終焉に向けたせつない憧憬を、最後の秘境と大自然、異郷の原住民族へのマージナルな夢想と結び付けた、奇妙な秘境探検映画である。
探検とはいっても、映画の最終盤までは、ふつうにジープでちんたら走ってるだけだし(野道とはいえ、半舗装された道が続き、西洋人も住んでいて馬を売ってくれる)、危機らしい危機もなければ、悪天候や悪路といった障害もほとんど出てこない。
どちらかというと、ヒッピー・ムーヴメントにどっぷり浸かった若者たちに、いいとこのブルジョア子女がたぶらかされ、冒険に踏み出し、洗脳され、道を踏み外す様を、生ぬるく、ほほえましく見守る環境映画である。
別のレビュアーさんが書かれてるとおり、ヒッピーが理念上の「ホーリーマウンテン」(ザナドゥ)を目指して彷徨する話なわけですね。その「約束の地」が、「生の根源」に触れる場所であると同時に、「死地」である、というのも実にヒッピー的だといえる。
ヴィヴィアーヌが巨樹を背に、胎児のような体勢で、原住民のドラッグでキメてトリップするシーンは、まさにレイヴやスピ系の典型的なイニシエーションであり、まだニューエイジ・カルチャーが効力を保っていた時代の懐かしくもくだらない無垢な思想の輝きを、美しいニューギニアの自然風景の映像とピンク・フロイドの音楽に乗せて追体験できる。
まあ、今となっては大川隆法映画やオウム真理教アニメと大差ない感じもするけれど、70年代の若者にとっては、一定の効力をもった思想だったのだろう(ちなみに私はその手のものにはまるで関心がないので、フリーセックスも含めて、当然興味深くはあるが共感するのは難しい)。

映画としては、なんで夫人がそこまで鳥の羽に固執するのかいまいちわからないし(フロイト的な解釈をわれわれにしろと強いているのか?)、飛行機が往来できるのなら普通にポートモレスビーから直で行けばいいじゃんと思うし、あまりにヒッピーたちがイノセントすぎて、途中からだんだん頭が痛くなってくる。
原住民が森から出てくる『ウィッカーマン』や『ブラック・ムーン』みたいなシーンや、ヒロインがラリって蛇と戯れるシーン(当然、エヴァと悪魔の蛇の逸話が元ネタとしてある)も、映像としては、かなりチャチい。
先に書いたとおり、探検というよりは完全に物見遊山気分(それは一応映画のテーマと合致しているので、故意の演出)なのはまあいいとしても、最終盤の展開はあまりにアンポンタンすぎて、さすがにこっちも苦笑いするしかない。サンダルで富士山登るみたいな連中に、2時間近く付き合わされる我々の身にもなってほしい。
つまり、物語映画としては、あまり褒めるところがないというのが正直な感想。

一方で、ニューギニアの大自然の映像や、土着の原住民の様子や舞踏をカメラに収めたドキュメンタリーフィルムとしては、現地で実際に部族に取り込んで撮影してみせた凄みがあって、見ごたえがある。僕はずっと、少年時代に何度も訪れた大阪万博公園にある民俗学博物館のオセアニア・パートにいるような懐かしさをひしひしと感じながら観ていた。
さらには、原住民が「映画が来てくれた」みたいなことを叫ぶ、アッバス・キアロスタミめいたギミックもあったりして、筋とはまた別に、この土着民の風俗を収めた貴重な映像資料自体をわれわれに観て堪能してほしいと、監督たちも思っているのは伝わってきた。

とはいえ、今の時代は、メロリンキューやイモトの原住民同化バラエティーなんかもテレビで普通に見られるわけだし、ハイビジョンやら4Kやら凄い再現度の秘境映像も山ほど出回っているわけで、それらとて「売り」になるかといわれると、そこまででもないような気はする。

ヒッピー・ムーヴメント落日のセンチメンタリズムとノスタルジィ。
やはり、この映画を楽しむとしたら、そこに寄りそうしかない。
彼らは現世では理想郷は見いだせず、マージナルに向かうしかなくなる。
でも、それもしょせんは物見遊山だ。白人の驕りでしかない。
結局は死の夢想へと向かわざるを得ない彼らの在りようは、どこまでも愚かで、せつない。
彼らの時代は終わり、祭りは終わったのだ。
それを、緑の大自然と、漆黒の肌と、ピンク・フロイドの音楽とで「葬送」する「レクイエム映画」だと考えれば、あの刹那的で素っ頓狂なエンディングも、なんとか受容できるというものだろう。

じゃい