100,000年後の安全のレビュー・感想・評価
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負の遺跡オンカロ
小泉元首相が見学したことでも有名になったフィンランドのオンカロのドキュメンタリーと言うことで観てみました。
核廃棄物埋設処理場、オンカロの安全性といえば地殻変動、気候変動を含む物理的諸問題に悩むのが主題だろうが、本作では既に完成まじかの段階に至っているせいかエジプトの遺跡のように掘り返される、いわば人間の欲や好奇心の方に警戒し時間をさいているところが印象に残った。
ヘルシンキから約250km北西に位置するオルキルオト島は1979年に原発が稼働し4年後の1983年には処分場の調査が始められている、映画では省略されているが102か所の候補地からオルキルオトに絞り込み1997年から3年間、地元住民との定期的な会合を続け同意を得た。地元への雇用機会や税収増などのメリット、老人福祉施設の提供など常套手段を尽くしている、信頼関係を築いた担当者の努力もさりながら、17億年も安定した地盤を有するなど地震、火山列島のわが国では望むべくも無く、埋設の時代継承に頭を痛める余裕はなんとも羨ましい限りです。
承認には年月要したものの、原発を作る上で燃やしたゴミの処理を念頭におくのは必然として着手したフィンランドの真摯な合理性に学んで欲しいものです。
とは言っても地下400mに2km四方の広大な施設でも原発2基程度の廃棄物しか埋設できないのでは今できる上での窮余の一策に過ぎないのかも知れません。映画でも語られる「不確実性の中での決定」という言葉の重みがひしひしと伝わります。パンドラの箱を開けてしまった人類の宿命の課題なのですね・・。
100,000年後より、まず今やろ
静岡は停止中の浜岡原発を抱えており、漠然と包囲する原発への恐怖や仕組みを学ぼうと、講義気分で臨む。
しかし、途中で睡魔の大津波が第3波ほど襲われ、あえなく撃沈…。
そう言えば、大学時代、マトモに起きて講義を聴いていた試しが無い自分を今さらになって思い出した…。
議論の中心が、10万年間、保持される設計の地下施設の運営・保管方法に対する嫌悪感や矛盾、保証etc.ではなく、10万年後の人類に原子力の恐怖・危険をどう確実に警告できるか?理解できるかという、途方もない抽象的かつ哲学的な問題提示を淡々と進むため、思考力がメルトダウンし、爆睡してしまった。
隣のおっさんや前列のオバサンコンビも同様で、劇場内は高レベルのイビキが漏れ出す非常事態と化したのは云うまでもない。
現代人でさえ、この有り様なんやから、10万年後の人類に伝えるのは到底ムリなのではなかろうか?
原発の恐ろしさを後世に伝えたいのなら『チャイナシンドローム』や『東京原発』を観せた方が効果的やと思う。
そういえば数年前、実際に『東京原発』を観に、静岡東映(現・静岡ピカデリーZero)へ出掛けた時、観賞後、ロビーに浜岡原発反対派グループが操業停止を訴えるビラを配りまくっていた。
「フィクションはフィクションやと割り切って娯楽映画にしている作品やのに、楽しんだ矢先に現実へ引き戻すのは野暮やないか。映画と政治活動とを強引に混合させるのはマインドコントロール以外の何ものでもない。魂胆見え見えで不愉快や」
と憤り、私は署名に拒否したのを今でもハッキリ覚えている。
しかし、10年も経たぬウチに、あれだけスッタモンダした浜岡原発は、無責任総理の一声であっという間にストップした。
では、あのロビーで、けたたましく叫んでいたオバサマ方の必死な訴えって、何やったんやろ?
止まって、結局、何が解決できたのだろう?
節電の訴えの方が遥かにウルサい現在、虚しく汗を拭いながら憂う夏の昼下がりに短歌を一首
『文明を 灯し葬る 灰のあと 危険と刻む 未来(あす)への標(しるべ)』
by全竜
未来へ一言、「幸運を」
ドキュメンタリー作家であるマイケル・マドセン監督が、フィンランドで開発された高レベル放射性廃棄物の処分場を問いただす一本。
呆れて声も出ないのである。貴方が勝手な解釈を持ち込み作り上げた安全だけが頼みの綱となっている、現代最新鋭の施設。その危険性を理解できないかもしれない我々の子孫に、何か一言を。「気をつけて、施設には入らないで、幸運を」。何かが、間違っていないか。
フィンランドで開発が決まった高レベル放射性廃棄物処分場。その施設が示す意義を観客に提示することに、本作の表向きの軸がある。劇的に加工された映像の美しさと、理知的に施設の存在理由を語る関係者。ドキュメンタリー作品として、極めて基本に忠実に、事実を積み重ねていく姿勢が貫かれている・・・と、解釈していた。
だが、明確かつ冷静な語り口は中盤、施設の危険性を未来の世代にどう示すかに触れようとしたとき、唐突に暴力性を帯びて牙を露わにする。
それまで建設的に根拠を示し、作り手の質問に笑顔で、自信満々に答えていた関係者の口調が、澱み始める。「それは・・知らない」「分からない」「ああ・・えっと、それはだね・・」まるで作品が途中で入れ替わったように、作り手の質問が棘を持ち始める。少しずつ、かつ確実に、物語は熱を持ち、落ち着いて問題を見つめる視点を巧みに否定し始める。
観客は、その予想外の変貌に戸惑いながらも、胸の高鳴りが抑えられない。知られざる施設の全貌に向かっていた関心は、関係者の陳腐な釈明と言い訳に移る。大丈夫なのか、心配だな・・いい加減過ぎるだろ、苦笑い。ドキュメンタリーとして見れば異質な作り方だが、観客を一気に事実の危険性に引きずり込む引力を信じた作り手の姿勢は、稚拙と片付けるにはあまりに惜しい。
この作品を、原発の諸問題を抱えた日本において緊急上映する企画を打ち出した配給サイドの姿勢には賞賛の拍手を送りたい。曖昧な根拠と、無理な解釈の上で成り立つ原子力の安全。観客が今、この時、知っておくべき真実と現実がここに、ある。今となってはもう、他人事では済まされないのだから。
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