神々と男たちのレビュー・感想・評価
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欧州の植民地政策は大きな課題を残 す。
1996年にアルジェリアにあるカトリックのアトラス修道院(カトリックのトラピスト)が拉致され『the bayan of the Jama Islamiyya Musallaha』というアルジェリアのイスラム原理主義者たちに殺害されるまでの話。
イスラム原理主義者のグループリーダーが修道院に武装して薬を求めにくる。その時、トラピストのリーダーのクルスチャンはコーランを引用して断る。カトリックとイスラム原理主義者の間で心が通じ合い、リーダーのアリはカトリックにとって大切なクリスマスの時に武装して訪れたことに謝罪をする。ーこのシーンが何よりも感動的。
あと、誰だか忘れたが、アルジェルアでのイスラム原理主義者の台頭はフランスの植民地政策にはじまっていると。この映画のなかで海外から来たクロレシア人たちも殺される。ハシャブをつけない女性も殺される。
欧州の植民地政策は大きな課題を残している。日本の植民地政策もアジア圏の人々に大きな課題(731部隊人体実験、慰安婦問題、領土問題など)を残している。
争いの無い世界の和平をひたすら願いたい、そしてその気持ちは自分の心から、始まる!
アルジェリア国内のある片田舎で実際に起きた武装集団による修道士殺害事件の当時の真相をドキュメンタリーではなく、ドラマと言うフィクションに置き換えて再現して見せたこの作品は、私には正直理解出来なかった。しかし素晴らしい映画であり、映画として見る価値の有る作品と言う事だけは、理解した。サルコジ政権下での、ブルカ禁止法に代表されるイスラム文化排斥に対し、報復を企てたある武装集団が修道士を殺害する事件を起こすまでの、田舎の村の人々の生活と修道士の日常が映し出されている。修道士は、私欲無く、村人に医療を始めとし、様々な奉仕活動を捧げる、祈りの生活を日々繰り返す。
一方、村人の生活も貧しく、過酷な日々であるが、精一杯に生活を営んでいる。
そこで、武装集団が起こす殺害事件をきっかけに、村の様子が一変して、修道士たちの命も危険になり、教会に留まりそのまま奉仕活動をするか否かで、意見は割れて行く。教会組織や、国は、修道士たちの安全を図ろうと教会からの撤退を求めるが、現場で奉仕する修道士達は、無医村で、自分達の施す医療活動がこの村に必要不可欠である事から、撤退を容易には受け入れようとはしない。しかし彼らも人間であり、自分の死を恐れる者もいれば、高齢の修道士は総てを神に委ねている。家族との関係性に苦悩する修道士もいる。修道士も修道士であると同時に人間である。宗教と、人間が生きる意味、日々の生活と宗教、人間の尊厳と、人種や宗教、文化の差異の問題。これらの差をその時代の政権下に於ける政策のみで変える危険性や、そこから派生する差別、等々一口では答えが出る事の無い難問をこの映画は、見る者達に問いかけてくる。宗教、思想の自由を果たして、法によって、或る時突然に変える事の正当性を考えさせられる。
日本の様に、宗教、思想の自由が認められ、一応それらの選択の違いを法律により、取り締まられる事は無い民族には、難しい。これらの問題は、民族の習慣や、文化のその長い歴史的背景により多くの矛盾を抱えていたとしても、その歴史を無視して新たな法律だけでは、裁けない現実がある。
日本は一神教では無く、憲法により宗教の自由が認められ、同じ一人の人間がこの世に生まれ生活する時にも、大方の人は生まれると神社で、お宮参りをし、結婚式は、教会でして、葬式は寺で仏教であっても、何ら問題無く過ごせる。しかも、その事に疑問や、異議を申し立てられる事も無い。ましてや、それで法律的に自由が奪われる事などは決して無いのだから。
一神教を信じる人達の場合は物事こうは簡単、単純にはいかないのが常である。
武装集団が、起こす殺害は決して良い事では無い。何故なら、どこの宗教も殺人を良い事と認めてはいないのだから。しかし、歴史に裏付けされている文化や習慣を、法律だけで、ある日突然に変える事がもしあるとするなら、法律による、文化や、歴史的習慣の禁止は、それを信じる人達の、存在価値を抹殺する事なのかも知れない。法律は、人々を生かす為に存在するのだ。しかし、その法律が、もしも人々の権利を抹殺する事があってはならないのだ。日本に暮す事の幸福に感謝し、一日でも早い、宗教、思想、文化の違いによる人権の剥奪、差別の無い世界の構築と、世界の人たちの心の平安を祈りたい!
しがらみだらけの、サスペンス
グザビエ・ボーボワ監督が、ランベール・ウィルソンを主演に迎えて描く人間ドラマ。
鼓動が、疾走を始めるのを確かに感じるのである。フランス人宣教師の信仰を描く作品と聞いていたので、じわじわと人間の温かさと情熱を描く世界かと予測していたのに。観賞前に私を支配していた空腹感と眠気はものの見事に吹き飛び、思わず身を乗り出して物語に入り込んでいた。これは、ちょっと、凄い映画かもしれない。
1996年、アルジェリアで実際に起こったフランス人宣教師の誘拐殺害事件を題にとった本作。既に亡くなっている宣教師の皆様に事実を聞くことも出来ないので、ある程度作り手の想像、創作が紛れ込む。その創作部分こそが、じわじわと心と身体が追い詰められていく人間の葛藤、決意、覚悟の沸騰する第一級のストーリーを奏で、観客を問答無用に物語へと引きずりこむ。
本作の軸となるフランス人宣教師の方々に与えられた人間臭さも、この作品の魅力を生み出す必須の要素だろう。厳格に、自らの信仰を疑う事無く殉教を受け入れる堅物人間ばかりかと思えば、「わしは・・・何で死ぬんじゃろうね?」と、茶目っ気溢れる大きな瞳で信仰を疑う、人間味と親近感溢れる人間として描かれている。
だからこそ、「じいちゃん・・・頑張りなさいよ!」などと思わず近所のお爺様に対するような熱い声援。最期のその瞬間まで主人公に併走し、重厚な実話空間を隅から隅まで楽しめる。
外国人としての偏見、殉教に突き進むことへの葛藤、そしてキリストへの愛の確認。宣教師に降りかかる様々なしがらみを飲み干し、かわし、年を重ねた宣教師たちが何を求めたのか、最期に見たものは。
信仰を軸にみると、少々とっつきずらい語り口に心身疲労だが、サスペンス作品として考えればボリュームたっぷりの味わいを満喫。食わず嫌いをせず、思わず目を見張る極太ドラマを心ゆくまで楽しんでいただきたい。
ミステリーだと思っていたが・・・。
映画をみるとき、内容をみないで見るようにしている。
今回の映画、正直、ミステリーだと思っていた。
誘拐事件とあったので。
でも、実際は現実に起こった事件をもとにした宗教色が強い映画で、
まったく予想と違ったためとまどってしまった。
淡々としているが、カンヌ国際映画祭グランプリ受賞だけあって、
説得力があり、奥深さを感じさせる映画だった。
日本の観客にとって縁遠さを感じて眠気を誘われるものの、崇高な信念をもって描かれた作品だと思います。
実話であり、公開されたときフランスでは社会問題にまでなった作品。その重みというのは、ヒシヒシと感じさせるものはあります。しかし、キリスト教とは縁遠い、日本の観客にとって、この物語で問われる修道士たちの殉教の是非は、どうしても縁遠さを感じてしまいます。まして、高僧の修道士の監修がついたため、全編のほとんどが聖歌で埋め尽くされ、ミサのシーンがやたら冗長に感じられるため、不謹慎ですが眠気を誘われてしまう作品でした。
しかし2010年のカンヌ国際映画祭で審査員特別グランプリを取った作品で、惜しくもパルム・ドールを次点で逃がしたと言うだけに、映像表現の点では個性的な特徴を持った作品です。映画通で宗教間の対立にも関心を持つ人なら、必見の作品でしょう。
作品の舞台は1996年のアルジェリア。ここに当時派遣されたキリスト教のトラピスト会に属するフランス人修道士7人が拉致・虐殺される事件が起ったことを再現したドラマです。その時、武装イスラム集団 (GTA)から犯行声明が出されましたが、真相はいまだ謎のままのようです。
1世紀を超えるフランスの支配から、事件が起きる4年前の62年にアルジェリアは独立しました。その間に自国の言葉、宗教を禁じられた歴史には、独立に向けた民族感情が渦巻き、内戦が続いてきたのでした。グザビエ監督は、そうした背景をさりげなく描きつつ、あくまで修道士たちのゆく末を見つめる視点に徹しています。
彼らが修行する修道院は、首都アルジェから90キロのティベリンという山あいの地に、38年に創設されました。しかし、社会主義化によって布教は禁止され、所有の土地・農園は接収されてしまうけれど、使用は許され、医療奉仕も認められました。つまり修道院の存続自体は認められたのです。
そこで修道士たちは、養蜂業に励み、市場で蜂蜜などを売って、質素に祈りと労働の日々を支えていたのです。
ここで注目すべきは、院長のクリスチャンは、コーランを日々研究していて、イスラム教徒の集まりにも喜んで参加し、お互いの教えの共通点を理解。宗教的にも、みな兄弟であると、イスラム教の村人と語りあうというところ。修道院は、地域の医療を支え、また日々の心の拠り所にもなっていることから、村人たちから欠かせない存在になっていたことです。この宗教の違いを超えた友愛関係は、イスラムとユダヤとキリスト教の原理主義が相克し合う現代で、教訓とすべきところでしょう。
もとよりこの3つの宗教は、主なる存在から使わされた預言者による教えとして、元々は一つの教えから別れた兄弟宗教です。
だから、最初にGTAに襲撃を受けたとき、クリスチャンがテロリストのリーダーに、コーランに基づく隣人愛を説いたとき、リーダーがその言葉に感銘して、握手を求めたように、基本的なところでは類似している教えが多いのです。
クリスチャンという宗教家の優れているところは、『汝の敵を愛する』という聖書の教えを実践し、異教徒も排斥せず、理解しようとしたところです。そこにこの修道士の愛の深さを感じさせました。
しかし、その愛の深さが徒になっていく、後半は見ていて残念でなりません。一度テロリストとわかり合えたという成功体験は、修道士たちを主の導きで和解できた。愛と信仰があれば、何も問題ではないという信仰心に導いていきます。
ここで、修道僧たちを最初から高邁な殉教者としては描いていないのはいいと思います。彼らも、一人の生身の人間として、残してきた家族のことも思い、悩み、苦しみます。地元住民からの強い残留要望を受けたとき、ここを去ることは、愛の敗北であるとし、、運命に向き合い、勇気ある決断をするのです。
それはあたかもイエスさまの殉教をなぞられているかのような描写です。テロリストが再度押し寄せてくる晩に、彼らは何かに導かれるようにして、テーブルを囲み、赤ワインを、酌み交わします。それはまるで「最後の晩餐」の光景を彷彿させるものでした。
チャイコフスキーの「白鳥の湖」が流れる中、カメラはゆっくりと移動しながら、修道院の食堂に集った僧ひとりひとりの顔を陰影豊かに映し出していきます。達観と諦念、笑いと涙、喜びと悲しみ。表情はそれぞれ違えど、彼らは確かに残り少ないいのちの灯火を精一杯輝かすかのようなシーンでした。きっとクリスチャンの方でしたら、涙を禁じ得なるだろうと思います。
そして印象深いのは、「最後の晩餐」の包む「漆喰の闇」と、彼らが誘拐されて、夜が明けテロリストに連行される時の、一面の白い銀世界の対比です。
闇は、彼らに苦難が迫っている暗示であり、白銀は、彼らの苦難に対する許しであり祈りを暗示させたのでしょう。自分たちの死は無駄死にでなく、民族間の愛と和解のために身を捧げたむのだと語るクリスチャンの毅然とした最後の言葉に感動しました。彼らの灯す、ささやかな光の美に、きっと心ふるわせることでしょう。彼らは確かに「一粒の麦」となり得たのです。
ただ、この物語。小地蔵には平和ボケした日本人の頑迷さが気になって仕方ありませんでした。「平和憲法」というお題目を信じていたら、テロリストたちともわかり合えるものでしょうか。確かに、これまで上辺でわかり合えてきたから、武力行使に至っていませんでした。しかし現実は、信じているだけでは、そう甘くないということです。相手は刻々と変化して、やがて日本を核で恫喝する時代がやってくるかも知れません。
また宗教的にも、逃げなかったことが、相手に誘拐から殺害までの罪を引き起こさせてしまいました。智慧として、それが予想されるのなら、とっと逃げて相手に罪を起こさせないという戒も必要だったでしょう。それを信仰でごまかして、殉教してしまうのは、智慧が足りないと思うのです。
イエスさまだって、ずいぶん天使たちが、声を大にして逃げろ!と呼びかけたのです。結局逃げずに、人類の罪を一身に背負われて、刑場の露と成りはてました。このあと復活があって、キリスト教は世界宗教となり得たわけです。しかし、正味教えられた期間が3年半という短い時間だったので、弟子たちの教育も不十分となり、輪廻転生など霊的な人生観が充分後世に残せませんでした。それが後の時代に、愛に反する残虐な魔女狩りを行うキリスト教を生んでしまったのです。イエスさまが逃げ延びていれば、キリスト教の教えも、もっと悟りにおいて高度なものになっていたことでしょう。
だからずっとこの映画を見ていて、小地蔵は修道士たちに、いいから早く逃げろよ~と心から叫んでいたのです。
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