「家族観をストレートに表現」唐山大地震 よしたださんの映画レビュー(感想・評価)
家族観をストレートに表現
自分たちの住む国のどこかで未曽有の災害が起きて、その災害の直接の被害者ではない人々が、「同胞」だからという理由で被災者への同情や連帯を声高に叫ぶ。という類の話ではない。まして「絆」だとか「復興」だとかいう中身のよく分からない言葉を並べ立てるものでもない。
天災によって家族を失った人々の、その喪失感をストレートに表現している。
また、文革を終えてから現在に至るまでの中国社会の変容が、その街並みだけではなく、若い世代の家族観にも及んでいることを映画は率直に描写している。
震災後に再建された唐山市の中心部だけなく、大学や病院の建物も時代を経るに従って新しくなっていく。
それと並行して、子供世代の家族観も大きく変化していく。
学生時代の妊娠、老親が正月を一人で過ごす、初孫の顔を実家へ見せに行くことを断念する嫁。親の世代までなら想像もつかないようなことが、葛藤を経てはいるものの、現実のものとなっていくのだ。
そして、時代は大学を出ていなくとも経済的なチャンスをつかむことのできる社会が到来していた。大学を受験することすらあきらめた息子のダーは、沿岸部の都市で開放経済の恩恵を受けて成功、外国車に乗って母親のもとへ帰省する。妊娠により大学を中退した娘ドンは、カナダ人の弁護士と結ばれ、愛娘も共に海外で暮らす。
社会がこのように変わっていく中で、震災による心の傷を抱えながらも、双子の母親のユェンニーの姿が清々しい。自分の運命を呪うのではなく、死者の為に生き抜く姿。毎年の盆に死んだ夫や娘に、家への帰り道を説明する姿。それでも彼女は自分のできることをして、精一杯生きている。
2008年に中国政府は唐山市に、この震災による犠牲者の慰霊碑を建立したそうだ。文革の真っ最中だった震災当時は政府による情報統制や現場への立ち入りの規制など、さまざまな弊害があったことだろう。そのような当時への反省と、ドンが最後に母親へ詫びる姿が重なる。どうしてもっと早く知らせなかったのかと。どうして被災者の苦しみを長引かせてしまったのかと。
日本で起きた2011年の大震災も、30年以上経ったときに、なぜもっと早く言わなかったのかと、皆で嘆かなければならないことが表面化することがあるのだろうか。
ところで、ダーが母親のもとを離れて客引きの仕事をしていた駅は、「妻への家路」でコン・リーが夫を待ち続けたのと同じ跨線橋だ。