ポエトリー アグネスの詩のレビュー・感想・評価
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老女は少女に、少女は老女の詩にすくい上げられる
孫を育てながらつましい暮らしをしている老女。ふと目にしたチラシから「あなたは将来詩人になるだろう」という学生時代の教師の言葉を思い出し、詩の講座に通い始める。一方、彼女は認知症を患いじわじわと言葉を失い始め、さらには孫がクラスメートの少女の自殺に関わっていることが判明する。崖っぷちに追い込まれた彼女に、詩は一縷の光となりうるのだろうか?
相変わらず、イ・チャンドン監督作品は居心地が悪い。善人とも悪人ともつかない、どっち付かずの人々がうごめいている。もちろん、主人公もその一人。娘に代わって孫を養い、家政婦で何とか生計を立てている…とすれば聞こえがよいが、「おしゃれ」と形容するのがやっとの不釣り合いなひらひらファッションに身を包み、詩(人)への甘い憧れを胸に、ふわふわとマイペースに振る舞っている。身も心もだらしない孫の体たらくも、ある意味、彼女が食べ物で懐柔してきた結果だ。(とはいえ、あまりにも傍若無人な孫の振る舞いには、憤慨を通り越して飛び蹴りしたくもなるが…。)同情しようにも、不可解さが先立つ。
さらには、孫の友人の親、文学講座の講師を務める詩人、朗読会のメンバーと、様々な人々の心のアクが次々と垣間見え、観る者の心情をざわめかせる。救世主は現れない。それぞれの思惑が、事態を思いもよらぬ方向へ…ではなく、なるようにしかならない方向へ、ずぶるずぶと向かわせるのだ。
「ペパーミント・キャンディー」以来、イ・チャンドン監督は、私たちが目を背けてきたもの、当然で致し方がないと割り切ってきたものを粘り強く見せつけ、揺さぶりを掛ける。つましく・地道に生きてきた(はずの)小市民たちの、痛々しさ・醜さ・浅はかさ。目を背けるにはあまりにも近すぎて、固唾を飲んで見入ってしまう。
とはいえ、彼らはそれぞれに過酷な状況を受け入れているのだから、多少愚かな振る舞いをしたとしても、それくらいでそしりや戒めを受けなくてもいいのでは…という思いもわく。観る者さえも物語の渦に追い込まれ、彼らに引き付けられていくのだ。
平凡な日常を切り裂く冒頭の衝撃は、ラストの諦観に繋がる。ふたつの影の重なりにようやく気づき、はっと息を飲んだ。迷走の末としては意外なほど、完璧な円をかたちづくって物語は幕を閉じる。訪れる、わずかな安堵。しかし、それは見かけに過ぎないのでは、というもやもやも、一方で残る。まだ何かを見落としていないか?見ないふりに慣れきっていないか?と、もやに包まれた濁水は、観る者に問い続ける。
スカッと劇場を出られる映画には対局にあるこの作品。余韻というには執拗な、日常をざらつかせる棘に出会うことを好むならば、是非に。
イ・チャンドンの社会問題提議
イ・チャンドン作品は韓国社会の問題点がたくさん描かれていると思う。
この作品だと性犯罪があったにも関わらず、警察、学校、保護者がそれを隠そうとしているところ。ましてやたかが300万円程度で示談をしようとしていたし、当事者の子供たちは何も反省していなかったし。
車で集まっていたのにみんなビールを飲んでいたのはご愛嬌なのだろうか?
詩の教室なのに、詩を書いたのが主人公のみだったの事にはビックリした。
正直なところ見なくても良かったかなと思ってしまったが、ラストの人として当たり前の行動を取ったことは、腑に落ちるものであった。娘との関係性がよく分からなかったが。
NHKの【事件の涙】というドキュメントを思いだした どんな出来事に...
NHKの【事件の涙】というドキュメントを思いだした
どんな出来事にもさまざまな立場や気持ちがあって、
ただの加害者と被害者だけじゃない
いつの時代もお年寄りには、
少しわがままなくらいに元気で、
そして幸せでいて欲しい
割り切れない
イ・チャンドン レトロスペクティヴにて、初見。
冒頭から、日常の美しい風景と不穏さが同居している。
慎ましい生活と隠された暴力性、美しい言葉と禍々しい血のイメージ。
言葉の端々から想像されるとおり、ミジャもまた性暴力の被害者だったのではないか(それで生活していた?)、また姉から殺されかけたのではないか?
だからアグネスの話を聞いたときにどうしてもアグネス側にしか共感できなかったのではないか?
「実を落として踏まれることで生まれ変わる」杏はそうした女性を現しているのではないか?
そうした疑問が浮かんでは消える。
その結果としてミジャが紡いだ言葉の美しさは、アグネスの姿とともに鮮烈に観客の心に刻まれる。
割り切れないし、割り切ってはいけない傑作。
刹那の奇跡
窓から差し込む光。赤い花の香り。ブラウスの隙間をふと吹き抜けていく風。それらが織り成す不可視の奇跡。私たちはその奇跡を逃さぬように、誰かに伝えるために詩を紡ぐ。それが形を与えられた瞬間に壊れてしまうことを知りながらも。詩を書くとは奇跡を書き留めることと同じなのかもしれない。論理的に考えてみれば達成不可能な実践だ。ゆえに詩作教室の受講者たちはそのほとんどが最後まで詩を書くことができない。受講者たちに向かって「あなたたちは真のリンゴを見たことがないのです」と詩人は言う。すなわち、詩を書くには普段とは異なる仕方で世界を吟味する必要があるということ。ただ、それはとても難しい。
一目見ただけで難解な数式を解ける者と単純な四則演算にさえ躓く者がいるように、奇跡を言葉に落とし込むセンスにも個人差がある。一篇の詩さえ浮かんでこない老女ミジャは、ある日突然言葉が溢れてきたという朗読サロンの女を羨ましく思う。自分にはどうしたら詩が書けるのか。「感じたままを書けばいいんです」。でも、どうやって?
詩作に精を出す一方でミジャの人生は緩やかではあるが確実に下降線を辿っていく。彼女は訪れた病院でアルツハイマー症候群の診断を受ける。釜山へ赴任中の娘から預かっている孫ヒョンウクは、同級生の女子生徒をレイプして自殺に追いやってしまう。相手方の母親への慰謝料を捻出するべく彼女は「会長」と呼ばれる身体の不自由な資産家から半ば恐喝のように500万ウォンを奪い取る。
美しい詩の世界への関心とは逆行するように、彼女の人生は暗く醜悪な方向に傾いていく。そしてその傾斜が強まれば強まるほどに詩への無辜無謬な期待と憧憬もまた強まっていく。彼女が卑猥な詩で聴衆の笑いを取る朗読サロンの男に憎悪を向けるのも当然だ。社会の袋小路に追い詰められた彼女にとっては詩が、詩の美しい世界だけが唯一の生存理由なのだから。
しかし皮肉なことに、詩作が対象とする領域とは無関係な領域において蓄積してきた怒りや悲しみや苦しみが結果的に彼女の詩作を可能にする。踏み潰された虫が美しい絵の具のような体液をコンクリートの上に描き出すように、彼女の人生の破綻によって彼女の詩は紡ぎ出される。そのとき彼女は既にこの世界にいない。
読み上げられる詩とともに断片的なイメージが矢継ぎ早に流れていく。それはミジャが今際の際に見た走馬灯なのかもしれない。流れゆくイメージはやがて川の上の高架に佇む少女の後ろ姿へと辿り着き、息を吞んだように停止する。ヒョンウクが死に追いやったあの女子学生だ。彼女がこちらへ眼差しを向ける。その光景は奇跡のように美しい。ミジャのイメージは詩とともにそこで幕を閉じる。
後に残るのは黒々と流れる川だ。それはかつて女子学生を呑み、ミジャの帽子を呑み、おそらく最後にはミジャ自身をも呑み込んだ。川は絶え間なく流れ続ける。一瞬前に奇跡が起きたことなどまるで知らないかのように滔々と流れ続ける。いつまでも果てしなく。
恐ろしかった。
・日常の人たちというのは、どういう人の事をいうのかと考えさせられる。冒頭の女子高生の自殺から始まり、孫の不良高校生?と離婚して遠くに住み、息子を祖母に押しつけてる?娘、そしてアルツハイマーが進行していて生活保護の祖母が主人公、、、と誰も何かいちもつを持っていそうで優しそうじゃないし、設定がしんどくて、とても恐ろしくて面白かった。
・学生6人の親達や教師、息子達が自殺に追い込んだ事を示談で無かったことにしようとする感じがリアルすぎて恐ろしかった。誰も自殺した女子高生の事は考えてなくて、その中の一人として参加していた祖母だけがそれに耐えられないけれど、どうして良いのか迷っているのか病で意識が朧げになってしまっているのかの感じが凄く生々しくて不安になった。
・介護していた会長からどうやって大金を持って来たのかが少し気になった。あれだけ親戚の面前では不可能では?と。
・解決できない事があるのが解決、という感じが現実世界って感じがとても良かった。一応、孫を警察に引き渡してたけど、帳尻が合ってない気がしたし。あと、娘は本当はいなくて記憶の中だけなのかと思った。電話かかって来てたけど。
・祖母が当人からの告白を尋ねるも無視した後、促すこたしかできない感じがリアルだなぁと思った。間接的に感情をぶつける様子も。ゴミを片付けなさいとか。本当はそういう事を言いたいんじゃないだろうに。
・途中から示談金は騙し取ろうとしてる詐欺なんじゃないかと思ったらそのままだった。
美醜
彼女の決意を認めることは容易ではない。それは美しいが、醜さに身をやつしてせいぜい生きる身の上でもある。老いて、周りから絶ち、託す者たちを嘆き、それでも愚直に自分でなければならぬ。死をもって示せるか。
直視することから何事も始まる。
自分にはレベル高い
イチャンドン監督作品なので、自分にはハードル高いなあと思ってました。
過去作「シークレットサンシャイン」「冬の小鳥」は、
世間的評価は高いのに自分にはピンと来ず、
「オアシス」は女優の演技に魅せられただけな気がする。
で今回ですが、やはり自分にはハードル高かったです。
それなりの事件は起きてるんだけど、描写が淡々としていて、
今までよりも台詞とBGMが更に少なくて、
台詞とか無いシーンでうっかり余所見すると、
実は話の鍵を握る重要な「仕種」が行われていたり、
と余所見禁止な映画。
主役がおばあちゃん、同居が孫。
おいおい、娘か息子は?とか気になっちゃうし、
バドミントン長くねぇか、とかも悶々しちゃう。
イチャンドンは、
世間から目を背けられる存在にスポット当てる作品が多い、
らしいですが、
今回含めて主役の存在感は有る意味突出していて、
やはり目を背けたくなってしまうが、
「こんな人居るか?」と勘繰りも入れてしまう。
あなたは【映画】を今までに何本見ましたか?千本?百本?実は一本も<見ていない>のです・・・
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♪あたりまえ~あたりまえ~あたりまえ体操♪
劇中のセリフを引用して。
ーー詩を書く事は日常の中で「美しさ」を見つける事ですーー
もひとつ引用
あなたは【映画】を今までに何回見ましたか?千回ですか一万回ですか?。
実は一回も<見ていない>のです・・・・。
<映画を見る>という事はこういうことだ!
といつもながら声高には言わないが、
その緩やかな強制力が圧倒的なイ・チャンドン監督。
『オアシス』では共感や感情移入を一切許さない男女の究極の恋愛を<見る>。
『シークレット・サンシャイン』では神や神の赦しも一切認めない究極の現実を<見る>
そして<感じろ>と。
そして本作はシナリオと芝居と演出とキレイな風景を<見る>だけでは、物語は追えない。
詩というピース(断片)を観客がそれぞれの見解と解釈で嵌め込みながら<見る>事を強制される。
(その嵌め込みも想定内っぽい所が凄すぎ!)
なおかつ主人公の設定も相俟って、意味不明な行動や会話も、
映画→詩→映画と観客自らモードチェンジさせていかないといけない作品、
いわばサグラダファミリア的に観客が構成しながら<見る>。
もちろん主人公の<見る>という行為の進化のさせ方
→死んでしまった少女と主人公のシンクロ(花や性的虐待のプチ追体験、美&醜のシンクロ)
→詩を書けるようになった(書けるようになんてなりたくなかった)少女と主人公
→その意味
→見せる側と見る側のモードのシンクロ・・・。
こんな作劇の構築の方法にただただ平伏させられる。
カンヌ映画祭最優秀脚本賞受賞。
この<見る>という行為を啓蒙しながら、
あり得ない物語の構築方法によって
映画というものの存在形態にチャレンジを仕掛けてくる男イ・チャンドン。
公開から半年が過ぎ、二番館ではあったが映画館はほぼ満席の状態であった・・・・・
満席・・・・
♪あたりまえ体操~ チャン チャン♪
ミジャの心情
今まで見た韓国映画の中で一番好きです。とても新鮮でした。
題材は残酷ですが、ホエムを愛する主人公はいつも身だしなみよく、好感もてますし、
怒りを前面に出さず、悩みも苦しみも自身で飲みこんでいく様は少し歯がゆい程です。
アルツハイマー病の症状はどんどん進んで行くのかなと思いきや、そうでもない、
娘との確執があるのかなーと先読みしても違っている。次々と裏切られていくストーリー展開も面白い。
孫を責めた後でのふたりでバトミントン、捕まった時もバトミントン。
ミジャが被害者の母親に会いに行きまるでポエムの様な話をし、謝罪をしなかったのはアルツハイマーのせいか、
言い出せなかったのか、その後加害者の祖母だと解ってもアグネスの母親が責めなかったのは何故か?
この2つの場面すごくいいです。
ヘルパーとして働いている所の爺さんとのやり取りは軽妙、
求めに応じる部分は何となく予測でき、これは去年観た「やわらかい手」と同じ心情だと感じました。
いろんな場面で彼女の気持ちを理解したかったし、わたしも同じと思いたかったけれど
それも叶わずそれが又良いです。
最後の部分ミジャは何処へ・・・。やはりミジャは自殺してしまったのかもしれない、そう思いました。
一番大切な可愛い孫をこんな事をする、しかも少しも反省していない子に
育ててしまったという重い罪の意識と誰にも言わないアルツハイマー病。
自分に罰を与える事で生きている娘と孫に試練を与えたのではと思います。
そしてミジャはあちらの世界に行き、美しい詩をアグネスに聞かせ、詫び、献身するのです。
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