髪結いの亭主のレビュー・感想・評価
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愛とは
絵面が美しいけど、中身はエロ変態、という映画は好き。美しいは最強。そして物悲しい。南フランスが舞台っぽいが、明るい日射しの中で微笑むマチルドが、めっちゃ色っぽくてきれー。脚もスラリと伸びてきれー。こんなに魅力的な女性が、なぜヘンタイおじさんに惹かれるのか…謎だ。たぶん、マチルドは過去に何ごとかあったんだろう。自分に自信があって強ければ、あんなヘンタイおじさんに依存しない。でも、彼女は彼に満足しているし、信頼しているし、愛している。そして、幸せなら幸せなだけ、失うことが怖い。不安が徐々に彼女を侵蝕していく。で、自分で終わりにした。愛って…複雑で制御不能。
アントワーヌのダンスは独特で面白い。北アフリカか中近東の音楽っぽいけど、生き生きと楽しそうに踊るのでいい。見てる人も笑えるし元気になる(変な顔する人もいるが)。彼は自分の好みは貫くが、だからといって強引ではない。プロポーズも紳士的だった。マチルドは彼との濃密な時間から逃れていったが、彼はどうなるだろう。思い出を反芻しながら生きるだろうか。それとも忘れるだろうか。また髪結い女を求めるだろうか。私の想像では、愛した女たちの幻影を見つめながら、ゆっくり壊れていくような気がする。
2階にも部屋があるが、終始1階の店でのみ語られる物語。夢のような儚さと美しさがある。
BS松竹東急の放送を鑑賞。
【”嗚呼、私もアントワーヌの様な髪結いの亭主になりたい・・。けれど幸せの絶頂で妻を失いたくはない・・。”エロティックな髪結いの妻マチルドの姿も印象的な作品。】
ー 1947年、アントワーヌ少年は、行きつけの髪結いの店で太った体臭の強い赤毛の女主に恍惚とした表情で、散髪をしてもらっていた・・。
そして、見てしまったのだ、豊満な乳房を・・。
それ以来、彼は独身を貫いていた・・。-
◆感想
・中年になった、アントワーヌが店をインド系の男性イジドールから譲られたマチルド(アンナ・ガリエラ:エロティックな匂いが漂ってくるほどの色気である・・)の店を訪れ、最初は”予約で一杯”とあしらわれるが、その後散髪中に、プロポーズするシーンは印象的である。
- 少年時代の強烈な性的体験が人生に及ぼす影響をここまでは、肯定的に描いている。-
・劇中、頻繁に流れるインド風ミュージックのインパクトも強い。
フランス映画で、マチルドを筆頭としたフランス美人が多数出演する中でのギャップ。
・結婚して10年経ち、客の髪結いをする妻のショーツを脱がせ、後ろから妻の股間をまさぐるアントワーヌの姿。
そして、幸せの絶頂だった筈の、アントワーヌとマチルドの雷鳴轟く中での、店の中での性交。
その後、マチルドは買いものに行くと言い残し、増水した川に身を投げる。
ー このマチルドの身投げの理由は、劇中では語られない。
鑑賞側は、一人残されたアントワーヌが店に残り、客が入ってきた時に言う台詞
”今、髪結いの女性が来ますから・・”
という言葉から、イロイロと類推するしかない。
髪結いの亭主の意味は、一般的には”自分は働かず、妻が家計を支える”
というモノであるが、今作は幸せな10年を過ごしたマチルドの身投げの理由は、見る側に委ねられる。
”幸せの絶頂で人生を終えたい”と言う想いなのか、
”アントワーヌの夢を叶えて、自分の役割は終わった”と判断したのか・・。
<様々な解釈が出来るラストシーンであるが、作品全体を通して、印象深い作品である。
映画とは関係ないが、フランス女性の体臭は、ナカナカにキツイ。
それ故に、パフューム(香水)文化が発達した事は、万民が知る所である。
ナポレオンが熟睡中、家臣が悪戯で青かびチーズを鼻もとに持って行った際に行ったという台詞
”ジョセフィーヌ、今宵はもう十分だ・・”は余りに有名である。
何故、私がフランス女性の体臭が強いことを知っているかは、口が裂けても言えない・・。
と書くと誤解を与えてしまうので、数年前フランスに出張に行った際に、現地のガイドさんに教えて頂いたベルサイユ宮殿には、昔はトイレが無かった事。
ルーブル美術館でイロイロと教わった事(恐ろしく大きく、一週間かけても、見切れません・・。)
幸せの絶頂だったのでは?
彼女のとった最後の選択はなかなか理解できませんが、よい映画でした。1980年以降、フランス映画はあまり面白い作品は数少ないですが、アメリやディーバとともに面白かったと言える作品のひとつです。
意外なるボディブロー
かれこれ20年ぐらい気になってたし、同じルコント作品の「橋の上の娘」は昔、両親と劇場で観たので(←それもすごいな、、)だいぶ自分のなかで期待値は上がってたんですが。
いやはや、、フランスものだし、官能って書いてあったし、てっきりブリジット・バルドーの「殿方ご免遊ばせ」のようなエロチックコメディだと思っておったのですよ(それも古いな)。こんな、しっとりとした文芸ロマン的なテイストだとは夢にも思ってませんでした。冒頭――つまりアントワーヌの少年時代――からけっこうしっかりとした語り口で、"あ、これ、どうやら単なるエロチックコメディじゃねぇな"っていう予感はしたのですが。
アンナ・ガリエナ?色っぽいですねー、、仏製キム・ベイシンガーって感じですか(キム・ベイシンガーよく知らないので適当に言ってますけど)。ロシュフォールも雰囲気が良い。マイケル・ナイマンの音楽も。脚本も。
ラストも、説明過多でないのは良いですね。やたらハートフルで子供騙しで説明過多な邦画やドラマには辟易なので、こういうのはさすがだなと思います。しかも製作90年か、、(衝撃)
ただ、"霊の恋でも肉の恋でも"(←あえて古い表現を使ってみた)、二人いっしょに幸せの絶頂で逝こうというのならまだ分かるんだけど、愛する人を遺して一人すすんで逝く気持ち、私には分からないな。分からないし、アントワーヌ可哀想。
幸せすぎてもう生きられない、っていう境地だったのかもしれないけどね。
遺されたアントワーヌってか相手のこと考えたら、、私は無理だな。なんて、まぁ自分の身に引き寄せて、そんなことを思いましたわ。
永遠に
美しい「髪結いの女」マチルダと中年男アントワーヌの彩り溢れた愛の生活。「永遠」に続くと思うふたりの生活。
「愛が消える前に。優しさに変わる前に」
「あなたが死んだり、私に飽きたりする前に死ぬわ」
過ぎ行く「時間」と共に薄れる「愛」。
過ぎ行く「時間」と共に老いていく「自分」。
マチルダは、時間の残酷さに耐えられませんでした。愛という刹那と生命という刹那を受け止められませんでした。
「永遠」を信じることができたら、どんなに幸せでしょう。「永遠」を諦めることができたら、どんなに楽でしょう。
「永遠」の意味を分かった時に、私はどんな選択をするのかな。
小さい頃の夢をかなえた男に女が取った至上の愛の形とは・・・
小さい頃に夢見た女性理容師フェチの男が理想の美女をみつけ、ついに夢をかなえるという一見、文章にすると変態の映画だが、民族的な音楽と官能的な画、さらにユーモラスな語り部が絶妙のストーリーを奏でています。アンナ・ガリエナの官能的な美しさには本当にくらくらするほど魅かれてしまいました。ラストシーンは衝撃的でした。決してハッピーエンドに終わらないところがこの究極の愛の描き方なのでしょう。エロスと芸術の境目ぎりぎりのマニアックですが観るに値する良い作品です。
究極の愛とは究極のエゴイズム
「髪結いの亭主」とは日本古来からの言い方で、女房に食べさせてもらって、のんびり暮らしている亭主のことを言うそうだ。まさにピッタリの邦題があったものだ。子供の頃から「髪結いの亭主」になることを夢見ていた主人公は、願い通り理想的な髪結いの亭主となる。少年にとっての髪結いは初めて知る官能の対象であり、彼にとってまさに全知全能の愛の女神だ。しかし彼その愛の女神は同時に死を呼ぶ神でもあり、少年時代に憧れた髪結いは、非業の死をとげ、本当に愛した髪結いもまた同じ運命をたどることになる。
ル・コント監督の放つ究極の愛の物語は、果たして本当に愛の物語なのか?私はここにそれぞれのエゴイズムを見てしまうのだが、究極の愛とは究極のエゴイズムなのかもしれない。
「髪結いの亭主」になることだけを夢見てきた主人公を演じるロシュフォールは、普段の紳士的な役柄とは大きく違がった、飄々としたキャラクターを、独特の存在感で演じ特筆に値する。そして彼の愛を一心に受ける髪結いを演じるガリエナは、知性と官能と哀しみを兼ね備えた、“謎めいた女”を堂々と演じ、忘れがたい印象を残す。この2人の静かで穏やかな官能の日々は、美しい映像と相まって、どこかおとぎ話のような非現実感を漂わせ、観る者に来る悲劇を予感させずにはおかない。初めて店に来た客からの唐突すぎる求婚を受け入れたヒロインの心も過去も謎のまま、亭主にも我々にもその美貌を永遠のものとしてしまった。彼女にとっての永遠の愛が死であったのは何故なのか?愛の為に死ぬと書き置きした女房の死を受け入れられない亭主の哀しみは絶望を通り越して滑稽となり、哀しみを誘う。
モザイクの床、壁の鏡、この小さな店は、夫婦にとって愛と官能の全世界だ。髪結いのいなくなったこの店は、もはや愛のない虚構。
少年時代からの夢を追い求めるというエゴイズムを縦糸に、幸福の絶頂で死んで行くエゴイズムを横糸に織られた究極の愛の物語は、美しくも悲しく、残酷でありつつ滑稽な官能の物語でもある。
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