ゴダール・ソシアリスムのレビュー・感想・評価
全5件を表示
資本主義の象徴として大海原を行く豪華客船コスタ・コンコルディア号(のちに沈没)!
渋谷のイメージフォーラムで『アワーミュージック』から続けざまで鑑賞。
『アワーミュージック』から6年ぶりの長篇映画とのことだが、内容は前作に負けず劣らず難解で、何の話だかは観ていても正直よくわからない。
ただ『アワーミュージック』と比べて、映像的には目に楽しい、視覚的悦楽を伴う映画に仕上がっていたように思う。
何より、本作では鮮やかな「色」が映画に戻ってきていて、それだけでもずいぶん印象は違った感じがする。
まず、海面で激しくしぶく白浪を全スクリーンでとらえた映像がインパクトを残す。
海の上を悠然と進んでいくのは、巨大な豪華客船だ。
船の水色と黄色(奇しくもウクライナ・カラー)に、ピンポイントで鮮烈な赤が混じる。ああ、これは『気狂いピエロ』の三原色と同じじゃないか。
船は、常に消失点を備えた奥行のあるカメラワークでとらえられる。
白、青、黄、赤のコントラストは、全編を通じて意識される。
さらには、画面全体の色彩にもいろいろと加工の跡が残される。
本作は、ゴダールが初めてHDのフルデジタルでの製作(しかも分業)に踏み切った映画ということだが、通常のショットを見ると、むしろフィルム時代よりエッジの利いた、クリアで凄味のある画質を示しているように思う。一方で、デジタル加工を施した画面は、今となっては逆に少し古くさい感じがするかもしれない。
タイトルとの絡みでいえば、豪華客船はそのまま「資本主義」の象徴として描かれているのだろう。
船の外見は美しくとも、監督の共感は希薄だ。むしろ醜悪で腐臭を放つブルジョア老人たちのつどう「愚者の舟」ともいえる。金まみれの遊びと酒まみれの歓楽を乗せて、資本主義の生んだモンスターは水飛沫を上げて大海を進んでいく。
一方で、この船が絶対的な質量と重量を誇り、揺るぎない安定感を漂わせているのも確かだし、乗っている人々も必ずしもその環境に不満を抱いているわけではなさそうだ。何より、この船はすでに「出航」し、運命共同体としての人類を乗せて、いずこへかと進まざるを得ない存在でもある。ゴダールは嫌悪感とともに船の存在を半ば容認し、ある程度の客観的な視座をもって、その行く末を静かに見つめているようにも感じられる。
20世紀における社会主義(ソーシャリスム)の実験が悉く大失敗に終わり、ゴダールが60~70年代に傾倒したマオイスムも、ソ連邦で展開されたスターリニズムも、結局は極端な独裁制と国家主義と民衆の抑圧ととめどない大量死を生むだけの装置としてしか機能しなかった。
「民主主義は最悪の政治形態である。ただし、過去の他のすべての政治形態を除いては」と述べたのはチャーチルだったが、資本主義をとりまく状況もまた、他の壮大な社会実験が次々と淘汰されていくなかで、これだけが「悪しきセカンドベスト」として残ってしまったというのが偽らざる現状だ。
とはいえ、ある種の諦めをもって「新たなる資本主義の出航」を見守るほうが、絶望を抱いてテロリズムに走るよりはまだ健全だし、常に何かしらの希望を抱く楽観主義こそが新しい未来志向を生み出していくのではないか、とも思う。
そのあたりのゴダールの躊躇いも、茫洋とした語り口には反映されているのではないか。
ただし、後日談を紹介するなら……本作のロケ地(撮影は2008年)として用いられた豪華客船コスタ・コンコルディア号がその後どうなったかというと……なんと、この船、2012年には、座礁して多くの犠牲者を出したのちに沈没しているのだ!! 結局、船出した超巨大な資本主義の象徴物もまた将来的には海の藻屑と消えたわけで、ここでもゴダールの予知能力めいた眼力の凄味には恐るべきものがある。
― ― ― ―
●ロシア人女性(情報員?)の足元に並ぶマトリョーシカ(うわべと内面の多重構造)。金貨のネックレスを触りながら「沈黙は金なり」とさかしらに語る子供。現在のオデッサの大階段と『戦艦ポチョムキン』からの子供を運ぶ母親の引用。初期ギリシャ彫刻が示すアルカイックスマイル。突然海のなかで渦をまきながら姿を現す巨大な魚群。白人の享楽的な観光客と東洋人ばかりの乗務員の対比。台詞のつながりもわからなければ、挿入される映像の意味合いもわからないにせよ、何かしらの「ゴダールの流儀」が常に通底して流れているのは感じとれる。
●第二章では、フランスの田舎町にあるガソリンスタンドで暮らす4人家族――少女、少年、母親、父親の生活ぶりが描かれる。皿洗いする母親をいやらしい手つきで撫でまわす少年とか、それと対比される歯磨きする娘と指揮をする母親の取り合わせとか、写実的な絵に原色の筆を書き加える少年とか。
第三章では、6つの神話的な場所――エジプト、パレスチナ、オデッサ、ヘラス、ナポリ、バルセロナをめぐる。なんにせよ、具体的にどういう内容を語ろうとしているのかは、浅学の僕にはよくわからない。
●音楽としては、2度ほど印象的な形でベートーヴェンの田園交響曲が流れる。あとはシュニトケとか、アルヴォ・ペルトとか。
●まあ、あまりに映画の意図や内容が把握できないこともあって、頭の悪い自分に対する自責の念を感じないでもないが、ここまでわからないのは監督の責任という部分ももちろんあるわけで、わからないことを「芸」もしくは「圧倒体験」として楽しめたかどうかという基準に基づき、低めの点数にしてみました(笑)。
●最後に。邦題で「ゴダール」つけるの、ダサすぎない??
「ゴダールの××」なら、まだわかるよ。「ゴダール社会主義」ってなんだよ??(笑)
☆☆ ※ 鑑賞直後のメモから ゴダールは何をやってもゴダールな訳で...
☆☆
※ 鑑賞直後のメモから
ゴダールは何をやってもゴダールな訳で…。
早い話が、森進一のモノマネをするモノマネタレントのモノマネをする森進一がそこに存在している様なモノですなあ〜(u_u)
如何にしてゴダールっぽい映像を撮るかが、今のゴダールには課せられた使命…としか思えない。
そうすれば、ゴダールを《神》と崇める人達が世界中にいる訳で。後は勝手に、そんな人達が「ああだ!こうだ!」と意味付けしてくれるのだから。
でもそれって、実に大いなる不幸の様な気がしますけどね〜(-.-;)
2010年12月21日 TOHOシネマズ/シャンテシネ1
旅、無愛想な、旅
「勝手にしやがれ」などの作品で知られるフランス映画界の重鎮、ジャン=リュック・ゴダール監督が、6年振りに発表した長編劇映画作品。
修学旅行で行った京都。そこで出会った貸切タクシーの運転手が今でも記憶に残っている。「ここ、金閣寺」「ここ、平等院」「ここ、竜馬が死んだ所。早くしてくださいね」丁寧な説明も、愛想も一切なしで黙々と業務をこなす運転手の宝。当時はただ苛立ちしか感じなかったが、今になって思い出せば、不思議と頭に残る京都の名所。こんなガイドも、捨てたものではないのである。
さて、本作である。フランス映画界で最も解読不可能な映画を作る監督の一人とされるゴダール監督の最新作。物語を作り上げているのは、「原色の明るさ、不協和音のピアノ、古典映画の名場面、詩」。
「あ・い・う・え・お」や「A・B・C」といった言語の組み合わせが明確な意味を持つ言葉の積み重ねで説明されるスタンダードな映画作りは、徹底して排除されている。その代わりに、色・音・動き・響きという映画空間を支える雑多な要素を予定調和無視に投げ込んだ奇妙な世界。観客の自発的な考察や、想像を期待する無愛想な旅が始まる。
立ち止まって考え、「これは・・何ですか?」と問答を繰り返す暇も無く、誰かさんの溢れ出す感情の洪水に無理やり、突き飛ばされることで生まれる息苦しさ、孤独感、焦りに観客は大いに困惑させられる。だが、それに慣れた先にふと訪れる、穏やかな浮遊感と、脱力感。本作が世界で評価される要因は、この一点に尽きているのだろうと想像させる気持ち良さの極地。
言葉で表せない混濁した心の叫びと、とにかく伝えたい想いの力強さが支配する未開の地への旅。改めて、ごった煮芸術として生き続ける「映画」の奥深さと魅力をたっぷりと味わえる異色作となっている。口数少ないガイド付きの旅行も、やはり捨てたものではないのだ。
やっぱり難しい、でも気持ちいい
2010年スイス・フランス合作映画。102分。2011年10本目の作品。フランスの奇才ジャン・リュック・ゴダールの長編最新作で、一説によると最後の作品になるとか。
内容は:
よく分かりません。
ゴダールの作品を観るというのは、自分にとっては感受性の活性化が目的。この人の映画というのは、どうして意味が難解なのに心の琴線に触れ、泣けてくるのでしょう。
他者をよせつけないほどに圧倒的なスタイルから繰り広げられる彼の作品は、形式にとらわれなくても人間の心に何か共通の価値観があることを気づかされる。理屈やテクニックじゃなく、そんなことが瑣末に思えるくらい心が振るわされます。
これが人間愛ってやつなのかな。
むずかしい。
でも、また観たい。
そんな作品でした。
全5件を表示


