「ボスニアである必然性が…」サラエボ,希望の街角 grassryuさんの映画レビュー(感想・評価)
ボスニアである必然性が…
期待がとても大きかったので…。
ズリンカ・ツビテシッチという女優さんはとても魅力的でした。
が、内戦で受けた心の痛手から酒に溺れかけていた内縁の夫が、心の平静と引き換えに、自らの意思で選択した途によって変容していくことへの、(明白な嫌悪感を含んだ)妻の倦怠感は重々理解できるのですが、彼の変容が自らの内戦へのトラウマをデジャヴしてしまい、(また最愛の祖母の内なる希望を汲んで訪れた先で)彼女がさめざめと泣き濡れるシーンにも、もらい泣きすることもなくたんたんと眺めていました。
今の僕には、愛する人がその世界に没入していくということに到底思い至らない、貧相で一面的な(もっとはっきりいうと極度にアメリカナイズされた)文化的バックボーンしか持ち合わせていないからだと思います。
かの国では、至極当たり前な傾倒なのでしょうし、(他の宗教戦争やベトナム・アフガニスタンのその後をみるにつけ)こうした変容(進化?退嬰?)がトラウマから決別する自然な流れの一つなのだろうなとも想像するのですが…。敗戦後の日本にもこうした傾向が顕著だったやに、耳学問はしているのですが…。
(普段あまりみることのできない、旧ユーゴの美しい風景・街並みには一見の価値ありですが)やはりボスニアである必然性は感じられなかったです。
平和な日本でのうのうと惰眠を貪る、僕のようなプチプル・ブルジョア(というか単なる平和ボケの映画バカ)には、シンクロしなかったということでしょう。
苦しみや悲しみをきちっと内省化できていて、彼女の悲しみの底深さを感受できる繊細さを備え、豊かで濃密な人生経験を備えた方にお勧めしたい作品といえましょうか。
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