CUTのレビュー・感想・評価
全22件中、1~20件目を表示
映画を好きでいるという孤独な営み
すべてを包み込むような静謐さと、ひりひりと焼けるような痛みと、熱にうかされるような高揚と。観る者のエネルギーの一切を搾り取り、同時に底知れぬ新たなエネルギーを一気に吹き込む(まるで、シュウジが抱えた借金のようだ)。そんな至極の映画体験を、一瞬も絶えることなく存分に味わった。
連呼される「映画」という言葉。初めこそ気恥ずかしさを感じたが、シュウジが地を踏み鳴らす足音と相まって、次第に胸躍るリズムとなっていく。何より驚かされたのは、どす黒い血と汗にまみれた映像に覆い被さる、映画100本のクレジット。文字という単なる記号が、暴力に相対する説得力を発揮する。そして、ビルがそびえる都会の中で明かりを灯す、屋外映画館の幻想的な美しさ…。様々な音が、光景が、今も鮮烈によみがえる。
バーに集う人物たちは、殴られ屋となるシュウジを軸に揺れ動くが、シュウジは最後まで彼らと交わらない。映画という共通項を持つ友人や、上映会に集う人々とさえも。映画を伝えたい、映画について語り合おう、とシュウジは高らかに呼び掛けるが、実際は多くを語らず、沈黙を保つ。
映画を好きでいるのは孤独なことだ、と改めて感じた。日常会話の中で、「映画が好きです」と言うのは、勇気がいる。相手に「私も」と返されると、むしろどきどきする。「映画」は余りにも幅があり、それでいて「読書」のような普遍さがない。どこか特別。映画好き、という共通項を喜びつつも、語り合えば差異があらわになり、逆に溝が生まれるかもしれない、と不安になる。好きなジャンル、俳優、監督、映画を観る場所やツール、…好きのありよう。そんなことまで気になってしまう。
そもそも、映画館の暗闇に身を置くこと自体、心地よく孤独を感じる行為だ。向き合うのは、他者ではなくスクリーン。笑ったり泣いたりする箇所や、笑い方・泣き方にはズレがある。たとえ同じシーンであったとしても、泣く・笑うといった目に見える行動の背景にある思いは計り知れない。映画を好きでいるということは、誰かとの共通項探しや共感以上に、他との違いやずれを感じることで、もやもやとした自分というものを、手探りしつつ確認したいのかもしれない。
だからこそ、映画への愛を秘めながら沈黙を守り、傷だらけになるシュウジから、映画の中の彼らも、映画を見つめる私たちも、目をそむけられない。彼らは映画を救うためではなく、挑戦を貫くシュウジに惹かれて行動を起こす。それでも、シュウジの映画への想いは守られ、鼓舞される。…映画にとっても、シュウジや彼らにとっても、幸せなことに。
映画によって、細々と、そして確実に、私たちは孤独を保ちつつ繋がっている。
映画の持つエネルギーに圧倒された
アミールナデリの作品は、ファンタジーだ。
彼の映画には、映画という虚構だからこそ、生まれるエネルギーがある。
アミールナデリの魅力は、過去の作品からもわかるように映画という虚構の世界にいる人々の物語が解き放つエネルギーだ。
「駆ける少年」、「水、風、砂」「マンハッタン・バイ・ナンバーズ」・・・「ベガス」全てが、現実には到底有り得ない不可能を映画という虚構の世界で可能にする。
愚直なまでに純粋で単純に表現している。
あれだけ殴られるなんて生きてるなんて有り得ない。
映画のために借金を負って死ぬなんて設定は、有り得ない。
現実に有りえるわけない!なんて現実の尺度で、ナデリ映画を語っても意味がない。
有り得ないを映画で可能にするのがナデリ映画なのだから。
映画という虚構から生まれる確かな実感がある。感動だったり、驚きだったり・・・映画が与える実感。つまらないというのもある意味で映画から受ける実感。
ただ、CUTには、他の映画が解き放たない得体の知れないエネルギーを放出している。
よくわからないエネルギーを実感できる。
間違いなく、これは映画だけが放つあるエネルギーだ。
そもそも映画の中で映画史ベスト100を勝手にやるなんてアイデア自体が意味不明。
だが、これを実現させるのが、ナデリ映画の魅力。
最後の15分が解き放つエネルギーは圧巻だ。
まぁ、このナデリエネルギーを拒否する人もたくさんいると思うけど。
映画が大好きな男が兄の借金を返済するために日々殴られ続けることで金...
映画が大好きな男が兄の借金を返済するために日々殴られ続けることで金を稼ぐ。
はっきり言って意味不明。
映画愛について描きたいのか、暴力を描きたいのか。
ただ、西島秀俊の鬼気迫る演技は見応えがあった。
痛々しい
監督の映画愛はすごく感じる。イランの監督が何故、日本を舞台に日本の役者で取ったのか?は少し謎。日本映画が好きだから?
秀二の映画愛もまたすごく感じる。自分で映画も制作するがお金がなく兄に借りていたが、兄もお金を借りていて、返済できず命を落とす。その借金返済のために殴られ家を始めるのだが。あれだけ殴られたら普通死んじゃってるよ。
映画愛溢れる秀二が公開されない映画を自分の住むビルの屋上で上映しているが、観にきたお客さん、主催者があんな痛々しい姿だと普通怪しまれるしヒクよねっ。
借金返済出来たら、今度は自分が借金?信じられない。3500万、それで映画を撮るんだろうが、また殴られて返済するのか。
せっかくの映画愛溢れる映画が、暴力が全体的に多すぎて、印象が良くない。ちょっともったいない。
映画愛はあるものの
映画監督なのか単なるマニアなのかわからないほど映画愛に満ちている男・秀二。かつての映画は本物だった。金儲けの娯楽映画もいいけど、本物の映画を観てほしいと演説するほどだ。
殴られ続ける男秀二。ボクシングの試合を終えたような痣だらけのメイクは痛々しくて凄いけど、それを12日間やり続けるってのはリアルさに欠ける。それに映画を撮りたいというより、マニアックな部分だけが浮き彫りになってる感じもいただけない。
色んな名作映画のタイトルや映像も流されているのがいい。イラン人監督であっても日本映画が好きだったんだなぁ・・・
狂気的な愛と美しさ
“映画のために死ね”
このコピーに惹かれて鑑賞
“愛情”ではなく“愛”
さらにいえば“狂気的な愛”である
しかし “愛”とは何かと問いたくなる
映画は 商業的な商品であり芸術でもある
商品的な映画は “魂の失われた映画”なのか
“本当の映画”とは何なのか そもそも映画とは…
西島秀俊の鍛え上げられた肉体美
それのおかげか暴力シーンも美しく感じる
エンドロールに、鳥肌。
映画のフィルムを買うための借金を、
自分の身体を殴らせることで払われるお金で返そうと、
来る日も来る日も殴らせ、
そんな中でも、映画への愛を貫く。
暴力シーンが殆どなのだけれど、
何故か・・・胸が打たれる。
エンドロールに、鳥肌。
本物の映画を見てと言うけれど
この作品には芸術性も本物の娯楽も感じなかった。
金儲けに走るエンターテイメントと言っていたけど、少なくともエンターテイメント映画はそれなりに楽しい時間をくれる。この作品は痛々しい映像だけをくれた。
愛する100本より
ここまで既存の映画に喧嘩売ってるのだから、「魂の失われた100本」を羅列して欲しかった。
話の筋もご都合主義的で、あんなに殴られ屋が繁盛するとは思えず、あんなに西島さんが頑丈な理由も無く、あそこがボクシングジムなのにバーカウンターがあり、常盤さんと笹野さんは急に肩入れしてしまうし、そら眠くもなりますよ。4回は寝落ちしました。
ラストの100本は楽しかった。そこだけ。
何をそんなに守りたいのか、彼が言う本物とはなんなのか、曖昧でどこで...
何をそんなに守りたいのか、彼が言う本物とはなんなのか、曖昧でどこでラインを引くのかも数多いる人達が判断するもので、その時代時代で受け入れられるものだと思うが。頑なに自分の愛を訴える主人公。その怒りは本物だと思う。西島秀俊という才のある俳優をもって、表現し尽くしてある。極限の芯をもった作品。
ぶっちゃけ、ここまで狂気を感じるとリアルとか云々は置いといて、凄まじい迫力がある。お話としてお客を楽しませるつもりもなくエンターテインメントに喧嘩を売り続けて、視聴者に思いの丈をぶつけ続ける。これもありなんでしょうが、面白いかと言われたら面白くないですよね。
映画に何を求めるかによるんでしょうが、攻めに攻めてる渾身の作品です。
一見の価値あり。
いまいち
同じことの繰り返しをずっと描いてて大して面白くなかったかな。主人公があそこまで映画に執着してる理由もわからないし、殴られ屋をずっと続けられる理由もわからないしでいまいちよくわからないことだらけの映画だった。
狂気の具現化
まさに狂気。目的のため、己が過ちを贖罪するため、ここまで狂えるのか我々に問うた作品。
この作品はとにかく『映画』にもこだわっている。映画狂とも言える男の生き様を通して、世界には素晴らしい映画があることを伝えてくれている。
色んな映画をみたくなった。
「捲土重来」「道法自然」
映画「CUT」(アミール・ナデリ監督)から。
毎度のことながら、作品内に、掛軸などが飾られていると、
何かのメッセージだと察知して、メモしてしまう。
今回は「捲土重来」「道法自然」が気になって仕方なかった。
鑑賞後調べたら「捲土重来」とは、
「一度戦いに負けた者が、勢いを盛り返して、ふたたび攻めてくること」
「捲土」は土煙をあげるほどの激しい勢い、ようすをいう。
転じて「捲土重来を期す」などといって、
一度失敗した者が猛烈な意気込みでふたたびやり直すことをいう。
「道法自然」とは、中国の思想家、老子の言葉で
「人法地、地法天、天法道、道法自然」の最後の句。
「人は地に、地は天に、天は道に、道は自然に法る(のっとる=手本)とす」
つまり人は地に従うもの、地は天に従うもの、天は道に従うもの、
そして道は自然に従うもの、という意味らしい。
人の歩むべきは自然の法則に従うべき、と解釈され、
私利私欲に流されること無く、何が正しいのかを見極めること、
素直に感じ、行動することの大切さを伝えている言葉のようだ。
なるほど、この2つの四字熟語で、作品が思い出せる。
殴られ続ける西島秀俊さん扮する秀二が、
「本物の映画」だと仮定すれば「捲土重来を期す」日は近いし、
その手段は「道法自然」しかないのかもしれないな。
溢れる映画への愛
「本当の映画」を守るために、「本当の映画」を作り生き残るために、戦い続ける秀二の身体は、物語が進むに連れて、どんどん痛ましくなっていく。しかし、その魂は最後の最後まで、まっすぐ映画に向かっていた。ラストシーンが終わった後、沈黙のエンドロールの間も秀二の映画への愛は放出され続け、映画が終わった後の我々に一種の映画愛の卵を産みつける。秀二が守ろうとした映画というものを、自分の大切な何かに置き換えて観るというよりは、秀二が映画を守ろうとするその姿を、何も置き換えずに観るほうがよい
映画好き必見。
早く観るべきでした。西島さんの代表作になるであろう作品ながら、常盤さん笹野さん菅田さんの抑えた演技というか存在感も素晴らしい。常盤さん惚れ直しました。エンタテインメントという単語の功罪…。映画が好きな方は必見でしょうね。★4.5 http://coco.to/4034
感動です!!
今日、人生初めての一人映画館デビューで見に行ってきました!初めから最後まで興奮しまくりーー(><)身じろぎもせずに見入ってたよ(^O^)映画が終わって、帰ろうとしたら「アミール・ナデリ監督」がいて、もう超大興奮!!パンフレットにサインをもらい、携帯で2ショット写真を撮ってもらいました(*^^*)西島さんならもっとよかったのに。。(笑)
映画馬鹿に、栄光あれ!!
イラン映画の重鎮アッバス・キアロスタミと並び、同国映画界を担うアミール・ナデリ監督が、日本においてその存在感、演技力が評価を高めている西島秀俊を主演に迎えて描く、群像劇。
様々なジャンルの作品で端正な顔立ちを披露している人気俳優、西島秀俊が外国人監督と組んだ作品。多くの女性が、イケメンが躍動する「格好良い」物語を期待して鑑賞されるようだが、その一点のみを目的に本作に挑もうとするのなら、悪いことは言わない。他の作品をご鑑賞いただいた方が良い。
何故か。物語冒頭こそ、セクシーな魅力をまき散らして西島が東京を疾走するスピード感を堪能できるが、後半は主人公が誰なのかすら血まみれで全然分からない。ボッコボコに殴られ、青アザに埋め尽くされた顔は、いくら素材がイケメンでも「西島様~」と歓声を送る気には到底なれない。この前提をしっかりとご理解いただいた上で、この作品に向き合う必要がある。
では、この作品は駄作か?西島というネームバリューに頼り切った企画作品か?答えは、NOだ。大いに、NOだ。
映画という音楽、演劇、そして暗闇の美学をごちゃ混ぜにした異色の総合芸術。その不可思議さ、難しさ、そして魅力に少しでも興味を抱く方なら、この物語が放つエネルギーに心が躍るはずだ。
全てを投げ打って、自分の体を犠牲にして腐っていく映画界へと反発していく一人の男。その荒々しいまでの純粋さを、暴力との対比を通してむき出しにしていく。それは、クライマックスの名作映画たちへの溢れ出す情熱を露骨に提示する表現にこそ強く表れる。ここでは多くは語れない。ただ、観てほしい。
ここまでして、初めて人は「映画、愛してます」と堂々と語れるのかもしれない、なんて勝手に思ってしまう。それだけのインパクトが熱を持ってぶつかってくる。
「馬鹿」という言葉は、大抵負の感情をもって使われる。鼻で笑われる人間に、使われる。でも、敢えて正の感情をもって私は、使いたい。馬鹿は、世界を変える。変えてくれる。そんな強い可能性をみせる本作に、声高に告げたい。
映画馬鹿に、栄光あれ!!
全22件中、1~20件目を表示