「今を、生きるために」ザ・ロード ダックス奮闘{ふんとう}さんの映画レビュー(感想・評価)
今を、生きるために
ジョン・ヒルコート監督が、「イースタン・プロミス」で端正な裸体を堂々と披露したヴィゴ・モーテンセンを主演に迎えて描く、不条理感に満ち溢れた人間ドラマ。
行き場のない、息苦しいまでの閉塞感を全編にわたって貫き、絶望の中に突き落とされた人間の姿を静かに、綺麗事を排除して描き出す本作。この解決策の見えない未来への疑惑と不審はそのまま、現代に漂う雰囲気を丸ごと持ち込んできたかのようである。
この中で、本作が提示するテーマは何だろうか。この論題に挑む前にまず、頭に残る違和感を見つめてみたい。
「いずれ、この世界から木は全て失われてしまうだろう。」
冒頭に打ち出されるこの台詞。極限の苦しみ、痛み、その中で生きる意味を探っていく作品にあって、なぜ、木なのか。この台詞を単なる思い付きでないことを示すように、物語全編に渡って描かれていくのが、枯れ木の倒壊である。単なる絶望の象徴として持ち込まれるにしても、存在を主張しすぎである。木とは、何だ。
木とは、長い年月をかけて成長し、年輪を重ね、その地に居座り続けることを強制される存在である。その年輪に残酷な亀裂が入り、躊躇する事無く倒れていく。ここに、「経験」への否定を見るのはいささか深読みしすぎだろうか。
希望を失い、生きる意味を見出すことが出来ない世界にあって、「経験」も「過去」も役には立たない。本作の主人公である親子のうち、父親は愛する亡き妻の姿を追い求め、過去の経験をもとに物事を判断しようとする。父の裸もまた然り。年輪を重ねた裸体は「経験」を頼りに水に漬かり、雨に打たれ、命を縮めていく。今、必要なのは「こうだった」ではなく、「こうであってほしい」という思考なのではないか。
子は、自分の直感を信じて進むべき道を自分で決める。そこには「経験」を過信する現代への反抗がある。何も無い道へ、飛び込め。枯れ木に、しがみつく時代は終わった。
静寂に覆われた世界に生きるのは、今を燃えることを選ぶ力強き炎だった。決して最上のハッピーエンドには至らないが、それでも現代を生きる私達の背中を押してくれる力が、ある。今を、信じるものに、幸あれと。