酔いがさめたら、うちに帰ろう。のレビュー・感想・評価
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そういや『地雷を踏んだらサヨウナラ』の戦場カメラマン・一ノ瀬泰造を演じたのも浅野忠信だった。ただ、戦場カメラマンとしての映像はない。
途中からは、精神病院のアルコール病棟がメインとなり、そこに入院している人々の人間模様が実に面白い。カレーライスが食べたいのに、胃潰瘍のせいか塚原だけカレーがあたらない。食べたくてしょうがない様子が実にいい!詳しくわからないが、この映画に関してはリアリズムを追及しているのだろうか、点滴の針を刺すシーンとか胃カメラを飲むシーンとか、本当にやってるんじゃないかと思った。怒りっぽい患者もいい演技だし、なにより看護師役の柊瑠実がキュート。
退院直前、腎臓がんになっていたことがわかる。外科的処置は手遅れで、もう長くない命。そんなに悲惨なストーリーじゃないけど、妙に心に響く内容だ。CGなんてのは全くないけど、絶妙なフィルム編集があったりする。アルコール依存症の影響で怒鳴ったりするとき、周りの人がその怒鳴り声が聞こえないといったシーンだ。多分音声のみの編集か?これがまた本人の意識しない部分だったりするので、患者の立場になれるといった効果がある。
最後は家族(妻とは離婚したまま)との映像。ここに忌野清志郎の歌が流れるので涙を誘われる・・・
「涙活」の必要性
最近、女性の間で「涙活」なるものが流行っているらしい。「涙活」とは「能動的に泣くことで心のデトックスを図る活動」だそうだ。意識的に泣いてストレスを発散しよう!ということらしい。確かに思いっきり泣くとスッキリする。落ち込んでいる時は、泣いた後に少し前向きな気持ちになれたりする。しかし泣くには体力がいるし、本当に悲しかったり、本当に絶望していたりすると上手く泣けないものだ。永作演じる主人公の妻も、そんな悲しみを上手く表現できない人だ。
売れっ子漫画家由紀にはやっかいな存在の元夫がいる。戦場カメラマンである安行は、重度のアルコール依存症で入退院を繰り返している。彼の母と共に何かと“何故か嫌いになれない”元夫の面倒を見る由紀。大量に吐血して救急車で運ばれる安行に「大丈夫、まだ死なないよ」と冷静な言葉をかける男前な性格の彼女は、仕事をバリバリこなしながら、2人の子供を育てている。
ここに描かれるのは一風変わった家族の形だ。浅野演じる安行は、酒を飲むと暴力的になることもあるが、子供たちには優しい父親だ。子供たちも父親の惨状(?)には慣れていて、入院する度に、お見舞いに行くことを楽しみにしている。そもそも安行は、戦場で見る悲惨な光景に絶えられずに酒に走ってしまった、元来心の優しい気弱な男なのだ。それでも酔っ払って、妻の描きあげたばかりの原稿を破り捨てるような夫に、心底愛想を尽かさないのは何故だろう。彼女は元夫に対して、一時外出中には「(酒が飲みたかったら)飲めば?」とか、腎臓がんで余命宣告された後には「なかなか死なないねぇ」など、一見無責任で残酷な言葉をかけるが、そこには夫婦間にしか分からない微細な愛情と信頼関係があるのだ。元夫の命が残り少ないと告げられた時、彼女は医師に「最近哀しいことと嬉しいことの区別がつかない」と言う。どちらの感情も体中を支配して自分をいっぱいいっぱいにしてしまうから、自分でも哀しいのか嬉しいのか解らないのだと・・・。そう、彼女は元夫から、様々な嬉しいことと、おそらくそれ以上の哀しいことを受けたので、素直に自分の感情を表現できなくなってしまったのだ。安行は、患者仲間や医師や子供たちや母や元妻などから支えられ、勇気づけられ、穏やかな死を迎える準備(心も体も)を整えることが出来たのに、彼女の方が理性的にではなく、本能的に彼を送る準備ができていない。「涙活」は彼女にこそ必要な活動だろう。
彼が余生を送るために、再び家族で暮らし始めたある日、料理をしながら彼女がふいに泣き出すシーンがある。その涙は嗚咽となり、彼女の体から激しく発散される。よかった、もう大丈夫、これでようやく彼女は素直に彼を送ることが出来る。この心の平安が穏やかなラストシーンに繋がっていくのだ。
さて、ここまで由紀の目線で語ってきたが、本作は安行目線で描かれている。物語のメインは、アルコール病棟での他の患者たちとの交流だ。右を向いても左を向いてもダメダメな男たちのダメダメな日常をユーモアとペーソスを交えて描かれていく。このダメダメな男たちに比べて本作に登場する女性たちが「デキる女」なのが興味深い。仕事と家事を完璧にこなす由紀を始め、華道の師範である安行の母、手におえない患者を軽く諌める女医など、皆強く逞しい。中でも注目なのが、由紀のアシスタントだ。市川実日子演じる彼女は、出番も少ないしセリフもほとんどないが、アシスタントとして仕事や食事の用意などで先生を支える一方、複雑な家庭の事情(?)を全て解っていて敢えて何も言わない優しさと強さを持った女性だ。
本作は漫画家の西原理恵子と写真家の鴨志田譲の実話に基づいている。この原作は鴨志田の著書によるが、西原原作の『毎日母さん』も、小泉今日子と永瀬正敏という実際の元夫婦の共演で映画化されている。この夫婦の物語が妻目線ではどう変わっていくのか、こちらもチェックしておかなければ。
世の中の誰も本当には同情してくれない病気
映画「酔いがさめたらうちへ帰ろう」(東陽一監督)から。
重度アルコール依存症の男が主人公の話だから、
病院で先生が口にした、この病気の定義が面白かった。
「アルコール依存症が他の病気と違うのは」と前置きをして、
「世の中の誰も本当には同情してくれないということです」
これには、納得してメモが役に立った。
他の病気は、多くの人が容態を心配して様子を窺うが、
アルコール依存症は、意志の弱さが原因とみられるからか、
「大丈夫?」と口では心配するが、同情もしていない、
そんな周りの反応を覚悟してください、と言われたようだ。
ところで、主人公が物語の途中で、こんな台詞を呟く。
「母音だけで言うと、さみしいは『あいいい』、
かなしいは『ああいい』」
これは、後になってキーワードになるに違いない、
きっと何かの伏線だなぁ、とメモしたのだが、
結局、謎が解けぬまま、あっけなく終わってしまった。
「戦場カメラマン・鴨志田穣さんの自伝的小説」の映画化と
解説にあったから、図書館で見つけて確かめたい。
意味があるのかなぁ、このもったいぶった言い方。(汗)
過程の、美学
「サード」などの作品で知られる東陽一監督が、浅野忠信、永作博美を主演に迎えて描く人間ドラマ。
男はアルコール依存症を克服し、入院していた精神病棟を退院する。退院する患者は、自らの生い立ち、酒に逃げた経緯を他の患者に話すという慣例に従う。男も、朴訥に語り始める。いよいよ、観客を涙の滝に誘い込む大団円である・・・はずが、男は全てを語らない。途中で席を離れてしまう。これは、どういうことだ。
本作が、注意深く心掛けていることは、「男が、最後に亡くなってしまう」という観客が前提として理解している事実に、重要性を与えないことだ。もちろん、そこの終着点にクライマックスを持ち込んだほうが作り方としても効率的、かつ組み立て方が解りやすくなるのは目に見えている。でも、この作品はそれをしない。
男を静かに見つめる妻が職としている漫画の、空の色が生まれるまでを丁寧に追いかける手間。一回の内視鏡手術を描くために、マウスピースの装着からこつこつ、こつこつ掬いだす手間。そう、本作が最も力を注いでるのは「過程」。涙腺を刺激する「結果」に頼らず、一つの結末にたどり着くまでの過程にこそ、本当の人間の美しさ、健気さ、弱さが宿ると、この映画は信じている。
だからこそ、男の身の上話も限りなく不自然にぶった切る。何故、男が酒に走ったかはそれほど大事じゃない。男が過去を見つめるまでに過ごした毎日を見てきた観客には、もう言わずもがなでしょうと作り手はほくそ笑む。
「死」を一大イベントと捉えず、それまでにどう「生きるか」をしっかりと考え、掴もうとする姿勢は、映画作家として、そして一人の人間として誠実に、清潔である。本作は一人の女性漫画家の夫の自叙伝という魅力以上に、人間ドラマへの真っ直ぐな、正しい答えとしての価値に満ちている。
地獄に溺れる男でも羨ましい愛の物語
普段は黙々としたシャイな人柄なのに、禁断症状で突然、声を荒げ、暴れ出し、歯止めの利かない狂気をさらけ出す浅野忠信の二面性がアルコール中毒の恐ろしさを物語る。
自業自得と云われたらそれまでの救いのない壮絶な闘病記をどこかほのぼのと笑いのテイストで見易い世界観に仕上げているのは、永作博美演ずる元奥さんの漫画家・西原理恵子の肝の据わった視点、見守る母親の存在感、そして、愛くるしい子供達の支えが大きく、家族の大切さを痛感した。
最初に精神病院に入院する場面は、両親2人とも鬱病で入院した自分自身の過去を思い出し、顔を背けそうになる。
特に母親は一昨年に生と死の境界線をさまよい歩くほど悪化したので、面会に出向いた際の密閉化した冷たい空気の重さが、モロにフラッシュバックしてしまって絶句した。
しかし、痛々しさだけで進むのでなく、当番制で一悶着する人間関係や回復具合を念願のカレーライスへの一歩に集約する巧さにクスクスと心が和らぐのが、主人公にとっても、観客の我々にもかけがえのない救いだったのかもしれない。
世知辛い世間に上手く付き合えず、自分のもどかしさを酒で忘れ去ろうと酔いつぶれ、破滅的な生涯を送る無頼派の人生に惹かれるのは、言葉で言い難い哀れみと憧れが大きく渦巻いているからなのかもしれない。
では、最後に短歌を一首
『繋ぐ手の 震えを悔いる 白い壁 アングルは追う お帰りの味』
by全竜
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