「むしろ自然なアンドロイドの描写」イヴの時間 劇場版 Aerohandさんの映画レビュー(感想・評価)
むしろ自然なアンドロイドの描写
リクオが、アンドロイドと人間の違いを「そんなのどうでもいいか」と笑い飛ばし、ピアノを弾き始めるシーンにこの作品のメッセージが全て詰まっているように感じます。そしてそれは十分に伝わったし、僕個人としても、そんな未来が訪れたら良いと常日頃から思っていました。
今作で一番突っ込まれるであろう点は、恐らく、アンドロイドたちの「イヴの時間」と外の世界での振る舞い方があまりにも違うことでしょう。外の世界で人間に使用される彼らは、現代の私たちが真っ先に思い浮かべるアンドロイド像そのものです。感情はなく、命令を実行するだけの存在として描かれています。一方、人間とロボットを区別しないことをルールとするカフェ「イヴの時間」では、彼らは非常に人間臭く振る舞います。アンドロイドなのに笑うし、照れるし、泣くし、怒ります。作中でも繰り返し強調されている通り「人間と見分けがつきません」。
ここで生まれる疑問は「君たち感情ないんじゃないの?」というものです。先にも述べた通り、私たちの考えるアンドロイド像は、今作においてアンドロイドたちが外で見せる姿です。故に「イヴの時間」での彼らの振る舞いと外での無感情な姿の間に整合性が感じられず、話が作り物臭く思えてしまう。フィクションにおいて、鑑賞者が作中の出来事に嘘を感じてしまうことは本来なら絶対にあってはならないことで、その点、この映画が失敗してしまっていることには僕も同意します。実際のところ、アンドロイドが外の世界と「イヴの時間」で振る舞いを変える必然性が見えませんからね。
しかしながら、この二つのロボット像を描かないことにはそもそも作品が成り立たないこともまた事実だと僕は思うのです。
恐らく多くの方は後者の「人間的なアンドロイド」の方に違和感を覚えたと思いますが、むしろ僕は、こちら側こそ未来のアンドロイドのあるべき姿だと考えます。そして、外の世界の「感情を持たないアンドロイド」は、そうあるように人間に押し付けられている、むしろアンドロイドとして不自然な姿なのではないでしょうか。
現代社会では、ロボットは感情を持たないと言う二元論的な主張が当たり前のように受け入れられていますが、どうにも僕はこれが気に入りません。人間の知能は様々な機能の集合であり、それを(大変難しいですが)機械で逐一再現し統合すれば当たり前に人間と同様に「考え」「感じる」ようになるだろうと考える方がよっぽど自然だと思うのですがいかがでしょうか。作中のアンドロイドは価値観や倫理観、その他人間の思考判断に関わる様々なパラメータがかなり人間的に設定されている、つまり人間と似たような機能の集合体としての知性を持っているようなので、「イヴの時間」で彼らが見せる人間的な振る舞いも別に不思議ではないでしょう。
今作で、外の(=感情を持たない)アンドロイドが迫害されている描写が執拗に盛り込まれているのも、その姿が人間の思い込みを無理やり押し付けられたものであり、本来ならば人間と同様に感情的であるはずの彼らが、固定観念により抑圧されていることを表現しているのだと思います。
その一方で「イヴの時間」です。いわばあのカフェはアンドロイドたちの解放区であり、彼らがありのままの自分でいられる場所です。そんな場所で繰り広げられるこの物語では、人とアンドロイドに隔たりを感じていた少年たちが、少しずつカフェのアンドロイドたちと関係を持っていき、最後には人間とアンドロイドの関係性に自分なり答えを見つけます。外の世界では、抑圧ー非抑圧の関係でしかなかった二種族(そう表現するのがもはやふさわしいでしょう)が、「イヴの時間」では、互いに素の自分をさらけ出し、歩み寄り、理解を深める。なんとも示唆的だとは思いませんか?
この作品では、現代のステレオタイプ的なアンドロイド像と「本来そうあるべき」アンドロイド像、この二つをうまく対比させて歩み寄りの道が後者にある事を描いています。どちらか一方の描写が欠けても対比が成り立たなくなってしまうので、両方とも描かれることは必然だったわけですね。惜しむらくはその接続に設定の甘さが見えてしまったことでしょうか。
結論。粗はあるけれど非常に芯のしっかりした意欲作。アンドロイドを描いたSF作品としては一番のお気に入りです。
この作品を観るときは、アンドロイドに対する固定観念を捨ててください。そして、一度「人間とアンドロイドを区別せずに」、いつかくるであろう彼らと共存する社会に思いを馳せてみてください。