(500)日のサマー : 映画評論・批評
2010年1月5日更新
2010年1月9日よりTOHOシネマズシャンテ、シネクイントほかにてロードショー
技ありの演出に俳優も健闘。「自分の消し方」が頼もしい
若い男女が出会う。男は思いきり惚れっぽく、絶望的にロマンティックな性格だ。一方、女はきわめて現実的で、恋に恋する幻想などかけらも持っていない。それでもふたりは好意を抱き合う。化学変化も兆しはじめる。
となると、これはロマンティック・コメディの常道に見える。反発と屈折の数々にめげず、ふたりはたがいに惹かれ合い、最後にはハッピーエンドが待っている。え、本当に?
そんな疑問から出発するのが「(500)日のサマー」の面白さだ。いや、疑問ではなく確信である。なにしろ映画の冒頭には「ビッチ」の文字が鮮明に刻まれる。ここで笑った客は、すんなりと映画に乗り込めるのではないか。
男はトム(ジョセフ・ゴードン=レビット)という。女はサマー(ズーイー・デシャネル)だ。ふたりはグリーティング・カードの制作会社で働いている。トムはサマーに惚れる。そして、もちろん振られる。そこが(500)日という題名の由来だ。新人監督のマーク・ウェブは、「トムの記憶を通してのみ」サマーの姿を描く。しかも順序立ててではない。11日目の記憶のつぎは488日目の記憶。さらにそのあとは249日目。記憶のシャッフルにはなんの法則もない。
口でいうのはたやすいが、そんな脚本に応じて芝居をするのはけっこう大変だったはずだ。しかもこの映画は「甘い生活」や「アニー・ホール」と異なって、今風の若い男女が軽く戯れ、薄く交わるスタイルを取っているのだ。と考えると、「(500)日のサマー」には技能賞だけでなく敢闘賞も贈りたい気がしてくる。ロマンティック・コメディの掟をきれいにひねった脚本演出は当然技ありだが、若手俳優(とくにデシャネル)の「自分の消し方」には、思わず拍手を送りたくなった。
(芝山幹郎)