「人と人のつながりって?」空気人形 飲田燐さんの映画レビュー(感想・評価)
人と人のつながりって?
ひとと人のの希薄なつながり。TOKYOという名の都会では、過食症の女の子が吐きながらもものを食べずにはおれれず、自分の欲望と理性の間で闘っている。満たされない職場での虐げを甘んじて受けながらも、仕事を続けていく男。誰の手助けを得ればいいのかわからない空間で、”孤独”を生きている。それは認められたいというプライドと認められないという現実の絞め木に挟まれて悲鳴を上げる精神を、かろうじて飼い慣らして平衡を保っているような、いわば精神のマン・オン・ワイヤー。
そんなココロの慰めに、ひとと人との関わりを拒絶したオトコが買った”のぞみ”というダッチワイフとの暮らし。空気人形だから、自分のいう愚痴を何も批判しないで聞いてくれる。自分の欲望や優しさを、無条件で受け入れてくれる。そんな空気人形がココロを持ってしまった。
ココロを持ってしまった人形はウソもつく、恋もする。そのなかで自分のことも知る。性欲処理の代用品。初めての恋の相手、純一も自分を前の恋人の代用品としてしか見ていないのではないかという疑念と、こみ上げる切なさ。
そういう人々の生を、吉野弘「生命は」という詩が救う。
生命は
吉野弘
生命は
自分自身だけでは完結できないように
つくられているらしい
花も
めしべとおしべが揃っているだけでは
不充分で
虫や風が訪れて
めしべとおしべを仲立ちする
生命は
その中に欠如を抱き
それを他者から満たしてもらうのだ
世界は多分
他者の総和
しかし
互いに
欠如を満たすなどとは
知りもせず
知らされもせず
ばらまかれている者同士
無関心でいられる間柄
ときに
うとましく思うことさえも許されている間柄
そのように
世界がゆるやかに構成されでいるのは
なぜ?
花が咲いている
すぐ近くまで
虻の姿をした他者が
光をまとって飛んできている
私も あるとき
誰かのための虻だったろう
あなたも あるとき
私のための風だったかもしれない
星は自分自身ではどの星座に属しているか見えない。でも、見えないけれどある。
作品では、生まれてきた意味を肯定する。のぞみが人形師のところに行って返品され燃えないゴミとして処理を待つ人形たちにもココロがあるのじゃないかな、と呟く。そして、「産んでくれてありがとう」といってまたもとの町に帰っていく。代理品ではない自分の生き方を求めて。しかし、純一はその目の前で自殺をはかり、のぞみはそれを、純一が自分を救ってくれた同じ方法では救えないことに、ココロを持つがゆえに絶望する。
そして、自らゴミ捨て場へ・・・・。そこで自分の誕生日を祝うサプライズが行われる夢をみる。生まれてきてよかったのだという確認。
この映画は希望の映画だと思う。吉野弘の詩にあるように、生命は自らの中に欠如を抱き、他者にそれを満たしてもらうもの。ダッチワイフの持ち主がそうであったように。そして、のぞみが純一の心にとって風であったように。
しかし同時に絶望の映画でもないだろか。
この映画を見終わるとまず、他者のなかに空気人形を捜す。しかし、その行為はすぐに自分への疑念を向ける。
もしかしたら、このワタシはココロヲモッタニンギョウデハナイノカ?