空気人形のレビュー・感想・評価
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身体に空いた穴、つまりへそが性癖である
是枝裕和監督作品。
物体と人間の境界。
誰かの「代用品」である空気人形が、なぜか「心」を持ってしまう。それは不思議なことである。しかし労働力商品として資本主義社会の「代用品」である私たち人間は、なぜか「心」を持っている。その境界がどれだけ違うのかはよく分からない。そして後者を不思議と思わないことが、むしろ不思議である。
だからノゾミと純一は、同質さを感じるのだろう。物質で構成された身体と心の解離によって生じる空虚さによって。
ノゾミは身体に空いた穴から空気が抜ければ死んでいくし、息を吹き込めば生き返る。純一がノゾミの身体から空気を抜きたいと思うのは、希死念慮からであろう。そう考えると自殺とは、自らの心を抜き物体へ還す行為と言えるのかもしれない。ノゾミは純一と同質さを感じるが故に、身体の構成も同様と考えたため、純一の腹に穴を開ける。だがそれは純一にとって完璧な自殺であり、空虚さから開放された「幸せなこと」なのであろう。
しかし、である。私は自死を「幸せなこと」とは捉えたくないのである。「生きていること」を無条件に肯定したいのである。心は目で見えないし、身体が置かれている世界から疎外されて空虚さを感じることにもなる。だが目で見えない=不在と空虚は別のことである。
私は、ノゾミが好意を寄せる純一の息で身体を満たすことを幸せなことだと思う。そしてこれが「生きていること」を無条件に肯定するための行為だとも思う。私たちも自らの身体に絶えず息を吹き込むべきだ。誕生日ケーキに立てられたろうそくの火を消すように。それは誕生の肯定と捉えることができる。またその息は、「好きなこと」と抽象的にしか言えないかもしれない。だがそれは他者(性)を簒奪した物体にしてはいけない。とても難しい禁止だが、「人間」を「空気人形」にしてはダメなのである。
息は絶えず身体から抜け出し、空虚さが充溢していく。だから絶えず息を取り込み、「好きなこと」で満たしていく。この運動こそが生きることである。そしてそれは〈顔〉に現れていくのではないだろうか。本作では、空気人形が廃棄され戻ってきたとき、「幸せな人生」を歩んだかどうかで同じ物体なのに表情が違うことが述べられている。だからノゾミと純一が物体としてゴミ捨て場に捨てられる様は「美しさ」を感じる。しかしそれは人間が物体にならずとも人間のままできっと言える。生きている時にみせる〈顔〉に美しさが現れるはずだからだ。
人間の「心」のあり様が物体の〈顔〉に現れることは不思議なことだ。そう考えると物体と人間の境界は有機的なのかもしれない。だがそれを考えることができるのは人間のみだ。
ダッチワイフは愛されてる
ダッチワイフに心が芽生えました。
なんというピンクな設定!主演はペさん!
ズコーッ
なんでこんな糞映画になるのかね。こっから先はオレの妄想っちゃ妄想なんだけど、ダッチワイフに心が芽生えたら、私は性欲処理の代用品、なんてセリフ一発目に吐かねえだろ。普通(知らんけど)私めっちゃ愛されてるじゃん、と思うじゃね?(ほんま知らんけど)
もうこのセリフを聞いた時点で、ああメルヘンな映画になるんかあ、と思いつつ、いやいやまてまて、ペさんだし、がっちり脱いでくれてるし、まだまだあ!
ズコーッ
しょうもないメルヘンでした。
ペさんを脱がせた功績は大きいと思うよ。しかしペさんはアジアの至宝。なのにこんなつまらん映画で脱がせて、誰もヌ、いや喜ばんて。かといって見るも痛々しいセックスシーンを入れたり、話は変質者的に上から目線で人間語ったり、このアンバランスな感性はこの監督、ホモなんじゃないか、という失礼な印象までもってしまったぞ。
まあ、要するに面白い設定を上手く扱える監督ではなかったということか。
オレの感想はほとんど悔し涙だな。しかし韓国の90%の人は、オレのこの複雑な思いを分かってくれそう、と勝手に期待する。
うーん、やっぱり妄想先走りのオレが悪いんかなあ
別に節穴でも良かったけど・・の、代用の世界。 レビューというか、妄想。
傷穴を、開けたり塞いだりする映画だった。
“ 穴 ”を塞ぎたいと思うのは
《生命の発生・誕生と継続のため》の、動物のオスが負っている極めて原始的な、そして猛烈な欲動なのだが、
逆に、
生き物としての死=《終わり》の姿はどうだろうか、
その各所の “穴” は、もう塞がれたり埋められたりする役割はすでに終了し、
内容物が流出することによって腹腔も胸郭も潰れて凹んでゆく。
肺からも空気がすべて抜け出て、その人の呼吸は終わるのである。
寝かされている故人は、お布団をかけられていても、ご存じの通りぺっちゃんこだ。
溢死を図った人の、彼を生き返らせるための口移し人工呼吸の言語を絶した激しい様相を、僕は眼前で見ていた事がある。
ヒュルヒュルと抜け出て終わる人の空気と命を、もう一度膨らませんとする緊急行為だ。
かの旧約聖書の第一巻創世記には、「人類創造の神話」が独特の信仰的寓話の形で語られている。
・人アーダームは土くれアーダーマから作られた。
・神はその土くれの鼻穴に息ルーアハ=息,魂,を吹き込まれた。
・それによって人は生きるものとなった。とある。
あれは、神話記者の実感と実体験からの形容であり、人の生き死にを見てきた記者が表した「口移し人工呼吸」の始りかもしれない。
人は最初の呼吸で生きて産声を上げ、
最後の排気で終息する。
映画は、ビニール人形の破れ穴から命の息が抜け出てしまう様子と、
その破れ穴に息を充填しようと努める人間たちの姿が交互に映っていた。
・・・・・・・・・・・・・
古臭い映画だ。
人類は、今ではラブドールも空気人形も必要としない、特異な動物形態になってしまったから。
2次元アイドルに萌えた末には、今では
スマホと同居し、
スマホを妄信し、
スマホを愛して、
スマホと性行為をなし、
スマホと共についえて生涯を終える。
是枝監督の本作への着想は、風船型の「南極1号」がまだ製造されていた時分の、最後期の一瞬のものではないか。
その人間型ダッチワイフの終焉の間隙を縫っての、その一瞬を見せた彼の人間観察であったと思う。
しかし、もはやスマホが世の中を席巻し、スマホの機種変の波サイクルだけが人間たちの関心事である。
恐るべきことにそれは生物としての
本能をも超えて僕たちを支配する。
ラブホでさえ夢中になってスマホをいじる男女の「一コマ漫画」を見て、種の終わりを僕は感じた。
もはや主客逆転ですわ。
空気人形はいなくなり、
空虚人間しか生存していない明日が僕には見えるんですわ。
業田良家ワールドや、松本零士の 男おいどんは、あの特異性や例外性が目を引いていた。
僕は好きな世界だったが、あの四畳半漫画がデフォ化して世界を支配・侵食している様には、やはり残念感しかない。
日本ではナイフ殺傷事件が日を置かずに連発している。
意識感情を持ってしまったビニール人形が最初に行ったのは支配者板尾創路の唇を避ける行動だったわけで、
持ち主に反抗する=意のままにならぬ相手に対しては、支配者側に「殺意」が起こる=あのナイフ事件の様相については
まさしく現代の人間関係を映し出す、これは「人」の「形」についてのレポートなのだと思った次第。
もうひとつ感じたのは ―
人形を演じさせられていたのは“あたまのうすい、たどたどしい日本語をつかうかんこくじん”。
かんこくじんをビニール人形に仕立てて主役にすえるならば、日本人男児のお眼鏡には叶うらしい。それは男たちに従順で逆らわないからだ。
「片翼だけの天使」でも感じたちょっと嫌な光景だったが。
しかし
いつしか登場人物たちの心象が、このビニール人形に投影されて、
自分が空っぽで空虚な存在だと感じているそのような都会の住民たちに向かって、そのままに優しく息を注ごうとする、「是枝裕和的」映画作りの視線は温かなものではあった。
つまり、「みんな自分に空気入れながら頑張っていたよね」って、是枝裕和からの励ましの映画だから、ノスタルジックで、安っぽくて じんと来るのだ。
時代遅れで あざといからヒットもしなかったのだろう。
スマホがビニール人形の座を奪い、人間のその感情さえ奪い取ってしまう前の、小さなお話だけど。
いかんせん もう終わった古臭い話だけれど。
やっぱ是枝苦手
是枝作品は現実や日常を映してるようでいて細かいセリフ回しと演出がファンタジーで気持ちが悪い。
世間知らずのまま大人になったやつが撮ったってかんじ。
ダッチワイフのモノローグなんて入れるから得体の知れない雰囲気が中途半端になってるし、そのモノローグ自体も最悪。
なんだ、「私は性欲処理の代用品」って笑
行動言動に対してモノローグが飛躍しすぎて・・・
「感情持つのは切ないこと」的な部分もモノローグじゃなくて演出で分からせろや
一番伝えたい部分を安易に言葉にするってのが一番映画観てて萎える
商業に寄るにしても半端だし。
大多数が書いてるこの映画の気持ち悪い点は設定とかプロットの大枠でなく、細かい演出と台詞にあると思う。
登場人物の日常の病みのダイジェスト風シーンとか相当ヤバかったな・・・
ダッチワイフがテーマで主人公だからこそ、もっと板尾をはじめとしたダッチワイフの周りの人物にフォーカスして描くべきだと思うんだが。
それがないせいで全く誰にも感情移入出来ない。
ダッチワイフが感情持ってからの感情の変化も全然繋がらない。
なぜそうなったのか、なぜここに辿り着いたのかの部分の描き方が雑すぎる。
なぜこれが評価されるか全くわからないし、これが評価される映画界になってほしくなかった。
そうじゃないだろ、のオンパレードだった。
いい点としては板尾の演技が流石。
あと他是枝作品は共通して画作りは邦画の中でもかなりレベルが高い。
だからこそ序盤は期待したんだけどな
ところどころグッとくるセリフがある 人の心が宿っていくのがリアル ...
肢体美
ぺ・ドゥナの勇気と美しい裸身に感謝と感動。
惜しげもなく美しい裸身を映像に残して、記憶に永遠に刻まれた
ぺ・ドゥナ。
そのヌードは清楚で清潔感に溢れていやらしさは微塵もない。
のぞみという名前のラブドール(ダッチワイフ)は、ファミレスで働く
秀雄(板尾創路)の部屋で一緒に暮らしている。
ある日のぞみはベランダに手を延ばす。
手に触れる雨の雫。
「きれい!!」
そう感じたのぞみは、人間の心を持つ空気人形に生まれ変わる。
歩き方もぎこちないが、レンタルビデオ店のアルバイトとして
勤務を普通にこなす。
帰宅すると今まで通りの空気人形を演じている。
のぞみは何度も自分に言い聞かせる。
「私は性処理の代用品」
そう思っている。
その諦観がいじらしくも哀しい。
印象的なのは、空気人形が綺麗な瓶やガラス玉が好き。
街の中で生き生き伸び伸び歩く姿。
やはり秀雄は気づきもしない。
2人に心の繋がりは生まれない。
しかしビデオ店の純一(ARATA)の優しさには惹かれる。
ある日、脚立から落ちたのぞみの身体に穴が開いて、空気が漏れる。
たちまち萎むのぞみの身体。
純一は空気穴から空気を入れて、元通りにしてくれる。
お礼を言うのぞみに、
「俺も似たようなものだから・・・」
と言う。
似たようなもの?
純一も空気人形?
そう誤解するのぞみ。
のぞみは純一に恋をする。
やがて、のぞみが心を芽生えたことが秀雄にバレる。
「面倒くさい・・・今までの方がいい」
秀雄は呟く。
やがて新しいラブドールを買って来て、ベッドで添い寝する。
居場所を無くしたのぞみ。
純一の部屋に行くと、
「ひとつだけ頼みがある」
「空気を抜かせて」
純一がのぞみに空気を入れるシーンはエロティックだ。
そうだ純一の空気も抜いてみよう!!
純一は血を流して死んでしまう。
彼は空気人形では、なかったのだ。
結局は誰からも人間扱いされない空気人形。
のぞみは心を持って幸せだったのだろうか?
人間の心を持った「ピノキオ」のラスト。
ディズニー版のピノキオは
「信じれば夢が叶う」
人間に生まれ変わり、幸せに暮らします。
しかし原作では、最終的に
ピノキオは木に吊るされて悲惨な死を遂げる。
ゴミ捨て場に横たわる
空気人形の脳裏に最後に浮かんだのは、
知り合った人々全員に囲まれて、
バースデイ・ケーキの蝋燭を吹き消す
幸せなシーンだった。
吉野弘「生命は」
セックスドールが心を持ったことで始まる物語。
どうせシャレオツ素敵映画でしょ、と見くびっていたので、見くびり→衝撃の度合いで行けば、「プラダを着た悪魔」以来。これはなかなかどうして、すごい映画でした。
文字通り、人形と見紛わんばかりの完璧な肢体を曝すペ・ドゥナは、心を持つことと引き換えに、性欲処理の道具である、中身は空気で空っぽである、何かの代用品である、など、自我についての根源的な苦悩を抱える。
だが、それは何も彼女に特異的なものではないことを示すように、中身が空っぽな人物達が脇で細かく描写されていく。そして、様々な出会いによって彼女の自我が徐々に確立されていくが、事態は思いもよらぬ方向へ発展していってしまう。
映画史上、最も美しいと評されるラブシーンは、エロティシズムの変態性を実に艶っぽく、それでいてただの助平ではない領域にまで引き上げて、描いている。お見事の一言に尽きる。
ペ・ドゥナは言わずもがな、美しく可愛らしいが、彼女の存在そのものを肯定し得るARATAの演技が素晴らしい。岩松了は相変わらずいやらしいいい演技をする。
作中登場する以下の詩が、本作の全てを物語る。少し長いが引用する。
***
「生命は」吉野弘
生命は
自分自身で完結できないように
つくられているらしい
花も
めしべとおしべが揃っているだけでは
不充分で
虫や風が訪れて
めしべとおしべを仲立ちする
生命はすべて
そのなかに欠如を抱き
それを他者から満たしてもらうのだ
世界は多分
他者の総和
しかし
互いに
欠如を満たすなどとは
知りもせず
知らされもせず
ばらまかれている者同士
無関心でいられる間柄
ときに
うとましく思えることさも許されている間柄
そのように
世界がゆるやかに構成されているのは
なぜ?
花が咲いている
すぐ近くまで
虻の姿をした他者が
光りをまとって飛んできている
私も あるとき
誰かのための虻だったろう
あなたも あるとき
私のための風だったかもしれない
***
正直、是枝作品で唸るのは悔しいが、すごい作品だと思います。
鑑賞後のやり場のない空気感に何十年も付き合うことになった。
綺麗な人形と東京の原風景
エロィ、そして切ない。
空気人形ちゃあ、アレしかないじゃないですか(;゚∀゚)=3ハァハァ
したら、案の定アレのお話じゃないですか(;゚∀゚)=3ハァハァ
『ごっつええ感じ』で即興の歌を奏でることで大好きになった板尾創路さんご出演じゃないですか。
東京~ぉ♪コミュニケ~ショ~ン♪
人見知りするか~い♪
海開きのシーズンだぜ~♪
俺は泳げないけど~♪
ですよ!板尾さんと言えば!(な…なにを言ってるのかわからねーと思うが…のポルナレフ状態ですよね…)
そうそう、映画のお話でしたよね。
エロィの。ARATAさんが人形に空気吹き込むシーンが。
あれって、モロにセクロスを暗喩していますよね。
して、ペ・ドゥナさんの無機的な面持ちが、人形という設定にドンピシャとハマってたの。
生まれてしまった感情に戸惑うところの描写が秀逸なのよん。
ラストは、かなり寂しくて切ない気持ちにになちゃったのよん。
欲を言えば、板尾さんの出番をもっとプリーズだったかな。
ちなみにレビュワーはお人形使うよりも、お人形のような服着たいのよん。
リカちゃんとか。ジェニーちゃんとか。
↑
また、そこに落とすか…(^_^;
何だかきれいな作品でした
プライム・ビデオ鑑賞
是枝作品でしたが当時あまりピンと来なくスルーしてました。
先日たまたまプライムで見かけたので観てみることに。
心を持ってしまいました、この一言に尽きる物語。
主演のペドゥナが実に良く、彼女の魅力に溢れています。
日本語が上手で、その纏った透明感がとても魅力的でした。
是枝作品の色使いもあるのでしょうが、何故かいやらしい感じがなく儚げですらある。
また個性的なキャスティングも面白く、しっかり皆で支えているようでした。
そしてWEGの音楽がものすごくあっていましたね。
監督にしては珍しくファンタジックな作風で、しかし孤独がテーマ。
だからかどうしても寂しさが残ってしまうのですが、何だかきれいな作品でした。
命とは、綺麗な心かも知れない。
内容は、ピノキオの様に人間に渇望されることにより心を持ってしまった空気人形🧜♀️の話。童話と詩歌を織り交ぜた映像に凝った作品で面白かった。原作の漫画は20ページと短いが、是枝監督の作家性が溢れ出して物語を醸し出している全く別物の映像作品。何と言っても主演の韓国人女優の凄さには驚かされます。登場している役者にも全て繋がりがあり、考えずに見ていると面白さが分からないので好き嫌い分かれるかも知れません。持ってはいけない心を持ってしまった人形と持ってはいけない無関心を持ってしまった人間の対比で描かれる優しくも残酷な世界はキレイなのかもしれません。最後の空気を入れ合う暴力的な場面は優しくもキレイでアラタの自業自得が表現され腑に落ちた。アラタは無意識に相手を痛めつける性癖があったのだ。そして最後のゴミ置き場は自分の死と再生の儀式で解っていたが胸につまされ良かった。原作の短編漫画をここまで膨らませる作家性に嫌悪と尊敬の念を抱く作品。是非観て見ては如何でしょうか?!
代用品
空気人形(のぞみ)
性欲処理の代用品ラブドール
何時しか心を持つようになって町で人と出会い
人と植物色々な事に関心を持つようになる。
雨垂れに手をかざすところから人間になっていく
音と共に不思議な描写に惹きつけられる
雨垂れをキレイと言った瞬間人形に心が吹き込まれる
空気人形を通して生きている世界は
代用品で担っていること
映画の代用品はレンタルビデオ
正社員の代用品は派遣社員
教員の代用品は代用教員
まさしく代用品で済んでしまう世の中
お前じゃなくても代わりはいるからと
人を物として扱ったら終わりです
また。人間は植物は生きているものには終わりがある。植物は枯れてそして種を残して新たな芽がでてくる。(そこには虫たちの助けもある)代用品があっての世の中 そこには空っぽな虚しさも。ラムネの空ビンを持ち帰るところは中身のない
空き瓶を
自分と重ね合わせていたのかもしれない。
新しいラブドールが置かれていた
自分は代用品 最後はごみに捨てられる
虚しいけどポエムの様な詩と音楽が相まって
メルヘンな感じの世界観が好きです
韓国女優ぺ.ドゥナの純粋な可愛いらしさが光る
たくさんのメッセージが込められている
人も人形も空っぽの心を持っている
哲学的で難しい
人形が心を持ったことで、恋をし、また自分の存在を悲しみ、製作者に会いに行くが、悪いことばかりでなく、良いこともあったことに改めて気付く。しかし、愛する人との愛情表現のすれ違いから、腹を裂き、殺してしまう。そして、ごみ捨て場で空気を抜き、死んでいく。悲し過ぎる。救いがない、そんな世の中なのだろうか。ペ・ドゥナは本当にお人形さん?という位スタイルが良く、表情も素晴らしかった。寂しい独身中年男を板尾が怪演。アラタは何がしたかったのだろう。生死をかけた究極の愛情表現なのだろうか。しかし、自分はかけてないわけだから、卑劣な気がする。むしろ愛情を毎日かけていたことによって人形に心を持たせた板尾の方が好感持てる気がするが、本人が望んでいなかったのは驚きだし、これが現代なのだろう。
【”人は何かに依存して生きている・・” ラブドールに心が宿ったファンタジックな設定だが、ココロに響く滋味深き作品。】
ー10年以上前の作品ではあるが、今観ても、全く色褪せていない事に驚く作品。
当初は、”随分、冒険したなあ、是枝監督・・”と思ったのだが、ラブドールを演じたペ・ドゥナさんの”心を得てからの”たどたどしい日本語の呟き
”私は、ココロを持ってしまいました・・”
”ココロを持ったので、嘘をつきました・・”
と言う言葉が、妙にココロに響くのである。
付け加えれば、ペ・ドゥナさんのたどたどしい日本語が、ココロの無かったラブドールが急にココロが宿った現実についていけないたどたどしさとの、見事なシンクロ度合いにも引き込まれた。ー
■印象的なシーンと少し心中で突っ込んだシーン
・レンタルビデオ屋の店員(ARATA:この頃は是枝組の常連であった)に恋したラブドール、のぞみが一緒にレストランに行った際に、隣の席のシングルファーザーが娘の誕生祝をするシーン。”誕生日って皆、アルンデスカ・・”
・望みの所有者(板尾創路)が、ココロを持ったのぞみの姿の変化に気が付かない事。
-当初、鑑賞した際には心中で大分突っ込んだ・・。我ながら、大人げない・・。未だ尻に蒙古斑がある若造だったなあ・・。-
・公園で老人が蜉蝣の話をするシーン。
”空っぽだけれども、卵はあるんだ・・。私はもう空っぽだ・・。周りにもそういう人間はいるよ・・”
-今観ると、生命についての深い会話である。-
・ビデオ屋でアルバイトを始めたのぞみが、棚整理の最中、落下して空気が抜けるシーン。ARATA演じるビデオ屋の店員が恥ずかしがる彼女の空気口から人工呼吸の様に空気を吹き込むシーン。のぞみの頬が紅潮している・・。そして二人は抱き合う。
・過食症の女性や企業の受付嬢が様々なストレスを発散する方法。
・度々、ペ・ドゥナさん自身の声で流れるモノローグ
”私は空気人形。性欲処理の代用品・・”
・自分を作ったラブドール製作者(オダギリジョー)の元をのぞみが訪れた際の二人の会話。
“お帰り” ”ただいま・・”
そして、廃棄品になったラブドールの表情に付いて語る製作者の言葉。
”ちゃんと愛されると、表情に出るんだよ・・”
のぞみの言葉 ”生んでくれて有難う・・”
-ちょっと、涙腺が緩む。-
・レンタルビデオ屋の店員の願いを聞いての、血まみれの情交シーン。そして・・。
過食症の女性が久しぶりに窓を開けて、下を見た時にゴミ捨て場に捨てられた望みを見て発した言葉。
”綺麗・・”
<近作品は、久方振りに見たが、奇想天外な設定を自家薬籠中の如く、見事な映像作品として成立させてしまう是枝監督の手腕には,唸らされるばかりであった・・。>
<2011年ころ、DVDにて鑑賞>
<2020年8月29日 別媒体にて再鑑賞>
全80件中、1~20件目を表示