ダウト あるカトリック学校でのレビュー・感想・評価
全27件中、21~27件目を表示
「疑惑」が「確信」に変わった瞬間
映画「ダウト−あるカトリック学校で−」
(ジョン・パトリック・シャンリィ監督)から。
舞台は、1964年のニューヨークにあるカトリック系教会学校。
ほんの些細な言葉から、ある「疑惑」を抱いたシスター・アロイシス。
それが、段々、心の中で広がって最後には「確信」に変わる。
「疑惑」とは、
本当かどうか、不正があるのではないかなどと疑いをもつこと。
「確信」とは、固く信じて疑わないこと。また、固い信念。
「勝利を確信する」「確信をもって言う」などと使われるのだが、
その2つの間には「妄想」があるはずだし、
「真実性を疑うこと、確信が持てないこと」の意味で「疑念」があったり、
自分の考えが正しいと思える証拠を見つけ「自信」が芽生えたりする。
そして、多くの状況判断から「確信」へと変わっていくのが、
人間の心の動きだと思うのだが・・映画では残念ながらそこまで語られない。
今回は、誰が何といっても考え方を変えないわよ、という
「堅い信念」みたいなものに感じられた。(それが「確信」なのかもしれない)
私も、実はその違いがうまく説明できないのだが・・
「疑惑」が「確信」に変わった瞬間を、理解できなかったので、
やや、消化不良に終わってしまったのが、残念である。
主演の「メリル・ストリープ」と「フィリップ・シーモア・ホフマン」が、
お互いを罵倒し合うシーンは、
大きなスクリーン、大音響で観たのからかもしれないが、
その勢いに圧倒されたことを付け加えておきたい。
演技とセリフがつむいだ緊張の糸から描かれたもの
メリル・ストリーブ、フィリップ・シーモア・ホフマン、エイミー・アダムスという名優三人の、丁々発止の演技の火花が緊張感をもたらしたこの作品は、実は、まるではっきりとしたものを観客にも見えてこない、「ダウト」というより「ダーク」というタイトルのほうが向いているようにさえ思えるものだった。ところが、そのダークさこそが、この作品の魅力なのである。
フィリップ演じる教会の司教が、子どもを性的虐待しているのかどうか、その一点に疑惑をもった教会付属の学校長のメリルの追及がこの作品の核なのだが、最後までその疑惑に結論は出ていない。それでもこの作品が魅力的なのは、感情と理性とが真っ向から対立する、人間性そのものに踏み込んだ内容にある。
メリル演じる学校長は、人、特に男性を信用せず、司教の先進的なやり方に不信感を抱いている。その不信感が、司教が個人的に子どもを呼び出した、という事実だけで最高点となり、一気に司教を追い詰めようとする。そのシーンでの、不信のみでしか人を見つめない人間同士のかけひきは、背筋が冷たくなるくらいの張り詰めたものを観る者に感じさせる。しかし、だ。その不信感だけで人を見る、というのは、我々でも普段やっていることではないか、と思うと、とても映画の中だけですまなくなってくるのだ。
人の行動とは、実際は個人しかわからないものだ。だからこそ、ひとつの行動に疑いをもつと、人への疑いは限りがなくなる。そのおかげで、離婚や仕事場の揉め事はあとを絶たない。この作品は、その人が人を信じられなくなる瞬間がものの見事に描かれているゆえに、登場人物の行動やセリフひとつひとつが、とても興味深く、疑いの眼差しだけの表情に、自分自身を見ているような魅力が感じられる。
不信感を募らせた学校長は、ラストに思いもよらない表情を見せる。その様子に観客すらも愕然としたとき、人に疑いをもつことと、人を信頼することの難しさにもあらためて気づかさせられる。この作品は、とても人間らしい人間を鋭く描いてみせていることで、高く評価されていいものだと思う。
『クイーン』のエリザベス女王を思い出す。
「あまり期待しないほうがいい」と言われ、期待しないで観たら
すごくよかった★★★★★
暗い画面だし、寝そうかと思ったら、全然眠くならず。
一緒に行った友達は、そうでもなかったと・・・。
みんなの演技がすごかった!
メリルVSフィリ・シーの対決は特にすごい。
メリルと黒人母の歩きながら話すシーンはせつない。
******
厳しい校長を演じるメリル・ストリープは
『クイーン』のヘレン・ミレンを思い出させる。
高潔で厳格な性格は、誤解を受けやすいものです。
彼女はすごくヒステリックでどうかと思うところもあるけど、
誰かが厳しくないと秩序を保つのは大変だし、
大切なものを守るためには、何かを犠牲にすることも厭わない。
基本的には、人の意見をきちんと聞くし、
やさしい人だと思う。全て良かれと思っての行動。
最後のシーンは涙なしには見れません。
『マンマ・ミーア』で踊り歌い狂ってた人と同一人物とは
思えません。やっぱりすごい女優かも。
********
フィリップ・シーモア・ホフマンも相変わらずすごい。
憎たらしい神父役がぴったり。
彼の教会での語りは、すごくよい。
冒頭のかたり「疑惑」では、つらい時代では、みんながその気持ちを共有でき、
絆が生まれる・・・
確信がもてない時、あなたはどうしますか?・・・など。
「不寛容」では噂を信じて枕を切り裂く女の話が絶妙。
彼が着ている神父服は坊主の正装に通じるものがあるなぁ。
『カポーディ』『mi3』などクセのある役がピッタリだなぁ。
***********
新米シスター演じるシスター・ジェイムズも良かった。
一番共感した。純粋すぎる新米感に共感。
シスター・アロイシスに「自分が楽になるために、本当は疑惑があるのに
信じるんですか?」というのは図星だなぁ。
********
黒人母役のヴィオラ・デイビスは切ない。
「なにかあっても6月まで」。
学校で唯一の黒人の息子がいろいろ苦難があるのは知っていても、
将来を考えると我慢させるしかない。
そんなのひどいよ!と思うけど、仕方ないのかもしれないなぁ。
せつない。。。
*****
ダウト~疑い
何が真実で、何が真実でないのか・・・
難しい問題。
ちょっとした事で誤解を受けることもあるし、
誤解をしてしまうこともある。
誤解を受けない行動と、誤解を受けてもそれを覆せる生き方を
していきたいものです。
*********
シスターたちの静かな食事と牧師たちの堕落した?食事の対比は
いろいろなことを表していた。
子供たちがボサノバ踊るのがかわいい。
子供がキラキラ女教師眼鏡をしているのもかわいい。
日曜の朝にミサがあるのは、よい風習だなぁ。
早起きするし、きれいな服着るし。
*********
ネタバレ
男性が好きなのは良いけど、子供はダメ。
あの男の子には、別のやり方でみんなになじめるようにするべき。
なぜシスターたちは、もっと彼を気にかけてあげなかったのかなぁ。。。
*****
2009/4/1映画の日のチネ1(107席)はほぼ埋まる。
D3は観やすかった。A~Cは傾斜がきつく首が痛くなりそう。
混沌に目鼻を入れない勇気
少し前に、娘を殺された父親が異様な強面でマスコミにもどこかトゲのある態度で対応していた事で、ワイドショーなどがその父親を完全に犯人のように扱っていた事があった。
管直人の年金未納問題でも、役所による(おそらく意図的な)誤報を受けワイドショー、ニュース番組による大バッシングが行われ、結局党首を辞任する事になった。
『気に入らない』というような感情を論理にはき違える人は今も昔もいて、『疑惑』と言いながらまるでスペイン宗教裁判じみた“推定有罪=有罪”の判決を下しリンチにかけるのである。
「ダウト」で描かれているのは正にそういった人間の醜い猜疑心である。
しかし、果たして“そう”判断する事は正しいだろうか?この映画には通り一遍に判断の出来ないワナがしかけられている。
細かな描写や演出は本編で確認してもらうとして、登場人物の名前に注目すると面白い事に気付く。
メリル・ストリープ演じるシスター・アロイシアス。
「アロイシアス」とは英語圏では男性の名前として認知されており、16世紀イタリアでは『学生の守護聖人』の名前であった事でポピュラーだそうだ。
フィリップ・シーモア・ホフマンの「フリン神父」
最も有名な『フリン』はモノクロ時代の映画スターのエロール・フリンになる。彼は幼少期からヤンチャ坊主で青年になってからも警察沙汰になること数知れず、俳優になってからもレイプ事件で訴えられたりアル中になったりとダーティーなイメージがまとわりつく。
そして、エイミーアダムス演じる「シスター・ジェイムス」はキリストの使徒「ヤコブ」を語源とし、あらゆる教派で『聖人』とされる尊敬される名前であるらしい。
日本で言うなら『良雄』というシスターが『悪夫』という神父を毛嫌いし、「太郎」という若いシスターがそれを悲しく見つめる。っという風景になるだろうか?
見た目やイメージも判断の基準になるだろうが、独りよがりな価値観をゴリ押しする事は他人を不幸にする。この映画で明確に言い切れるのはそれくらいで、あとは自分で判断して決めなければならない。
この映画は漠然とせざるをえない事に、無理やり明確な“形”を与えない勇気の尊さを描いているのかもしれない。
傑作。
登場人物の演技に感嘆した!
何でも舞台ではその4人しか登場しないそうだが、4人ともアカデミー賞にノミネートされた映画「ダウト」を観てきた。残念ながら受賞者は出なかったが、見出があった。まず、メリル。「マンマ・ミーア」のドナと同一人物とはとても思えない。一見、嫌味で怖いだけの権威主義者ながら、その実、年老いた、目が不自由なシスターをフォローするなど複雑な役柄を圧倒的な演技力で演じ切る。そして、フィリップ。白か黒かわからない、進歩的な神父をいつもながらのいやらしさを感じせて演じている。ヴィオラ。わずかのシーンながらあのメリルを食ったとも言わしめた圧倒的な存在感。すごい。何より、私が驚いたのはエイミーだった。「魔法にかけられて」しか知らなかったので、あんな演技ができるとは思わなかった。お姫様役では、年増だけど歌が歌えるから、抜擢されたんだろうくらいにしか、考えていなかった。でも、この作品では魅せられた。ただおどおどしているだけの若いシスターだと思っていたら、校長と神父と3人の面談の最後で、校長に自分の意見を忌憚なく話すところは圧巻だった。彼女の実力を垣間見た気がした。内容についても、なんとなくイラク戦争の発端を象徴しているようで、興味深かった。
流石はM・ストリープ様、あなたにゃ誰もかないません!
M・ストリーブ様にはいつもやられてしまいます。
「プラダを着た悪魔」の鬼編集長は圧巻だったし
「マンマミーア」では、そんなことまでできるの!と
感嘆させられました。
今回の「ダウト」はどちらかと言えば、
はまり役の部類だと思うが、
それを見事に演じきっておりましたね。
一見厳格過ぎて生徒からは嫌われている
カトリック学校の校長役で、
あなたは、進歩的で生徒にも慕われているものの
立場の弱い男子生徒と不適切な関係を持ったと思われる
フリン神父を追い詰めていく役どころです。
その追い詰め方は、青白い炎を連想させる凄まじいものでした。
私自体は、
エイミー・アダムス演じるシスターの立場になりきっていました。
疑惑の中、この厄介な問題を何処まで荒立て
どのように対処すべきか。
どうしてそこまで確信を
信念をもてるのか。
こんな、自信と信念に満ち溢れた役は
メリル・ストリープ様、
あなたにしか演じられないだろう、と思います!
メリル・ストリープが、『マンマミーヤ』と同一人物には全然見えないキツ~イ校長先生になりきってました。
メリル・ストリープが演じる厳格でストイックなカトリック学校のシスター・アロイシス役が、ドンぴしゃはまって、『マンマミーヤ』と同一人物には全然見えないキツ~イ校長先生になりきってました。
のど飴を持っていても、飴はこころが汚れる元となるからと没収してしまうくらいやや理不尽で、ヒステリックな校長先生だったのです。そのあらゆることにおいて疑惑の目で
さてドラマが本題に入る前に、このアロイシス校長の教条的な生徒指導路線に対して、教会の司祭フリン神父は、ストイックな因習を排し進歩的で開かれた教会を目指していたことがポイントとなります。
ドラマの山場で二人が激突するまでは、不思議と二人は対立しません。しかし、二人の日常を対比させながら展開されるストーリーによって、司祭と校長の矛盾した立場が次第に鮮明になっていきます。
決定打は、司祭が侍者役に選んだ黒人生徒ドナルドが酒気を帯びて教室に戻ったこと。 司祭はドナルドが祭壇用のワインをこっそり飲もうとしたこと庇おうして、穏便に教室に戻しただけだ説明します。しかしアロイシスは、ドナルドの母親ミラー夫人から彼が性同一性障害を抱えていることを知ります。そこから一気に司祭とドナルドの「不適切な関係」を確信してしまうのです。何の具体的な根拠もなく。
もうこうなったらいくらミラー夫人が司祭は息子を思ってくれただけだと、アロイシスは全く聞く耳がありません。
校長室に激高したフリン神父が乗り込んできて抗議しても、彼女は揺るがぬ自信を持っても司祭に自認を求めるのでした。
ふたりの信念をかけた応酬は、このドラマの最高の見せ場でした。約15分間にわたって演技とは思えない激しさで、アロイシスは司祭に詰め寄ったのです。会話劇としては、フロスト×ニクソンに甲乙付けられない完成度の高いシーンであったと思います。
アロイシスは、ここで聖職者にはあるまじき禁じ手を使って、司祭を追及してしまいました。潔癖症の彼女が、いくら神の正義の実現のために、禁じ手を使うとは驚きでした。そして、その罪の深さに突如泣き崩れるのです。
あれだけ強固な信念で、司祭を裁き通してきたのに、今更ながらと言うタイミングで、自分の信念に疑惑を抱いて弱さを見せしまう、微妙な心理描写に感動しました。鳥肌が立つくらいメリル・ストリープの凄い演技であったと思います。
この物語で語られる疑惑は、観客にもサスペンス風に投げかけられます。しかし、本当は何が真実で、司祭と校長どちらが正しいか全く明らかにされません。疑惑のままに見る観客に委ねられているところが巧みです。
監督がこのストーリーに提示したテーマは、『人間は確信を持つことなど出来ない』ということでした。まさにいろいろな意味で確信が持てないストーリーに仕上がっています。
それは、このドラマの時代背景となっているケネディ暗殺直後のアメリカ国民の虚ろな気持ちに加えて、不況に喘ぐ現代のアメリカ国民の気持ちを代弁しているのではないでしょうか。
けれどもフリン神父は冒頭でこう語ります。ケネディ暗殺という絶望感が人々を結びつける強力な絆になったと。そして疑惑というものが強力な絆となることを。救いに近づくことを。
フリン神父の考えは、親鸞聖人の悪人正機説に近いものと思いました。本来確信など出来やしないのに、自分は善人だと思い込んでしまって人を裁く人の心というものは、実は不安で一杯なんです。アロイシスのように。
偽りの善の気持ちで人を裁く自分は、ひょっとして悪人ではないかと疑惑を持つことで、やっと無謬であらればならないという強迫観念から逃れることが出来るわけですね。
信仰の道は、とかく神仏の正しさを潔癖に求め勝ちです。しかしそのストイックな求道心のなかに、『罪を許すこころ』も宿す必要があるでしょう。
アロイシスの厳しさを見るにつけて、人が許せないという気持ちは、詰まるところ自分が許せないからなんですね。
最後に、終盤の二人が対決するまでがやや単調で、眠くなってしまいました。
もう少しアロイシスが疑惑を深めていく過程ばかりでなく、フリン神父の怪しげな行動など織り込んで「不適切な関係」を観客にも直接感じさせてもらったほうが、緊迫感が高まるのではないかと思いました。
全27件中、21~27件目を表示