レスラー : インタビュー
「π」「レクイエム・フォー・ドリーム」のダーレン・アロノフスキー監督が、ミッキー・ロークを主演に、落ち目の中年プロレスラーの哀しくも美しい人生を描いた話題作「レスラー」。昨年の第62回ベネチア国際映画祭での金獅子賞受賞のほか、ゴールデン・グローブ賞主演男優賞受賞など数々の賞に輝くなど、本作で見事に復活したミッキー・ロークに話を聞いた。(文・構成:編集部)
ミッキー・ローク インタビュー
「今、このポジションにいるってことを、本当にラッキーだと思うんだ」
──昔の自分に戻った感じがしませんか?
「昔の自分!? とんでもない、戻りたくなんかない。絶対にゴメンだ。ノーだよ!」
──でも、名声は戻ってきましたよね。
「14年も経ってね。なんて言ったらいいかわからないんだ。“カムバック”した気分は、と聞かれると、“カムバック”を辞書で引いて、ちゃんと定義してくれと言ってやるんだ。サンドイッチを食べに戻ってくるのもカムバックなら、イラクに行って片脚を失くして帰ってくるのもカムバック、仕事に復帰するのもカムバックだろ。みんな意味が違う。オレの場合は14年かかった。幸いなことに、オレを認めて味方してくれる監督がいて、オレのためにとことん闘ってくれた。金儲けに“ノー”と言ってくれたために、かつかつの予算を余儀なくされてね。
オレの4倍は金の集まる俳優よりオレを信じ、その俳優に代えてオレを起用してくれた。そんな監督のためだったから、オレが久しくしてなかったことをしたのさ。オレの全てを賭けること。学生の頃、なぜ、自分の能力の許しうる最高の役者になりたかったのかを思い出した。すごくいい気分だったからさ、とことん全力を尽くすっていうのは。誰かがオレを信じ、リスペクトしてくれたって、たったそれだけの理由からね。監督はオレの信頼とリスペクトを勝ち取った。オレも彼の信頼とリスペクトを獲得した」
──この作品はあなた自身のストーリーと重なる部分がたくさんありますよね。
「これは本当に偶然なんだ。オレ自身の人生にここが似てるとかあそこが似てるとか確かによく言われるよ。オレは“そうかもね”とか答えながら、恥辱でいっぱいになって、つい渋い顔になってしまう。でもその反面、役をもらってホっとしたんだ。自分がもう落ちぶれた、大成しなかった役者だということを思い知らされ続けていたから……。でも、オレは静かにさっさと消えてしまうつもりなど毛頭なかったんだ。オレのエージェントが仕事を捜してくれてた時、あるスタジオが“うーん、彼はいい役者だけど、自分でチャンスを全部、台無しにしちゃっただろ?”と言ったらしいんだ。やつらの言い分を要約すれば、そういうことだったのさ。当時、オレはまだ若くて、プロフェッショナルであるとはどういうことか、てんでわかってなかった。責任を取るとか、自分の行動がどんな結果を招くかなんてことにはハナも引っ掛けなかった。そういうふうに育ったというのも大きな理由だろうけど、ハードな面は自分で意識的に育てたふしもある。精神的にも、肉体的にもね。
オレは14〜5年前に、全てを失ったんだよ。家も、妻も、金も、キャリアも、自尊心も失くして暗闇の中に立っていた。暗闇の中で、鏡の中の自分の姿を見つめて、“こんな自分にしたのは誰だ!?”とね。雷光の中をよろめくように歩いていた晩、稲妻に照らされて、鏡に映った自分の姿をふと見てしまい、赤ん坊のように泣き叫んだ。“こんなにしたのはこのオレ自身だ!”とね」
──周囲に助けを求めることはなかったのですか?
「“立ち上がれ”と言ってくれる人がいた。だから、なぜ自分が自己破壊に走るのかを理解するまで助けてくれる人を捜しまわったんだ。なぜそういった行動をとってしまうのか、あらかじめ決まっていたかのように、得たものをすぐさま破壊せずにいられない。まるでそれを待っていたかのようにね。自分の中で何かが爆発してしまうんだ。でも、これは避けられないことだったんだ。
これは、ずっとルールというものを自分の信条として持たなかったせいで、オレの目には全てのものが権威と映ったからなんだ。要するに、オレには自分を強く恥じる気持ちがあり、その問題を隠すために肩を怒らせて、『強くてタフな男』を装って歩き回っていたってことらしい。そのほうが、自分が取るに足らない、ちっぽけなヤツだと感じるよりずっと楽だからね。
そんな自分をオーケーだと認めて、鎧を脱ぎ捨てる必要があった。医者が、“あなたの鎧は強固で、しかもすごい量ですね。でも、戦いなんかもうどこにもないんですよ。200年前に生まれてたら使い道もあったのに、残念ながら、今の世の中では使えないんですよ。現代の世の中で、そのままで生きていくのはとても無理ですよ”とか言ってたな。せいぜい1年か1年半かそこらで変われると思ったんだけど、10年以上かかったね。5〜6年ボクシングをやって、役者に戻ったけど、8年間ほど仕事がほとんどもらえなかった。それはオレ自身の態度が災いしていたということは100%認めるよ」
──ランディはリング上で死んでも良いと覚悟し、試合に臨みます。あなたにとって、リングにあたる場所はスタジオということになりますが、自分をランディと重ね合わせ、演じるというより、自分のことのように感じたりしましたか?
「脚本を読んだ時点で、ランディは確かに自分と似ていると思ったけど、自分、すなわちミッキーはとても幸運だと感じたんだ。オレは、貴重な助言をくれる人たちに、コンタクトしようと思えばできる立場にいるからね。進むべき方向とか、アドバイスとか、どのように理解すれば良いのかとか……。
脚本を読んだ時、ランディはそういったアドバイスをもらえない立場にいるんだとわかった。自分の絶頂期はすでに過ぎてしまったんだということが理解できるような生き方をしていない。それほど彼は知的ではないし、ラッキーでもないし、教育も十分受けていない。生き残りたければ、自分の方が進化し、変わって、自己改革し、残された日々をきちんと見据えて、それに備えなければいけない。でも、彼にとってはリングのライトの下、それが全てなんだ。ライトの下にいるほんの短い時間だけがね。でも、ライトはいつか消されてしまう。
この映画は普遍的だと思うんだ。フットボール、ラグビー、テニス、いろいろなスポーツの選手みんなに、その瞬間はやって来る。バスケットの選手にもね。歳をとったなと思う瞬間が必ずやってくる。それは31歳かもしれないし、33〜34歳かもしれない。サヨナラと手を振られて、他のチームに安く売り飛ばされたり、もっと若い、強い、速い選手に取って代わられる。選手生活を送ったことのあるヤツならみんな、この映画の登場人物たちの経験に共感できるはずさ。彼らはパフォーマンスを向上するクスリなんかを常用して、全盛期の頃の鋭さを取り戻そうとしたり、平然と、絶頂期の栄光がまた戻ってくるのを望んでいるけれど、パーティーはもうお開き寸前なんだ。それが現実なんだよ」