「いい女だなあ」それでも恋するバルセロナ mitanimakiさんの映画レビュー(感想・評価)
いい女だなあ
「やっぱり、女は胸がデカくなければ!」
ふだんは特に思ってないけど。
スカーレット・ヨハンソンとペネロペ・クルスという、二大“ムネが大きくて美しい”女優の姿を見せつけられては、こう思わずにはいられない。
たんにムネが大きいだけじゃなくて、顔も全身も、すみずみまで女っぽい。
ああ、なんてきれいで素敵なんだろう、ふたりとも。
ウディ・アレンは、この美人ふたりをただただ見ていたかったから、この映画を撮ったんじゃ、ないの?
やっぱり、女優たるものは、演技力は当然としても、きれいでなければ!
ストーリーは軽くスピーディーに運ぶ。
根っから女好きの画家フアン・アントニオ(ハビエル・バルデム)が、アメリカから夏の休暇に訪れたふたりの大学生(スカーレット・ヨハンソンとレベッカ・ホール)をまとめて一度に口説く。
ふたりとも、スピードは違えど遊び人のフアン・アントニオの手中に堕ちる。
自由な恋愛を志向するクリスティーナ(スカーレット・ヨハンソン)はすぐ彼といっしょに住み始め、慎重派のヴィッキー(レベッカ・ホール)は婚約者がいることで良心の呵責を覚えながらも、真面目で退屈な婚約者にはない、ワルの魅力を画家に感じずにはいられない。
ふたりの女性がそれぞれメロメロになっているところへ、画家の元妻マリア・エレーナ(ペネロペ・クルス)が、クリスティーナと同棲中の画家の家へ突然転がり込んでくる。
絵に描いたような三角関係となって険悪になったのもつかの間、恋敵であるはずのクリスティーナとマリア・エレーナはお互いの才能を認め合って意気投合し、穏やかな3人の同居が始まる。
しかしいつまでも蜜月は続かず、クリスティーナは自分の生き方を問い直し始め……という、まあよくある感じの、限られた場所・限られた期間で恋が錯綜する話だ。
たいしたテーマがあるようにも感じられず、こんな小品でペネロペ・クルスはよくアカデミー助演女優賞を獲得したなと思った。
期待したより出番が少ないし。
まああの女っぷりのよさは毎度ながらすばらしいが。
彼女は故国スペインの地に立ってこそ、したたるばかりの魅力をさらすことのできる人なのだ。
男に欲望されなければ、女としての価値などないわよ。
ペネロペの肢体と、劇中でクリスティーナの構えるカメラの前に立ったときの表情はそう語っている。
3人の女を次々とモノにしていくハビエル・バルデムのワルな魅力は、どうだろう?
ウディ・アレンは基本的に女優にしか興味のない監督だと思われるので、たしかにハビエル・バルデムは今までの出演作中ダントツの色男ぶりだけれど、いまひとつ存在に説得力がない。
どうして女はこの男にメロメロになっていくのか……セックスのよさを予感させるから?
でもあれは、ほぼ、気の持ち方次第だからね。
彼の口説き文句「寝てみれば自分のほんとの気持ちがわかる」ほど無意味な言葉はない。
なぜなら、女は、彼の演じるフアン・アントニオという男より、フアン・アントニオという「出来事」=シチュエーションでありオケージョンに触れたいのだから。
自分の欲望と交わるようなもの。
だから彼の元には、結局だれも残らない。
映画が空港で始まり空港で終わるのも象徴的だ。
空港は、到着と出発がたえずくり返されるが、そこへ降り立ち飛び立つ人の心境は、多くの場合まったく別ものになっている。
人は、人といっしょになることで、欠けていた部分を埋め、完璧に近くなれる。……と、思いこんでいる。
そんなにうまいこと、ジグソーパズルのように人が完成するなら楽なものだ。
人と関われば関わるほど、どんどんピースはぐちゃぐちゃになり収拾のつかない状態になっていくのに、「欠けていた部分をあなたが埋めてくれた。あなたがいるから、私は十全に生きられる」という幻想から抜け出せない。
登場人物たちの最大の愚は、自分のなかではなく、自分と関わり合った他人に、最後のピースを過剰に求めすぎているところだ。
全編にやたらと食事シーンが多く、そのわりには料理じたいはあまり映らず、ワイングラスばかりが強調されるカットに、彼らの愚かさや未完成な人間性が投影されているように思った。
でもべつに、愚かでかまわない。
ワイン飲んでセックス、いいじゃないの。
いつかは同じ空港から、飛び立っていくんだもの。
愚かさを肯定する視線があるから、見るほうも気持ちが軽い。