劇場公開日 2010年12月11日

「偏ってしまうレビュー」ノルウェイの森 R41さんの映画レビュー(感想・評価)

4.0 偏ってしまうレビュー

2025年10月5日
PCから投稿
鑑賞方法:VOD

言わずと知れた村上春樹さんの代表的な小説
2度は読んだと思うが、映画になればそれは、作り手の解釈になる。
そして、小説に心が揺さぶられた場合、映画の解釈に純粋に焦点を当てることもまた難しい。
非常に悩ましい。

小説の「僕」という一人称に対し、映画も一人称ではあったものの、小説の雰囲気の多くが削り取られ、明確な視点、着地点という無理矢理感は否めない。
個々人の考える余地を、特定してしまっている。
やはりどうしても私自身の解釈と、映画の解釈をミックスするようにしかできないので、レビューは相当偏ってしまうだろう。

さて、
この物語、小説での冒頭 主人公ワタナベ(僕)は国際線に乗ってドイツに到着するが、流れてきた音楽がビートルズの曲、この作品のタイトルとなる。
しかしこの冒頭はどこにも帰結しない。
単にそれが、ワタナベが過去を思い出すきっかけとなっただけだった。
そして映画ではこの部分は削除されている。
その代わりに、最後にキズキと直子は死んだ当時のまま永遠になったことだけが伝えられた。

この恐ろしいほど純粋な恋愛物語を、村上氏は「Sex」というモチーフで表現した。
その是非が好き嫌いを分けるが、この物語においてSexは非常に重要な意味を持つ。

一般的に我々は、恋愛の延長線上にSexを考え、それを受け入れる。
少なくとも物語の「当時」はそうだった。
同時にその次代は多様化の始まりでもあった。

ワタナベは、視聴者の等身大だと思う。
だから、彼こそがキズキの自殺理由や直子の精神崩壊理由を探さなければならないことになる。

直子の深い苦悩は、キズキの自殺という喪失感だ。
ナオコが一度もキズキとSexできなかった理由は、「直子自身」にあった。
それは、誰もが経験する嫉妬のようなものだったのではないかと、この映画から感じた。

3歳からいつも一緒だったキズキと直子は、いわゆるソウルメイトのようなもので、逆に一つのソウルだったのかも知れない。
それは「男女」という関係ではなく、「ひとつ」 つまり「The ONE」だ。

この二人にはSexという一般的なものは不要だったし、ある意味自分と自分がSexするようなものだ。
この「The ONE」と言う絶対感と、人間であることの矛盾感キズキを襲ったのかも知れない。

それが、「浮気」のようなもので、それを直感的に知った直子は、自動的にキズキとSexできない状況になった。
もしかしたらキズキは、直子とする前に勉強しておきたかったのかも知れない。
これが最初のミステイクであり、二人を破壊することになった。

人間であるキズキと直子は、一つのソウルという強く枠で覆われながらも、人間という肉体をまとった矛盾のなかに、キズキのした不貞をどうしても受け入れられない「身体」となった。

直子の初潮とキズキの前でした号泣は、人間故の出来事であり、矛盾であり、不穏であり、予兆であり、神話のようでもある。

後にキズキは自分のした罪を明確に知ることになった。
その時点ですでに彼は、人間として生きていくべきではないと悟ったのだろう。
それが自殺となった。

一方、人間として生きていた直子にとって、それほどの喪失を感じたことなどなく、彼女は身体の勝手な反応という矛盾という苦悩に加え、喪失を味わうことになった。
もしかしたらそれは、長い時間をかけながら、人間としてゆっくり昇華できたのかも知れないが、ワタナベとの再会がキズキを思い出させ、何故できなかったのかという「問い」の答えを引き出していったのだろう。

それは、キズキとは絶対できなかったSexをワタナベとできたことに端を発する。
20歳の誕生日
それは、直子にとって来てほしくない日
理由は、キズキとの答えをまだ出せていなかったから。

しかし、行為後に訪れたじっくりとした理解
ワタナベは道程ではなく、何人の女性としているという直感
同じものを身体の何処かで感じてしまった記憶 キズキのこと

この神話のように絶対に守るべき貞節という「純愛」が失われたことは、その証明のために生まれたはずだという直子の根幹を破壊した。
直子とキズキは、お互いだけに許されたSexという、生前の約束のようなものあったように思う。

これを「純愛」のようなものとして、決して失わないように務めていたから、3歳で出会い、すべてを共有してきたはずだった。
記憶はないから、直感と身体でそれを感じるだけ。
それに気づいたときは、もう遅かった。

これは個人的解釈だが、作家はそこまで作り込んでいるはずだ。

この肝心な部分は語られることなく、他の登場人物を通して語られる。
その一人が礼子さん
彼女の7年前の悪夢は、映画では描かれていない。
しかし、ワタナベとのSexで昇華されたようだ。
礼子さんは形見分けの直子の洋装を着てワタナベを訪問した。
そこに宿っていたのが直子自身であり、Sexは人間としての「赦し」に変わる。

作家は、人間だけが欲求や行為としてのSexを、「感情」がコントロールしている不思議を描きたかったのかも知れない。
動物ではなく、霊的なものであればSexなど不要で、欲求もなければ行為もないだろうが、それに置き換わる何倍もの「喜び」があるのではないかと考えたのだろうか?

霊的な存在の人間と、動物的本能のある人間 この当たり前で矛盾した存在 「人間」
同時に生じる「苦悩」 存在そのものを殺してしまえる「自殺」という手段もまた人間的であるものの、霊的にも動物的にも矛盾している。
この矛盾の根源が、「Sex」という行為

宗教的視点や文化的視点、または教育、その他個人的思惑という色眼鏡によって、「Sex」というものがいかようにも見えてしまう。

そして苦悩に陥るのは、「OOべき」という思考 「あるがまま」を受け入れられず、「OOべき」ことができなかった自分に対する嫌悪感や慚愧の念、自己憐憫…
こうして人は自殺する。

映画では、最後ワタナベがミドリを選ぶようにできていた。
しかし小説では、ワタナベは直子の苦悩を受け取ってしまったかのように描かれる。

冒頭のシーン
あれは、外務省に就職した永沢さんを追いかけるようにドイツに行ったことを描いていたように思う。
それは、初美さんを自殺に追い込んだ永沢さんを軽蔑した自分自身が、結局直子を自殺させてしまったことに繋がってゆく。

初美さんに苦言を言われたスワッピング
心の中では永沢さんのことを軽蔑していながら、ワタナベ自身同じ穴のムジナだったことに気づいた。
ワタナベにはもう縋れるのは永沢さんだけになった。

奇しくも機内で聞いた「ノリウェイの森」によって、忘れるために行くはずのドイツへの旅が、思い出させるための旅になる暗示。
この矛盾
この作品は、とらえどころのない程難しい人間の性とも呼べる永遠の苦悩を描いている。

R41
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