「「自分の生きる世界とどう関わるか」ということに真摯に向き合おうとする映画だと思いました。」ノルウェイの森 くるまどろぼうさんの映画レビュー(感想・評価)
「自分の生きる世界とどう関わるか」ということに真摯に向き合おうとする映画だと思いました。
村上春樹原作で、好きな役者が出ていて、
監督も悪くなさそう、 という理由で観てきた。
上下巻にわたる超長い原作が2時間ちょいに収まるのか。
あれだけ有名で沢山の読者の中に出来ているイメージを
映画としてどう再現するのか。
原作を読んだ私としては、映画は総合的に、良かったと思う。
(ただ、「原作と比べて…」という見方をするのは避けたつもりです。原作そっくりなら100点なのかという話になるので)
青春映画、とくくってしまうには重いかもしれなくて
ハリウッドムービー的リアリティを上手く信じられない私には
一言で名付けられない人間関係とか、正誤とは違う回答とか、
そういうものをリアルに描く物語がしっくりくる。
だって世の中に、成功する為のたくさんのことが提示されているけど
成功以外のことなんて誰も教えようとしてないんじゃないか。
成功以外は失敗なのか、とか、失敗したときどうしたらいいか、とか、そもそも成功失敗って何か、とか。
良い配役だった。
松山ケンイチはもちろんのこと、菊池凛子の役作りはすごかった。発声まであんなに変えられるんだな。新人の水原希子も悪くなかった。
個人的には「レイコさん」役の女優だけちょっと浮いてしまっていた気も。
脚本はきっと原作を凝縮した感じなんだと思う。
原作のどのシーン・セリフを脚本に生かし、
逆にどれを切り捨てるか、そのへんは好みだから仕方ない部分も当然ある。
それくらい、原作は名シーン・名セリフの宝庫、とも言えるし。
でもユーモアのある部分はもーちょい残してほしかったな。
…問題は原作が長いということか。
ただシーンの前後を入れ替えたりすれば、ストーリーの流れ・心情の変化が分かりやすくなったところもあるかも。
とは言え、ストーリーの雰囲気がちゃんと伝わってくる作りだった。
映画として好きなシーンは、2人が歩き回るところ。
最初のほうでワタナベ君と直子が再会するところの演出も良かった。
音楽も素敵。時代的にCANとかDoorsとか。
あとレデイオヘッドの人が手がけてるらしい効果音的な音楽がよかった。
衣装とか美術も、見ていてしっくりくるものだった。
70年代を映し出す部屋やバイト先の風景。
それと対照に、普遍的な草原や雪山といった自然の風景。
単純に映像としても美しく見応えがありました。
以下の2点が気になりました。
1、菊池凛子
彼女の主要作3本「バベル」「スカイクロラ」「ノルウェイの森」を観て3本ともミスキャストで彼女のために失敗作になっていることを指摘したい。バベルもノルウェイの森も監督は最初は断ったにも関わらず凛子の方から強引に売り込んだ経緯があるが、バベルでは尼僧的な精神的裏付けを求められたのに単なる突っ張り高校生の域を超えられなかったし、押井守監督のアニメ「スカイクロラ」でも同様な裏付けを求められたが、単なる絶叫的演技で表面異常なようで裏ずけがゼロと云う、昔の黒沢明監督の壮絶な大失敗作ドストエフスキー原作「白痴」の原節子と同じ、日本の女優にはキリスト教の神の観念の表現は伝統的に背景が無いために土台無理である。日本の作家がこのテーマを扱うと中島監督の「嫌われ松子の生涯」黒沢明監督の「白痴」、是枝監督の「風船人形」のように神の存在証明に躍起になって訳の分らないものになる。キリスト教の伝統のある西欧のロベール・ブレッソンの「田舎司祭の日記」フレッド・ジンネマン監督の「尼僧物語」、最近では「ダウト」など、神は存在すると云う時点からスタートするスッキリした作品とは大違いである。小説家も芥川龍之介、太宰治、三島由紀夫など皆その壁に跳ね返された。果たして村上春樹は?。この問題は、例えば、「愛を読む人」のケイト・ウェンスレットのセックスを単なるセックス・シーンでは無く愛の精神的表現に昇華させた演技が参考になるだろう。日本では神の領域に関わる作品よりは社会派と呼ばれるジャンル、黒沢作品なら「野良犬」「酔いどれ天使」、木下慶介なら「24の瞳」、その他「キューポラのある町」、「攻殻機動隊」や「沈まぬ太陽」などの方が成功する。
2番目は、もう原作の映画化はアナクロニズムでは?、である。映画は既に3Dに踏み込んだ。3Dの意味は電子産業家電のTV、携帯、ゲームの全てを巻き込む3Dデスプレイによるオール3Dデータ化の流れである。世の中流通データが3D化されたら2Dは存在できない排他的な世界であり、2Dと3Dとが共存できるような世界では無い。つまり1時期原作の映画化等文芸と映画の境界がボヤケた所でツール主体の映画、画像表現が新しい自己主張を再開した時期に、時代の流れに後ろ向きの原作物でもないだろうと云う点である。
宋3世