「性的表現の直球が何を意味するのかわからない。」ノルウェイの森 Socialjusticeさんの映画レビュー(感想・評価)
性的表現の直球が何を意味するのかわからない。
『映画レビュー』のクラスを教えているが、学習者のリクエストがこの映画である。私は村上春樹の作品に興味がなく、『海辺のカフカ』だけ読んで、それ以上は紐解かなかった。しかし、日本語の教師なので、学習者が決めた本、青豆がどうしたとかいうのやらを一緒に読んで学習者の読解を助けたような気がする。学習者には村上春樹ファンが多いようだ。ある生徒は現在早稲田大学院文学部で勉強していて、高校の時から作家になると言っていた。彼も、ハルキに夢中だった。頭の古い
私にとって、彼の表現はつまらなく感じだ。個人的な感想だが、『もちろん』の多発が例だが、英語の直訳のように思う。文章表現の仕方が、上級だが、日本語学習者の作文のような気がした。あくまで、私感であるから、ご理解を。 それに比べると、三島の『金閣寺』などは『これが純文学!』だと叫びたくなるように表現力が豊かだ。
この映画も、学習者からの要望で見てみた。討論に使うので、よく理解しておきたかった。主人公ワタナベ ( 松山ケンイチ)がたとえば、全学連に入っていて、学生運動に力を入れていて、思春期で異性に芽生えているなら、もっとワタナベに寄り添って考えられるのにと思った。それに、彼の読んでいる文学が、当時流行の作家、高橋 和巳ならもっと感情移入できた。私はどれも満足に読んでいないが、『悲の器』『我が心は石にあらず』『邪宗門』などは当時全共闘に属していない人でも読み漁っていたのを知っている。もちろん、大江健三郎の『万延元年のフットボール』も。 しかし、ワタナベの読んでいる本はなんだか見当もつかない。ワタナベの先輩、永沢 (玉山鉄二)のワタナベの読んでいる書物に対する批判だけじゃどんな本を読んでいるかヒントにもならなかった。
それに、行間を読ませるような短い会話で、こういう作品を理解するのは私の不得意なところだ。 会話が極端に短い。でも、登場人物は意志の疎通ができているようで会話がスムーズに運んでいるようだが、私にとってみると、もっと自分の気持ちを会話にしてくれたら、勘繰らなくてもすむのになあと思った。苦手なタイプの映画で、個人的にイラン映画、トルコ映画のように字幕が長いのに好感が持てる。しかし、ワタナベ の静かに話す口調はこの映画の圧巻で、社会で起きていることには興味が持てず、自分の心の置き場もないような性格が滲み出ていると感じた。何を求めて生きているんだよとか、これからどうしたいんだよと声をかけたくなるような青年にぴったりの口調だ。ポジティブに考えれば、只今、人生模索中といえよう。
もういちどいうが、これは日本映画だが、『英語を直訳した』ような表現を使っているのがギクシャクした。だから、若者の会話なのに、私のとってみると、うまく流れていかないのを感じた。私は団塊の世代の一歩前だから、1967年の時代は現実味がある。私も読書の虫、特に純文学の虫。それに、中核派によって、講義がよく阻止されたのを覚えているし、ワタナベのように、アルバイトに勤しんでいた。
最後に、性的表現の直球が何を意味するのかわからなかった。当時、こういう直球が若者の間で広範囲に使われていたのだろうか?
この映画は私が話し合うトピックを考えるのではなく、この映画を選んだ学習者に考えさせよう。その方が自律性のある授業になるし。