青い鳥のレビュー・感想・評価
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【”苛めは苛めた者だけでなく、傍観した者も当事者である。”今作では苛めが起きたクラスに赴任して来た吃音の代用教員が真なる反省とは何かを傷を抱える生徒達に教える再生のヒューマンドラマである。】
■前学期、苛められていた両親が脱サラしてコンビニを開いた男子生徒・野口が起こした自殺未遂で東ヶ丘中学校は、マスコミに大きく取り上げられ、担任は休職していた。
そして、野口は命を取り留めたが、他の学校に転校していた。
そんな二年一組に代用教師・村内(阿部寛)が着任するが、吃音の彼の最初の挨拶に生徒たちは驚く。
うまくしゃべれない村内は、その分“本気の言葉”で生徒たちと向かい会って行くのである。
◆感想<Caution!内容に触れています。>
・今作で村内を演じる若き阿部寛さんの、吃音を恥じる事無く、自然体で国語を教える姿が印象的である。
彼は言う。”本気の言葉は本気で聴く。”と。
正に”巧言令色鮮仁”の対極を行く、彼が訥々と生徒達に語り掛ける言葉が、阿部さんのテノールボイスも後押しし、とても良いのである。
・村内は打ち捨てられていた野口の机を教室内に持ち込み、毎日”おはよう、野口君”と言ってから授業を始めるのである。
その姿を観た、苛めの主犯である井上(ナント!若き仲野太賀である。)と、梅田は反発し村内の吃音を揶揄うが、村内がそれを全く気にしないのである。
・村内は、最初に生徒の前に立った時に、点呼を取らずに名簿を眺め、生徒達の顔を眺め、全員の名前を覚えるのである。ここも印象的なシーンである。
・管理職である教頭、校長は反省文と称して、五枚書くように指示を先生を含めて出す。愚かしき行為である。彼らは形式的に、世間を気にして表向き反省した事を装っているだけなのである。それを見抜いた島崎先生(伊藤歩)が”何故、五枚なんですか?”と問うも、教頭、校長は書くようにの一点張りである。
・野口と仲良しだった園部(本郷奏多)の苦悩は深い。彼も流れに乗り、彼に菓子を持って来るように言っていたのである。園部の憂愁はその事である。彼は回想する。”僕が指示した時に、彼は哀しそうな眼で僕を見た・・。”
・村内が言う言葉は重いが、生徒達の心を打って行くのである。
”苦しんでいる心を無視するのが苛め。”
”責任。一からやり直すのは卑怯。”
”野口君にした事を忘れてはいけない。”
・そして、休職して居た担任が復帰する事になり、村内はクラスの生徒達に言うのである。”以前書いた反省文を書き直したい者は、机の上の紙を持って行きなさい。”
彼は、その前に生徒達が書いた”反省文”に目を通し、次々に燃やしている。彼はその反省文が”表面的なモノ”と見抜いていたのである。
そして、生徒達が席を立たずに自習を始める中、最初に井上が席を立ち紙を取る。次々に立ち上がる生徒達。園部も紙を取り、最初は”反省文”と書くが消しゴムで消して”野口”と書き、彼への想いを綴って行くのである。
<今作では苛めが起きたクラスに赴任して来た吃音の代用教員が真なる反省とは何かを、傷を抱える生徒達に教える再生のヒューマンドラマなのである。>
人の心を動かす村内(阿部寛)
学校が舞台で、教師の言動を理解した生徒が変わるという話だが、本質は以下の通りだと私なりに解釈した。
本作は、学校の体制やシステムが問題だと言いたいわけではなく、いじめについて深く議論し原因を追求して反省しようと呼び掛ける話でもない。人と接する時の大切なことについて語られている。
中学校や吃音の臨時教師が生徒の心を変えるという設定は、間違えやすい人間の成長を助けるシチュエーションとして自然であり、特定の男子生徒たちに向けているようにしているが、本当はすべての人へ伝えたいメッセージが込められているのだと思う。
強くならなくてもいい。一所懸命になるだけでいい。今より少しでも、人の氣持ちを想像するだけでいい。
本氣でしゃべる村内先生(阿部寛)の言葉すべてが、伝えたいメッセージそのものである。
久しぶりに観たら、いろいろ発見があった。村内先生が通勤中に読んでいる本は「石川啄木詩集」ということ、生徒役で仲野太賀さん、新木優子さんが出演していた。阿部寛さんが演じる村内先生を見たくてまた鑑賞したくなるほど、とても良いキャラクター。大好き。
いじめと向き合う大切さがわかる
阿部寛なのでハツラツとしてバリバリ生徒の中に入り込んでいくようなイメージを想像していたが、いたって普通、むしろ覇気が無い、どもるためかあまり言葉を発しない、これで教師が務まるのかと思ってしまう。
おまけに体調不良の先生の代打。
ところが発する言葉すべてに的を得ている。
この映画ができてから15年近く経つのに未だにいじめ問題は後を絶たず時として大問題になり教育委員会の解決力のなさや学校の隠蔽体質があらわになる。
悪いとこばかり表面に出てくるので仕方ないが、いじめはあったがこういう風に解決してきたとか、その後、こういう風に取り組んでいていじめが無くなったなど、そういった情報も流していくことでいじめが減ったり学校や教育委員会の信頼度も上がるのではないか?
もちろんいじめの無い学校や指導力、解決力のある教育委員会がほとんどとは思うが・・・
重松清の原作。世界観がよく出ていた。 こんな先生がいたらいいなって...
人を思いやること
自殺未遂した野口くんは転校したにも関わらず、彼の座席を元に戻して毎日挨拶する村内先生(阿部寛)。生徒たちは過去の事件を思い出したりして嫌がってるのに、毎日それを繰り返す村内先生。重い重松清ワールドだと感じたけど、短編が原作であるせいか物語が平坦で抑揚がない。ここはちょっと残念だったけど、生徒や他の先生たちの演技が素晴らしい出来映えであり、むしろ阿部寛の演技が下手に思えてしまうくらい・・・
元の担任教師がメンタルを病んで休職中だったが、その担任と村内先生がどこかで繋がってるとか秘密があれば尚良かったかな。しかも立ち入り禁止の屋上で過去の自分の生徒たちとの写真を見つめる姿。うつむいていた生徒はもしかして自ら命を絶ったのか?過去のことは一切描かれてなかったけど、もうちょっと想像させてほしいものだ。
生徒役の本郷奏多と太賀はむちゃくちゃ演技が上手い!ケンカのシーンもリアルだったし、ストーリー以外は傑作とも言える。そして「青い鳥」なんか要らない!というテーマも良かったなぁ・・・
熱血指導と一線を画す
嫌いはイジメのサナギ
「嫌いはイジメになりますか?」
素朴ですが鋭い問いです。さすが重松清。
本作でどう答えていたかは別として、私はイジメになる前のサナギみたいなものかと思います。嫌いだったり気に食わないからいじめるんでしょうし。
そういえば、脳科学者の先生が人間はイジメをやめられないと言っていたのを聞いた時には「またまた~、本が売れるようにと注意を惹くようなことを言っちゃって」と取り合いませんでしたが、嫌いがイジメのサナギと考えるとなるほど腑に落ちます。
しかし、人間はイジメをやめられないのかもしれないけれど、必ずしも強くはない存在を助けようとするのは人間だけです。虎狼の輩は実に合理的に弱っている獲物を狙いますが、人間が彼らを圧倒して繁栄していることを考えると、このような一見して合理性を欠く行動も、実のところそう不合理ではないのかもしれません。
イジメが痛ましい結果をもたらしてしまうのは制度の問題ではないでしょうか。イジメがあったというだけで学校や教師の失点にしては、高潔な教育者ではない(つまり、あまり尊敬に値しない)人たちはそれを隠そうとするでしょう。その結果イジメに対処するノウハウがいつまで経っても蓄積されないという悪循環に陥っているように見えてなりません。脳科学者の先生がイジメは当たり前と言っているのだから、イジメがあったかどうかではなく、イジメにどう対処したかを評価すべきでしょう。
ちなみに本作でこの問い(嫌いはイジメになりますか?)を聞いた時に、以前「分断と多様性の違い」が何か考えたことを思い出しました。その時には「分断は他を否定するが多様性は否定しない」と結論付けましたが、どうもしっくりきません。
助かって良かったよ。、
わかるぞ、
始業時刻には教室に行くべきであるのに。
職朝長引くとイライラ、
子供に時間厳守と言いながら。
吃音お持ちの設定、緊張した風を出したいのかキツい。
しかし、上背もあり男子も一歩引く。
もっと小柄な気の弱そうな俳優だったら
どうだっただろうか?
吃音で喋るのも大変だ。
しかし、
中学生にもなって目の前で笑うとは、
前途多難だな。
いいね、ここ。
本気でしゃべります。だから本気で聞くべきだ。
本気で聞かないから先生はここに来た。
お願いではなくきちんと指示している。
野口君おかえり、と言った時の反応があり、少し安心。気持ちについては予想の反対。
教室で直接言わず親にグチる。
親は権力者。
学校は、体裁、形にこだわる。
反省文には、形だけのことを教える。
当該生徒の気持ちは真に救われるのか。
井上君が喫茶店で野口君のこと色々言うが、
ほっとけよ、構うなよ、それがいじめだろ。
周りのみんなが忘れるのは駄目だ。
自分のしたことを忘れず責任を持って抱えていくべきだ。
いろんな子がいる。
先生の吃音のように
おどけるように笑って喋らないと話せない子もいる。心は笑っていないが。
だから、表面だけ見ていてはいけない、と。
今の学校の問題、
わからなかった、気づかなかった、て言うてたらあかんのや察知せな死ぬんや。
と思っていたが、
わかってても、気づいていても、
わからなかった、気づかなかった、と言う。
知っていて放置なんて犯罪にならないかな?
高橋先生とやら、休むの狡いぞ、文句出るのよくわかる。しかし、もしかすると、校長やら委員会が休め、と指示したのかもしれない。多分。
阿部が伊藤と喋らないのは、吃音で会話がスムーズにいかないから演出上。
青い鳥Boxの投書、印字してあるのも?????
時折見る写真の子、亡くなったのか?
なぜ吃音である必要があるのだろう?
先生自身もハンディあるが必死に話す姿を見せる為か。
最後の反省文、少し尻切れトンボ、
書かない子は、先の反省文を心から書いた子(しかしありきたりの文しかない筈)か、反省文についてあまり考えていない子。
書く子は担任の働きかけにより何か思うことがあり書こうと考えた子。
井上君はどの時点で考え直すようになったのか。
子供に強制はできないからこういうラストかもしれない。
本作何を伝えたかったのか。
形だけ処理する学校に侵された子供たちの前に、しっかりした教育理念を持った教師を投入して少しの子だけにでも心から考える機会を与えた、ということだろうか。
ただ、現実的には代替の講師が来てすぐに自身の考えを
出して通して行こうとはしない、できない。
理想の物語か。
こんな先生いたらいいな
自殺未遂して転校していった野口くんに、クラスメートがしたことの重さを伝えようとする臨時講師の村内先生。どもりもあり、クラスの生徒からは煙たがられる。
学校の野口くんの事件に対する対応が理解不能。みんなに反省文を書かせて、全ての先生が読み、書き直させる。5枚という枚数もどうなんだろう?書き直して、素直な反省が書けるだろうか?短くても最初の文章が本心ではないのか?学校側はとにかく体裁だけ整えて終わらせたかったんだろう。どうも子供達もそれでもう終わった、野口くんももういないし。村内先生の野口くんの机を持ってくることから始まった対応、素晴らしい。、生徒の中に少しずつ反省が現れ、最後の作文の書き直しの場面、1番反抗的だった生徒も作文を書き直した。彼の作文も、みてみたかったな。
野口くんはいっさい出てこないが彼が新しい学校でどう過ごしているのかとても気になるし、そんな場面があってもよかったかな。
村内先生が屋上でたまに見る写真。それがどういう写真なのか、知りたかった。
中野大賀、新木優子ととても初々しくて、驚いた。伊藤歩も若かった。
短い間だったけど、このクラスの子達が村内先生に教わった事は一生の宝ですね。
あなたは必ず、二回寝る
いじめが理解できた
特異な臨時教員に重いクラスの雰囲気。一体、何が起こったんだ?冒頭か...
良い映画です、さすが重松清原作
内容は深刻なのですが、淡々とした展開で、割と嫌悪感なく見られます。全編、緊迫感の間合いがあって、何か起きそうなのですが、「告白」みたいなドラマチックなラストはないです。結局、最後はお決まりの転校(退職)で終わってしまったのは残念です。ただ、見ごたえはあります。彼の理解者である同僚の女教師(原作には存在しなかったと思いますが)、どこかで見たと思ったら、「スワロウテイル」に子役ででていた女優でした。立派に成長しましね。
社会は何かにつけて"臭い物に蓋をする "
原作は重松清。またしても未読です。
「野口君おはよう!」
確かに毎日この繰り返しが続いたらうんざりしてしまう。
もしもこの様な事が現実に起こったら…。
これは現代のお伽話と言って良いのかも知れない。大事な大学受験を控えた直前を舞台としているだけにそう思わざるを得ない。
作劇術としては、先生役の阿部寛が激しい“どもり”を抱えている教師役に据えているのが大きい。
どもってしまう事で言葉は少ないが、その事で“より真剣に問題に立ち向かっている”と見える意識を観客(読者)に与えている。本来ならばそれ自体が先ずは夢物語である気がするんですが。
更には、どうやら原作とは違うと思われる、阿部寛が読みふけっている“ある作家の本”の存在。
(観た後で原作をパラパラと眺めたところ、参考資料としては違う作家の本書かれており、原作上では映画とは違っている様だ)
それがお伽話的な要素を増幅していたと思う。
まるで阿部寛自体が本から抜け出て来た様な印象を受ける。
問題定義を促す作品としては充分に考えさせられる話で、終盤には思わず何度となく涙が溢れ出て来ました。但し現場を知って居る人ほど、作品が盛り上がるに連れて醒めてしまうのかも知れませんが…。
映画が始まって最初の内は、阿部寛演じる先生がどもってしまう為に、少しずつ少しずつゆっくりと話だす。
その影響か、映画自体もゆっくりゆっくりと進んで行きます。
勿論、観客の心を段々と掴んで行く為の演出効果を狙っての事ですが、この辺りでなかなか作品に入って行けない人も居るかも知れません。
何かと“臭いものには蓋”の学校側の対応ですが、一応は主人公にあたる同級生の男の子の視点を中心とした話で、物語が進むに連れて以前から感じていた自分の中の想いを吐き出す内容です。
その事で観客の目線で観ていると、段々とこの男の子が持っている“罪の意識”に肩入れしてしまう。
そんな男の子の気持ちと同様に、同じ教師役の伊藤歩が何となく学校側のやり方に疑問を感じて居る人物を好演して居て、爽やかな印象を強くしていました。
彼女の持ち合わせて居る感性が良い方向に出ているのではないでしょうか。
「先生、誰かを嫌いになる事もいじめになるんですか?」
主人公の男の子が叫ぶこの言葉が胸に突き刺さります。
最後の授業で、この1ヶ月で劇的に変化した生徒。
何も変わらなかった生徒。
何かを感じたがやがては忘れ去ってしまう生徒。
だけど決して無駄な時間じゃ無かったのだと思いたい…と訴えかける内容にはグッと来ました。
いじめっ子役の井上君に、将来の田口トモロウ2世を見た(笑)
ラ○トシ○ンでの阿部寛の表情が、またお伽話的な要素を増幅していた様な気がします。
(2008年12月5日新宿武蔵野館2)
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