ブタがいた教室のレビュー・感想・評価
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飼うと育てるは違うと思いました
これは個人的な意見です。
飼うと育てるは少し違うのではないかなとこの映画を見て思いました。飼うは、私たちが飼っているペットと同じようなものです。ペットを飼っていると思い出も沢山できます。この映画も同様に、最初は食べると言っていたのに思い出ができる度に、食べることを避けようとする子もいました。育てるは、私達が今こうしている間に、知らず知らずと育てられ、食料にされ、食べられています。私達はそれを見ていないから食べれているのです。動物に限らず思い出があると、簡単にはその人、その動物とは、手放せないと思います。だから、この映画みたいに、学校で豚を飼って食べるとなると少し残酷です。この映画の校長は動物を食べることは残酷でしょうか。みたいな風に言ってたシーンがありましたが、人の感情はそれぞれあります。実際、目の前で鶏を裁かれ食べられなくなった人もいます。私の祖父がそうでした。それを見たから食べることが残酷となって食べることが無理になったのでしょう。私も、目の前で学校で飼ってた豚を裁かれるのはもう無理です。目の前でなくても。わたしなら、その子との思い出が出来た限り何であそうと食べられないです。私からすると、自分の愛犬を食べるのと同じように思えます。この映画は凄く難しいお話でした!
内容もだけど、少年時代の北村匠海くんも必見
冒頭15分ほど見逃したのに、そこから30分ほどでなんだか泣きそうになった。
私なら、食べると言いつつ実際に出てきたら食べられないパターンかな…なんなら吐き気をもよおすかも。
名前つけたら無理だよな〜〜。どちらにしろトラウマになりそう。ベジタリアンになるとか、いつも泣きながら食べるとか、少なくとも豚肉苦手になりそうだなー。でも命をいただくってこういうことなんですよね。
「子どもたちに、食肉センターに送るか3年生に引き継ぐかを決めさせようと思う」という担任、「成功か失敗かを問うものではない。命に向き合うことが大切であり、本当に最終的に決めるのははじめた先生自身でなければ、責任を果たしたことにならない」という校長。
このやりとりがあってよかった。校長に救われた感。
真剣に考える子どもたちに比べ、教師の行動が多少行き当たりばったりだった。
突然のアニメと、ものすごくポップな曲のシーンは要るのかな。日常を映すだけで良かったのに。あそこまで明るく表現されるとなんか冷めた。
食肉センターに送るor3年生に引き継ぐ、どちらも人任せでは?と多少モヤモヤするものの、衛生面でも経験的にも、文字通り自分たちでブタを調理するところまではいけないだろうから、そこは仕方ないしこれこそリアルだなと思った。
ブタがいた教室原作校出身です。
何度も見てます。ほぼ実体験ですからね。
実話のお話をさせていただきます。
Pちゃんのお話、食用センターに運ばれたのかどうなのかなど、全て私の記憶通り端的に説明させていただきます。
これより先は実話となりますので、ネタバレとなります。その認識をされ、下へ進んでください。
現実の世界のPちゃんの結末。
現実のPちゃんの飼育は1年では終わらず、一度後輩へ引継ぎは行われます。
そして、またその受継いだ生徒達が卒業となる際に、Pちゃんは二度目のピンチを迎えます。そして、話し合いの結果、引継ぎはされないことになり、残念ながら食用センターに運ばれることになります。
そして、全校生徒と最初に飼いだした卒業生のうちの数人で、給食として出てきたPちゃんを食べました。
給食の内容(栄養など)を説明する校内放送で
「今日の給食はPちゃんです」と放送があったのを今でも覚えています。
ただ、映画は市街地で撮影されていますが、実話は山中の田舎校。
主な作業は担当のクラスがやっていましたが、実際は全校生徒で飼っていたようなイメージでした。
これが現実のお話です。
いただきます
生命を食べる、ということについて、今一度考えさせられる作品。
永遠のテーマ化してしまうからこそ、感謝の心で様々な動植物をいただこうと思えた。
しかし、同じ豚でも、ペットとして飼うのと食用の家畜として飼育するのとは違うということを、しっかり描いてほしかった。
全体的に押さえ気味というか、弱いのは、残酷だというクレームを避けるためだろうか?
食の大切さや、肉を食べることの意味も、もう少し納得できるシーンが欲しい。
その際、ベジタリアンについても触れなくてはならないと思う。
また、『食べないというより食べたくない』から、他クラスにバトンタッチするか業者に引き渡す、という人任せな二択にも少しガッカリ。
子供たちが出した精一杯の答えだ、というのはわかるが。
印象に残ったのは、ピーちゃんと別れるシーンでのカメラワーク。
子供たちがわらわら走ってトラックを追うのはありきたりだが、ピーちゃんの乗った荷台からの視点に変わるのが良かった。
完全なゆとり映画(笑)
正直ゆとり社会がこんなに怖いと思わされる映画だとは思いませんでした。
これは「ペットを可愛がる」がテーマの映画なのでしょうか?
そもそも初めから教育指導をする上で大切なことを子供達に説明も無くただ動物を育てようってだけの教育者までもがゆとり脳みそで描いたらこのような駄作になって当然だと思います。
劇中で「飼育」や「育てる」という言葉を使っていますが授業として行うのであれば「養豚」という言葉で子供達に「食す」事を前提とした授業であることを説明しなければなりません。
若さ故の演出なのか分かりませんが、いただきますもろくに言えない子供が…と言うセリフは正にお前自身だろと言ってやりたいくらいの主張の弱さ(笑)
校長が賛成派として推してくれたから行えただけであってあんなプレゼンで企画が通る企業なんてあるのか?と思わせてくれるようなゆとり教師の設定で何をやるのかと始まりから駄作の臭いがプンプンです。
名前を付けるにしてもこれは食用だから1号と数字で呼びますとはっきり「ペット」と「食用」の境界も引けない大人に子供の多数決で名前を付けられるって指導者としての威厳がありません。
養豚を開始した時点で教室に「卒業式に豚を食べるまで後○日」というカウントダウンを最初から行うべきです。
ダラダラとした無駄な飼育、挙句には子供達に任せたって投げやりな態度。
子供はそういう大人を見て成長するので、当然最終投票に教師もクラスの一員だから票を入れるべきだと問題を投げ出す始末。
同数票である以上後一票で決議するなら、これは全員の意見を無視して一人の人間に判断を丸投げする意味だとバカでも分かります。
途中の論争でもそうですが、そもそも論点が間違っています。
3年生に引き継いで飼育してもらうか食用センターに引き取ってもらうか…生徒達は当然のように長く生きて欲しいから3年生にと言いますがどちらも丸投げの話ですよね?
卒業しても面倒を見に来ると主張する生徒もいますが、教師なら説明すべきでしょう。
卒業後に面倒を見に来ると言う事は放課後チラっと覗きに来ることは面倒を見るとは言わないと。
何故論争で、自分が引き取って家で飼育します!や、卒業後進学する中学校で飼育出来ないか交渉してきます!って主張が無いのでしょうか?
面倒を見ることは人に押し付けることだと小学校から認識させたままの教育に驚きです。
誰が豚の食料を購入するのでしょうか?
誰が豚の飼育スペースを確保するのでしょうか?
自分達が生かしたい、育てたいと主張する意見を守るのであれば、土地を買うなり飼育スペースを作ること、食費を自分で稼ぎ餌を調達してくること…そういった事を教えなければ子供は与えられた物でしか何とかしようとしませんし、当然そういった責任が生まれることすら考えてもいません。
ナメてるとしか思えません。
綺麗事だけじゃ豚は買えないってことを教えること、最後は泣かしてでも食わせることがこの授業の完了以外に無いと思います。
世界には雑草すら食べられない子供達がいます。
どれだけ自分達が恵まれているのか、その上で自分達が育てた物を食物として食べることにどんな意味があるのか。
それがテーマであるはずです。
映画としてはいい話だと思います。
感情が生まれるのも事実だし、命は大事だと思います。
しかし、これは何を問題とした話なのかさっぱり分かりません。
食卓に出たご飯は食べられるけど、「ペット」は食べられない(笑)
そういう話にしか聞こえません。
さぁ明日はうちの猫を食べましょう♪
なんてならないのは当たり前です(笑)
豚を飼う家庭は少ないから食べられるかもしれない…そんな甘い考えで出来た話だとしか思えません。
昔、チャウチャウは食用犬として食べられてきました。
今は犬は「ペット」としか見られないですが、どうせならチャウチャウは食べられるから食用として育てようという題材であれば始めから「食べる」か「食べない」かの論争から始まったのでは無いでしょうか?
食べる前提で飼育を始めれば、まさか最後になって「この犬は食べたくない」とは言わないでしょう(笑)
そもそも犬を食べる前提で飼育する所から始まるんですから(笑)
教育者がいかにぬるいか、ゆとり社会はこれだけ問題なんだと訴えることがテーマである映画なら納得のいく内容ですが、まさかの結末や世間の評価の高さに嘆きしか感じない映画です。
当然ここまでの話に仕上げれば問題作になるでしょうが、残酷さがあるからこそ理解や学び取れる感情や知識、考えさせられる物では無いでしょうか?
子供達が考え意見した発言に対し、そこから起こりうる問題などの説明を教師が行わず何が教育でしょうか?
言うだけなら簡単です。
実行に移せるのかどうか、それについての責任を教えないなら始めからこんな授業は行うべきではありませんね。
あまりに楽観的で堕落した話のため、綺麗に話を終わらせようとして無意味に警察や食用センターの方々、挙句3年の生徒や担任まで巻き込んだ茶番劇。
子供達と一緒になって数多くの人を振り回した教師含め生徒達には謝罪してもらいたいです。
始めから計画性の無いことを無責任に行えば、このような自分達では解決・決断出来ない事項が必ず生まれる…と、そういうことを教えるための教訓話としては大成功でしょう。
最後に、自分が育てた物が食えないなんて農家の人に謝れと言いたい(笑)
世の中には無理矢理食わされて三大珍味とか言われている家畜どころか鬼畜な飼育方もあるくらいなのに可愛がられて食べられるってどんなに幸せか(笑)
綺麗事だけ並べて論点をすり替える最低の映画で虫唾が走ります。
「食べること」と「殺すこと」は同じじゃない
映画「ブタがいた教室」(前田哲監督)から。
クラスのみんなで育てたブタを、最後はどうするか、
「食べる」「食べない」で白熱するデイベートは、
このシーン以外では、仲良しなのだろうか?といらぬ心配をしながらも、
監督はこの作品で私たちに、そして実際に行なわれた先生は子どもたちに、
なにを伝えたかったのか・・と考えながら、最後まで観てしまった。
「食」をテーマにした作品は、何作も観ているが、
90分ほど淡々と映像だけが流れる映画「いのちの食べ方」同様、
その評価は、観る側の私たちに委ねられている気がした。
彼らの主張をメモしながら、自分だったら、彼らのどの意見に近いのか、
どんな台詞に、私のアンテナは引っ掛かったのか、考えてみた。
鑑賞後、乱雑に書きなぐったメモを整理すると、
「『食べること』と『殺すこと』は同じじゃない」という台詞が、
場面を変えて、2度書かれていたことに気付く。
これは単なる偶然ではなく、明らかに私の意見と近いということだろう。
「どう違うんですか?」と問いつめる女の子に「殺すのはただ命を奪うことで、
食べるのはその殺した動物の命を受け継ぐことなんだよ」と言い切る男の子。
だからこそ、給食なども好き嫌いで残してはいけない、と気付かせられれば、
「いのち」を扱う授業としては、もっとよかったのに、とも感じた。
そう言えば、この「ブタ」を飼うという体験で、子どもたちの意識が変わり、
魚嫌いの子どもが食べるようになった、とお父さんが話すシーンがある。
その教えは「魚の身がしまっているのは、頑張って生きていたからだ。
頑張って生きたことを無駄にするな」らしい。(なるほど・・)
作品としては、評価が分かれるだろうなぁ、きっと。
教育としては良い
動物を飼うことを決めた時点でこういう結末が予想されなかった場合は、失敗体験でしょう。
こういう体験をしたら軽い気持ちでペットを捨てたりしないでしょう。
学校で見せる教育ビデオとして活用して欲しい
全く命に向き合ってない。ひどい駄作。
駄作。全く命に向き合ってない。
結局ラストは「処分してくれる他人」に任せ、
ペットを捨てる者となんら変わりない。
処分業者や警察や大人は悪者のまま。
「他のクラスに」「処分業者に」
選択肢が両方とも逃げの結論では議論の価値も無い。
教師も失格。
最後まできちんと計画性をもって関わるべきで、
「子供まかせ」では、ただの残酷なネグレクトだ。
~以下妄想補完END~
「食べない」に傾いたときに、
教師は、「なら他の豚と交換してきて食べるか?」と提案、
それぞれが家庭で話をし、
食肉店のお父さんの視点や、
料理をし子供を育むお母さんの視点で助言をもらい、
それぞれ大人になった子供たちが、
「食べる」の結論を出し、泣きながらもPちゃんをちゃんと食べる。
辛いのに、やはりうまいと感じる。
そして、全員が残さず食べて、命のバトンタッチを学ぶ。
こんなのを期待していたのに。
迫力も厳しさも足りない
原作『豚のPちゃんと32人の小学生』とそのビデオよりも劣る作品。主演の妻夫木聡には、少なくとも実践した黒田先生ほどの迫力すら感じられなかった。せっかくの3年生の申し出を無にする姿勢も許せないと感じた。1つ評価できることは、1人の子どもの父親が、子どもの頃、豚を捌く大人に違和感を感じたが、むだなくいただくことが命を大切にすることだ、と諭す場面だった。そこをもっと前面に出せば、原作自体の限界さえも越えたかもしれない。原作のビデオも、NHKのプロデューサーから、「結論もわからずに始めてしまって、挙句の果てに子どもたちにこんな辛い思いをさせる教師は、教育者ではない」と言われ、放映を断られている。原作者が範とした鳥山敏子氏(『いのちに触れる』太郎次郎社、1985年刊)は、豚にしても鶏にしても、泣いている子どもの前に頑として死骸をつきつけ、むだなくいただき、命をいただくことの厳しさを学ばせたものであった。そうした厳しさを描こうとした対極的なドラマとして、期せずして大杉漣がどちらにも出演していた『牛に願いを』(2007年7-9月放映)があったのではないか。大学生と小学生という年代の差はあれ、育てた動物への愛着を断ち切らなければ生計が成り立たないという厳しさを教えるというテーマは、どの年代にとっても重大なものであるだろう。また、それはドラマであったが、実話としてNNNドキュメントで2003年6月25日に放映された『いのち だきしめて 牛飼いナオキと育子さん』も同じように、畜産農家の厳しさを小学生に伝えるものであり、必ずしも学校で飼育することよりも適した形態があることを教えてくれるものと言えよう。
考えることには成功だけど
確かに命や食に対して子どもたちに考えさせる、という意味ではアリだと思いますが、私は「ブタを飼って食べよう」という提案自体にえ?と思ってしまいました。農場とかで何匹もの動物達を食用に飼うのとは違うじゃないですか。小学校で1匹の動物を飼う=ペットのような存在になってしまうのはわかりきっているじゃないですか。ブタを飼おうというだけだったらまだわかるんですよ。だけど飼って食べようという提案をすること自体がねぇ。やっぱりちょっと残酷。
子どもたちがPちゃんと名づけた時も、星先生は一応反対します。それは先生は名前をつけちゃったら愛情がわいてしまうのがわかっていたから。だけど結局子どもたちに押されてPちゃんと名づけてしまうんですよ。この先生の中途半端さがどうにも納得いかなかったんです。このブタは最後には食べるんだから、食用なんだから、ということをちゃんと子どもたちにわからせてあげられてないじゃんって。
そして起きる「食べる」「食べない」論争。
このディベートシーンは、確かに言わされた台詞なわけではなく、子どもたちが自分達の言葉でしゃべっていることがわかります。うまくしゃべれていなかったり、何を言ってるのかよくわからなかったりもするのですが、逆にそこがよかったりもするんですよね。そしてPちゃんを食べる、食べない論争は白熱して、泣いちゃう子がいたり、つかみ合いの喧嘩が始まったり。Pちゃんを食べるなんて信じられない、可哀想という子もいれば、Pちゃんを飼い出してから豚肉が食べれなくなってしまった子がいたりもするし、どこで育ったかわからない豚肉は食べられるけど、Pちゃんの肉は食べられないという子もいます。
その間先生はずっと冷静でただ見守っているだけです。意見を述べることもない。ディベートにも参加しない。子どもたちに考えさせます。確かに子どもたちに考えさせるということは成功したかもしれない。でもこの先生がどこまで考えてブタを飼育して食べようと提案したのだろうか?と考えてしまいました。飼育して食べると言っておきながら、どうするかは子どもたちに結論を委ねるって、無責任じゃない?
それだったら、飼う時にきちんとみんなにちゃんと説明して、最後には食べることになるけどいいか、ということを全員にわからせた上で、みんなが理解してそれでも飼いたいと言ったら飼うべきじゃなかったのかなぁ。実際少なくとも半分の子はPちゃんを食用のブタではなくて、ペットとしてみちゃっていたわけだし。
そしてPちゃんを「食べる」「食べない」論争は、Pちゃんの面倒をみたいという3年生に引き継ぐか、食肉センターに送るか、という論争に変わっていきます。つまり「食べる」にしても食肉センターに送るという方法が取られるわけ。もうこの時点で最初に先生が提案した「育てて自分達で食べよう」というのからは離れちゃってますよね。
そして二分されたままの意見の最後の一票は星先生。この先生が1日考えた、というのも矛盾してるような気が。だって最初から先生は「食べる」って言ってたんだから、3年生に引き継ぐか、食肉センターか、だったら、考えるまでもなく食肉センターでしょ。なのになんで1日迷うわけ?結局先生の方針がしっかりしてなかったってことですよね。そして最後に先生が出した結論も、なんでそういう結論を出したのか説明するべきだったはず。少なくとも半数は先生の意見とは反対の意見を、持っていたわけでしょ。だったら先生がどうしてその結論を出したのか、ちゃんと説明してあげないと。先生が始めたことなんだから、それを教える義務があるはずなんじゃないかなぁ。
「食べる」「食べない」論争ですが、私は食用として飼うことを決めて飼いだしたなら「食べる」派です。でも何せこの場合、飼い出す時に子どもたちの意見をきちんと聞いているわけではないし、先生は食べるって言ってるけどそんなことしないんじゃないかと思って、ペットとして飼おうと思った子もいるじゃないかな、と思うんですよ。一度でもペットとして考えちゃったら、そりゃあ食べられないわな。たっぷり愛情注いで育てちゃったらそりゃ無理ですよ。そう思ってる子にこのブタを「食べる」というのはかなり酷な気がします。
子どもたちに真剣に「命」や「食」について考えさせることには成功したかもしれないけれども、ペットとしてPちゃんのことを見ていた子供の心は傷つけてしまっていたのではないかと心配になりました。子どもたちが、『人間が生きる為に、こうやって他の動物の大切な命をもらってるんだよ』、ということを素直に理解できていれば良いですが・・・。
そしてそれを理解した上でPちゃんを食べるというのが本当は一番良かったんではないかと思いますけどね。というか、先生はそういうことを教えたかったはずなんですよね。先生の方針がしっかりしていないから結局それをきちんと教えきれなかったような気がします。大切なブタの命をもらうんだから、わずかな肉も無駄にしてはいけないんだよ、ということを。
映画が面白いとかよかったとかそういうことを考える以前に、そうやっていろいろ考えてしまう映画でした。少なくとも感動作ではなかったですね。
一心同体って、究極
映画を見た次の日、あたしは生姜焼き定食を食べました。
「自分の体で咀嚼することは命を継いでいくこと」
子供のときじゃ無理だったと思うけど、今は「食べる」選択を理解できます。
今も昔もこうゆうことを考えるのはずっと大事なことだと思う。
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