劇場公開日 2010年1月23日

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「これは感覚的に楽しむべき作品。 アラの多い脚本でも、きちんと泣きの映画にさせてしまうところが、イ・ジェハン監督の演出の凄いところです。」サヨナライツカ 流山の小地蔵さんの映画レビュー(感想・評価)

4.0これは感覚的に楽しむべき作品。 アラの多い脚本でも、きちんと泣きの映画にさせてしまうところが、イ・ジェハン監督の演出の凄いところです。

2010年1月27日
PCから投稿
鑑賞方法:映画館

 タイ・バンコクに在住する好青年と呼ばれる豊が謎の美女・沓子と出会い、25年後に再会するまでを描く作品。
 タイトルは、妻となる光子が出版する詩集のタイトルから来ています。
 これは感覚的に楽しむべき作品。かなり突っ込みどころが多いので、筋を中心にストーリーの論理的な面が気になる人にはお勧めできません。
 アラの多い脚本でも、きちんと泣きの映画にさせてしまうところが、イ・ジェハン監督の演出の凄いところです。
 そしてイ・ジェハン監督が熱烈なファンだという中山美穂を年齢を感じさせない魅力で小悪魔のような女性として沓子を描いています。
 婚約している主人公の豊が一瞬にして、火宅の恋に落ちてしまうのも宜なるかなといった風情がたっぷり。けれども豊は罪の意識か、最後まで「愛している」って沓子には言えませんでした。その苦悩に満ちた姿を西島秀俊が好演しています。

 ただ小地蔵が、一番印象に残ったシーンが、光子と沓子の直接対決シーン。これはいきなりだったためとても印象に残りました。
 婚約者の不倫を知った婚約者の光子が、突然バンコクにいる沓子のところまで押しかけるというもの。なにも知らないように冷静に振る舞う光子の立ち振る舞いが逆に恐かったです。そして寝室に立ち入ろうとしたときやんわりと遮るところに沓子の女の意地が見え隠れしていました。その分、最後に放つ光子の台詞が強烈でした。
 光子を演じた石田ゆり子もなかなかの名演だったと思います。結局光子は25年間も、このことを隠し続け、夫の豊を支え続けるわけです。
 言いたいことをくぐっとかみ殺して、良妻賢母を演じ続けた光子の表情がよく出ていたと思います。そんな光子が綴った詩集『サヨナライツカ』は豊にとってとっても意味深な内容だったわけです。

 さらに、舞台となるバンコクの風景。特に舞台となるオリエンタルホテルの描写が大変美しく、いつまでも記憶に残り得る映像美となること請け合いです。
 ただ映画『プール』を見た人は、ロケ現場が重複しているので、ラストシーンでは、♪だんだん長くなぁってきていく~ 壁にのびる影♪という『プール』のテーマ曲が聞こえてくるかもしれませんよ(^^ゞ

 きっと見る人で評価ががらりと変わる作品となることでしょう。

 突っ込みどころとして、沓子が豊と一線を越えてしまうのが、余りに急なこと。ほぼ2度目の出会いで、宿泊先に沓子が押しかけていきエッチしてしまうのです。そのノリは、在りし日の日活ロマンポルノ『昼下がりの情事』かと思うほどでした。
 またVIPルームで暮らす沓子の生活実感がなくて、まるでおとぎ話の主人公なのですね。その辺の登場人物の描き込みという点で、弱い作品です。豊にしても航空機ビジネスでトップに立つという夢に向かって、出世していくわけです。豊のビジネス面では、中盤以降はかなり雑になっていきます。沓子が豊に惚れる重要な要素として豊の夢に惚れたことになっているだけに、もう少し触れて欲しいと思いました。

 さらに、後半の25年後のパートに入って、豊が沓子を見つけ出せなかったということになっています。でも沓子は自分が暮らしていたバンコクのホテルのVIP係となり、
豊が来ることをずっと待っていたのなら、すぐ見つかっていたはずです。
 まぁそういう突っ込みを気にする人は、見ない方がいいかもしれません。イ・ジェハン監督の凄いところは、そんな人でも泣かせてしまうところです。ラストでお得意の悲恋色が強くなると、『私の中の消しゴム』のように涙腺を直撃してしまうんですよ。この監督さんは。(中身は劇場で!)

 なお本作は元々2002年11月にフジテレビ製作、全国東宝系にて映画が公開される予定でした。行定勲の監督、坂本龍一の音楽、ワダエミの衣装、中山美穂と大沢たかおの主演というスタッフ・キャストだったそうです。
 ところが、クランクイン直前になり監督の行定が降板し、一度は白紙状態となっていたけれど5年ぶりに復活できたというのは、裏方のプロデューサーがかなり粘った結果でしょうね。『今度は愛妻家』がちょうど公開されています。その行定監督よりは、イ・ジェハン監督の方が本作にはあっていると思います。

●本作の伝えたいことと小地蔵のひとこと
 本作で語られる「愛」というものは、無常で儚いということ。いつか消えてしまうのだから、囚われてはいけないという貪愛としての「愛」が示されるのですね。
 詩集『サヨナライツカ』は語ります。「人間は死ぬとき、愛されたことを思い出す人と愛したことを思い出す人がいる。」と。
 ひとりは、ずっと人を愛して、ひとりはずっと人から愛される。このどっちかなんでしょうかねぇ。う~ん(^^ゞ、こういう発想は女性の人なら分かりやすいものなのでょうか。
 激しく求める豊が沓子にひとことも、「愛している」とは口することができませんでした。そのためそのひとことを伝えたくて、沓子は「愛する人」となり、豊は「愛される人」となったのです。
 でも小地蔵は、賽の河原にやってくる方を見ていて思うのです。愛というのは、どれだけ与えたか、奪ったかしかないのだと。
 二人の愛は、結局光子から奪い続けた愛なのです。そして貪愛だからこそ儚くなるのです。
 質実の愛は不滅です。無私の気持ちで与え続けたことは、魂のなかに刻印されて消滅しません。光子の凄いところは、25年間もふたりを無言で許し続けてきたことでした。
 空港で沓子で別れを告げたあと入れ替わるように登場した豊が、すがるように光子に抱きつくシーンでは、縒りが戻ったと言うよりも、心から許しを求めたものでしょう。
 母親のように豊を抱きしめる光子。人に許しを与えることは、与える愛を実践している姿を見ているようで、心が洗われます。
 本当の消えない愛というものは、与えていく中に息づくものでしょう。

流山の小地蔵