1978年、冬。のレビュー・感想・評価
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納得できないエンディング
一昔前の恋愛映画だなと、ある種のノスタルジーに浸りながら見ていたら、後半、想定外の展開に、しかも嫌な展開になってしまった。二人へのいじめ、さらには弟までがいじめの対象になってしまうとは。
それでも二人がハッピーエンドになったならまだ良かったが、主人公の突然の死によって強制的に物語を終わらせるのは一番安直な方法であり、私にとっては一番嫌いな結末である。チャン・イーモウ監督の「サンザシの樹の下で」にちょっと似ている。あの映画でも最後に主人公の恋人がなくなってしまう。あまりにも切なくて涙を誘うが、こちらはそのような感情には至らなかった。
李四平を拒絶していた雪雁だったが 工場の2人組に襲われたところを 李四平に救われ、 2人の距離は徐々に縮まっていく。
動画配信で映画「1978年、冬。」を見た。
劇場公開日:2008年6月14日
2007年製作/101分/中国・日本合作
原題:西幹道/The Western Trunk Line
配給:ワコー、グアパ・グアポ
沈佳妮
李杰
张登峰
赵海燕
杨新平
李继贤監督
時代は邦題の通り。
1978年、冬。だから44年前のこと。
山西省の田舎の町に北京からやって来た雪雁(沈佳妮)。
父親が反革命罪で労働改造に送られた。
背が高く、7頭身か8頭身あるような美しい娘だった。
隣家の李四平(李杰)が彼女に想いを寄せる。
李四平は工場に勤めているはずだが、
貨物鉄道で工場に出勤するふりをしながら
街の隠れ家的な空き家で
トランジスタラジオを組み立てたりしていた。
郵便物をポストから引き抜き中の現金を盗んだり、
工場から鉄や銅を盗み売ったりする尊法精神のない男だった。
李四平を拒絶していた雪雁だったが
工場の2人組に襲われたところを
李四平に救われ、
2人の距離は徐々に縮まっていく。
田舎町の人たちの日常を淡々と描く映画だが、
終盤に予想外の悲劇的なことが起こる。
よくこんな古臭い映像が撮れたなあと感心した。
街にはカラフルな色はなく
土やコンクリートの色ばかりで寒々としている。
人々の服は人民服のような紺や灰色の服ばかりで、
色彩がない。
撮影場所は映画村のようなセットだろうと思っていたが、
これは山西省の実在する街らしい。
中国の地方都市の生々しさを感じることができる
いい映画だった。
満足度は5点満点で5点☆☆☆☆☆です。
今、笑っていますか
視界を真っ白に覆い尽くす工場の煙、朝霧、そして雪。音も温度も伝わらないほど鬱屈とした地方都市の風景。山間の村落出身の自分にとっては痛いほどに見慣れた光景だ。そういう抑圧的で密閉された場所に長い間いると、次第に自分には何もできないんじゃないかという漠然とした諦念のようなものが生まれる。
スーピンとファントゥの兄弟もシュエンという都会から来た美しい少女の闖入がなければ、あるいは他の大多数の村人たちと同じように農村の日々を淡々と送っていたのかもしれない。しかしそれは結果論でしかない。出会いを恣意的に選別できる人生ならド田舎のせせこましいコミュニティで一生を過ごしたほうがよっぽどマシだ。
シュエンにあの手この手で近寄ろうとするスーピンの不器用さには思わず失笑してしまった。そこまでやるならもう直接声かけろよ!と思わなくもない。ファントゥが自分より先に彼女と仲良くなったことに嫉妬してファントゥの布団におねしょに見せかけた水を垂らすシーンもかなり小賢しかった。いやでも田舎にはこういう手合い多いのよ、自分もそうだけど。
唯一の精神的拠り所である父親に旅立たれてしまったシュエンがスーピンに身体を許すシーンには異様な緊張感があった。シュエンはスーピンの前で一枚一枚服を脱いでいく。さながら脱衣ショーを見ているときのような高揚感が否が応でも喚起されてしまう。しかしその最後に映し出される彼女の下着姿はいかにも幼く貧相な印象を我々に与える。まるで見てはいけないものを見てしまったかのような。
このあたりの撮り方は本当に紙一重で、撮りようによっては無意味なエロシーンに落ちぶれてしまう。だからこうやってちゃんと受け手を性欲から遠ざけてくれるのは本当に優しいと思う。
そして受け手の性欲から切り離された彼女の身体は、目の前にいるスーピンだけに開かれる。そしてスーピンもそれに応じる。ただ、身体を重ねたところでどこへ行けるでもなく、むしろそれによって村中から「不良」の烙印を押されるようになってしまった。
にしても2人の行為を見かけてしまったファントゥが廃墟から飛び出てくるシーンはあんまりにも勢いがよくてビビった。絶対頭ぶつけただろ今。というかこのガキの耐久値の高さはマジですごい。頭を板で思い切り叩いても10メートルくらい下の地面に全裸で落っこちてもピンピンしている。
しかし全体を通じて陰鬱な空気を漂わせる本作にあって、彼はまさに一縷の光芒であったと思う。そればかりか、終盤では自分をからかってくる相手に対して立ち向かえるだけの胆力をも身につけた。スーピンとシュエンの2人だけではどう転んでも過度に感傷めいた悲劇にしかならないだろうからファントゥの存在は必要不可欠だ。
映画の最後にスーピン亡き後もシュエンが西干道に居残って音楽教師を続けているという字幕が挿入されるが、これにはかなり切ないものを感じた。
北京育ちのシュエンにとって、スーピンの帰ってくる見込みが完全に絶たれ、なおかつ自分の悪評が流布されている西干道の街に居残り続けるというのはとても心苦しいことだと思う。それでも居残り続けたということは、やはり彼女もまた田舎という場が発する漠然たる諦念に飲み込まれてしまったということなのかもしれない。
彼女はそのとき笑っていたのだろうか。そう問いかける暇もなく映画は幕を閉じてしまった。お元気で。
静かにすぎる鬱屈した日常
文革が終わっても。
退屈な日々
貧しい日々
広い世界に踏み出すことができるのは想像力を持ち、服従はしない心を持つこと
ラジオがなり、世界が少し開いたが
層をなすいじめ 自由がなくてなんとも東アジア的
孤独な男女のささやかな交わり
兄と弟の葛藤と共闘
わずかな音とわずかな光で心を伝え合う
いつかこの列車でここを出て行くと心に誓う
でも乗れた列車はなんと出征列車
文革を生き延びた静かな父親、子どもたちに過剰な期待寄せる母親
兄の遺志を自ら継ぐだろう弟、、
激烈な国に振り回れ、その大国にちっぽけな存在として静かに小さくしかし強く生きる人たちの映画だった
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