「人間の不可解な愚かさ」実録・連合赤軍 あさま山荘への道程(みち) シンコさんの映画レビュー(感想・評価)
人間の不可解な愚かさ
3時間10分の大作ですが、全く長さを感じることなく、スクリーンに釘付けになりました。
“総括”という名のリンチの犠牲者は11人、8ヶ月の子を身ごもっていた女性もおり、その子を含めれば12人です。
一体、どうして人間はここまで狂気に走ってしまうのか?
赤軍派の森恒夫はかつて、一旦は組織から逃亡した人間でした。
再び戻ってきたとき、幹部たちは逮捕されて、森が主導者になっていったのです。
森は元々極めて臆病な人間だったのでしょう。
弱い人間ほど強がったり、力に訴えて、自制が効かず暴走してしまいます。
異常な思想に取りつかれ、閉塞した空間で、感覚が麻痺していき、自らが失墜したり被害者にならないため、追い詰められて、そうする以外なくなってしまうのではないでしょうか。
わずかでも人心を掴む知恵があったなら、こんな異様な事態には陥っていかなかったでしょう。
人は心で動くものであり、力でねじ伏せようとする者は、いずれ間違いなく破滅するのです。
僕も若いとき、創作によって社会を変えたいと思い、前衛的な思想に駆られていた時期がありました。
ある天才的な同人誌仲間と、現実離れした観念的な世界に生きていました。
20代のときは、現実社会の動かしがたい重みが分かりませんが、エネルギーと熱意はあり余り、過激に傾倒しがちです。
それで破綻して挫折するまで、どういう結果が待っているか気付くことはできないのです。
従って僕も、連合赤軍のアブノーマルな偏向が、全く理解できないわけではありません。
それからまた、記憶に新しいところでは、あの「オウム事件」があります。
信者は誰もが初めは、真理を求め、自分を成長させて、人のためになりたいと願っていたはずです。
ところが、オウム真理教というねじれた教義に染められ、マインドコントロールという物理的・強制的な手法もありましたが、通常は考えられない蛮行を犯すまでになって行ってしまいました。
純粋で高いものを求めている人間ほど、一歩間違えれば常識はずれの道を突き進んでしまうのかもしれません。
そして松本智津夫もまた、臆病な人間でした。
ヒトラーも然りです。
そういうことから考えれば、連合赤軍の暴挙は全く不可解なでき事ではなく、誰もがそうなる可能性を秘めているとも言えるでしょう。
若松監督は、それを我々に突きつけているのかもしれません。
翻って現代は、長期にわたる不況で先が見えず、自分の力で世の中を変える夢想をするどころか、自分自身の将来さえおぼつきません。
社会と関わることを避けて引きこもったり、心を病む若者が増えています。
30年ばかりの間に、日本は何と変わってしまったことでしょうか。
だがそんな社会でも、何か特殊な空間に取り込まれると、時代によって形は変わっても、同じような過ちを犯す可能性が、人間の心の病的な部分には潜んでいるのかもしれません。
あと何年かしたら、今度はオウム事件が映画化されるときが来るでしょう。
そのとき我々は、何を見せつけられることになるのでしょうか。
私も、この映画をみましたがまったく違った感想です。
この映画は、若松監督があの時代を我流で描いてつくったまったく現実とは違う物語作品だと思います。
映画をみて、歴史的な事件となりつつある連合赤軍事件を知ったとは絶対思わないほうが良いと思います。
つまり「三丁目の夕日」をみても、ぜったいに昭和30年代を知り得ないように、この映画をみて連合赤軍が理解できたとはぜったいに思わない事が、死んでいった人たちに対する最低の礼儀だと思います。
若松監督が、観客に突きつけたいものがあるのならば独自に虚構作品をオリジナルな脚本でつくれば良いのです。社会的に知られた大事件を、個人が恣意的に解釈して描きかえることはわたしには卑怯だと思われました。
『突入せよ!あさま山荘事件』のウィキペディアにある「映画監督の若松孝二は本作を鑑賞の際、「権力側からの視点でしか描いていない」と私費を投じ『実録・連合赤軍 あさま山荘への道程』を連合赤軍の当事者の証言に基づき、主に反体制側の観点で映画化した」というお話自体が、政治宣伝だと私は感じます。