シークレット・サンシャインのレビュー・感想・評価
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鬱を扱った映画の中でも飛び抜けた大傑作
鬱というトンネルを抜けるまでの長い道のりを描いた映画は少なくないが、中でも飛び抜けて過酷で切実で乾いたユーモアまであって、なおかつ説得力があるのが本作ではないか。しかもトンネルの先に見いだせそうな希望があまりにもか細そくてほのかであり、ここまで映画と付き合ってそれか、それしかないのかと絶望しそうになると同時に、イ・チャンドンはなんと信頼に足る映画作家かと感動もしてしまう。自分が知る限りではイ・チャンドンの最高傑作だし、鬱を扱った映画の中でも絶対にヌルいとは言わせない金字塔だと思っている。
救いがない・・・
亡き夫の生まれ故郷『 密陽 』( ミリャン )を再出発の地として息子と二人移り住む、シングルマザーのシネをチョン・ドヨンが熱演。
明るく生きようと頑張るシネに好意を寄せる人の良いジョンチャンをソン・ガンホが好演。
彼が得意とする ″ 憎めない、いい奴 ″ ジョンチャンの、温かみのあるユーモラスな表情、ふと漏らす台詞、絶妙の間、ソン・ガンホの演技に魅せられた。
映画館での鑑賞
痺れた
良かった。
まず緊迫感のあるシーン作りが上手い。
特に、面会シーンと、終盤の美容院シーン。
面会のシーンでは、度肝抜かれた。
こちらが神への信仰で一時的に障壁を乗り越えて、
相手を許すのだ、と思ったらあの仕打ち。
相手も、神への信仰によって、神から許しを得たのだと。
神の裏切りに震える主人公の表情が忘れられない。
(そして後ろにいる気づいていないソンガンホ…)
あと、美容院のシーン。
犯人の娘と偶然にも対面してしまう。
この瞬間、2人だけの間に何かが流れる。
2人以外は気付いていない交流。
ここから一気に緊張感が増す。
娘はやがて、目に涙を溜める。
2シーンともやや都合いい偶然がある事はあるのだが、
ストーリー展開として、素晴らしいと思った。
彼女が子供を失った後で、宗教に辿り着くのも納得だった。
最初は馬鹿馬鹿しくみていたそれも、
何かに縋るしかなくなった状況下で様々な事を試みて、辿り着く結論なのならば、それもくだらない事などとは言い切れない。
ラストシーンも本当に陽射しの様な暖かさが残る。
美容院で娘から髪を切られることを拒否する主人公。
つまり、娘を「許すこと」ができなかった。
(この後に、地元の服屋の女主人と会って
笑い合うのがとてもとても良かった…)
許すことが出来なかった主人公は、
庭で自ら自分の髪の毛を切る。
「許せない」ことを認めて、正直な自分で生きるのだ。
そして、「秘密の陽射し」が差し込む、
「許さない」ことで彼女は自分のままで居続けることが出来るのだ。
それこそがまさに、彼女の中のシークレットサンシャインでは無いだろうか。
うーん、ちょっと。
世の中や信仰の不条理はあれど、
感じる気になれば、あるいは感じる力をはぐくめたら
自分の周りにはひだまりのように
あたたかな救いもあるものだ。
って、事がたぶん言いたいのですよね?
こんなに映画館を出るとき顔がうつむいてしまう映画は久しぶり。
最後にいくらか希望を感じさせなくも無いけれど。
でもなあ。
映画に真面目に人生とか哲学を感じたい人は好きかもしれません。
出ている役者さんたちの演技はほんとにすばらしいと思います。
素晴らしいからこそ観ているのが本当にキツカッタともいえます。
まあまあだった
性格のあんまりよくないママさんが、金持ち風を吹かせたために子どもを殺されて、宗教に救われたと思ったら、神様が犯人の方をむしろ救っていたために、自分が救われない気持ちになって頭が狂う。そんなどうしようもない話で、ソン・ガンホにも、あんな嫌な女やめとけよとしか思えない。そうは言っても子どもが死んじゃうのはつらい。
人間のどうしようもなさを描いているのだろうけど、長くてつらい。もっと感動したかった。
凄まじかった
・何をすれば、何をしたら、シネを救う事ができるのか、が全く想像がつかなくて、この状況設定の秀逸さが凄まじかった。軽口の冗談が原因で息子が誘拐殺人にあった後に救いを求めて信じてなかった宗教に入って、穏やかになれたかと思ったら犯人も救われていた事をきっかけに、唯一の救いだった宗教にも絶望した状況の凄惨さがとてつもなくてたまらなかった。
・好きになるけど言えずにいるなかで邪険にされても、支えになりたいという姿勢が痛々しかったのと、どうしてあんなに冷淡にされて付き合ってられるな、と感心した。また、あぁ、この人、シネのとこ好きなんだなってわかる感じが何だかリアルだった。
・集会を邪魔するために流したCDを何故万引きしようとしたのかが少し気になった。結果、買ったのか、こんな事に金使いたくないとかだったのか。流した曲の歌詞が良かった。
・最初に入ったブティックでインテリアの指摘をするシネの空気読めない感が怖かった。ブティックの人も初対面で何様と陰口を叩いてたのが、いつの間にか仲良くなってたのが謎だった。ラストで冒頭の意見を取り入れてたのも、何で?と思った。
赦すということ
罪を赦す事で人は神に一歩近づき
神と一体化できると信じたシネは
自分の息子を誘拐し殺した相手を赦すと伝えに留置所まで行くが、犯人はすでに留置所で宗教に目覚め、
神に赦され穏やかに生活していた。
自分の子供を殺した相手を勝手に赦した神に裏切られた思いのシネは
自分も罪を犯し、それでも赦すのかと神に問いかける。
重いテーマで救いはないのだけれどシネに下心ありで近づいたキムさんがいつもヌケた笑いで緊張感を解き
また、冷たくされても常に静かに寄り添う姿に恋愛感情を超えた愛を感じ、ラストのシーンでは風に飛ばされる髪と道端の日差し、草の影にも優しい神の眼差しを感じさせた。
スコセッシの『沈黙』にも似た
神はいくら問いかけても何も答えてくれないが
沈黙のなかに答えがある、というメッセージを感じた。
シネの演技に全てがかけられた作品であり
それに見事に答え演じきった女優に感服。
これは、宗教を信仰している人にこそ、観て欲しい映画なのではないだろうか・・・。
これは、宗教を信仰している人にこそ、見てほしい映画ではないだろうか?
最愛の息子が誘拐され、無残に殺された。それでも、この主人公は涙一つ、流すことはできない。
それは、亡き夫が浮気の果てに死んでしまっても、決して認めず、自分は愛されていた、不幸な身などであるはずがない。だからそんな夫の遺志に従って、彼の故郷で暮らすなら、より幸せになれるに違いない。そう思いこんでいた彼女にとって、仕方のないことだった。
韓国の多くの人たちは、生き辛い人生を生きている。だから夢のように美しく、どんな苦難も乗り越える切実な愛を描くドラマや映画に夢中になる。
だから、この主人公は、韓国では特別な人ではないのだろう。
人間は、どんなに強く願っても、幻想で満たされることはできない。しかし彼女は現実で涙を流すことはなくても、幻想じみた宗教の教導の場では、激しい嗚咽を叫ぶことが出来るのだ。
彼女はたちまち、「神様との恋愛」に夢中になり、自分を幸福だと思いこむ。しかし夫の裏切りとは違い、子供を失った孤独で凄惨な現実から解放されることは、決してできない。
子供を殺した犯人の娘は、どこかそんな主人公に似ている。逃れられない理不尽な苦痛にさいなまれて生きている。そんな姿を垣間見た彼女は決意する。犯人を自分が許すことができれば、この苦痛から逃れることが出来るのではないかと。
しかし犯人は、自分が許さなくとも、信仰によって既に許され、穏やかな日常を生きていた。
自分だけのものだと思っていた幻想が、他者のものでもあったと知ったときの憤り。信仰など、神の愛など嘘だと叫び続けたその果てに待っていたのは、生きたいと思う自分の人生も嘘だという当然の結論だった。しかし幻想に慣れた彼女がそんな苦痛を受け入れられるはずもない。
助けを求め生き延びた彼女。やがて精神病院から退院する日を迎える。
そんな彼女にずっと振り回され続けてきたこの『蜜陽』という町に住む男の車には十字架がかけられている。男は言う、「最初は彼女の為にと通っていたけれど、今じゃ教会に行かないとなんだか寂しいんですよ」
相変わらず男にそっけなく、わがままに美容院に行きたいと言う彼女。そこで待っていたのは、犯人の娘。学校もやめ、少年院で覚えた理髪の腕一つで社会に受け入れられて生きていた。
よりによって退院の日に、これを見せられる。天を睨むしかない主人公。
町にもどれば、彼女の善意の助言を変わり者の世迷言のようにしか見なかった洋服店の店主が、助言通りにしたら、言う通りだった、ぜひお礼をしたい、と声をかけてくる。
得体のしれない天のまなざしが気に入らず美容院を飛び出した主人公は、仕方なく自宅で髪を切る。追ってきた男は、笑いながら気恥ずかしく鏡を持って、その手伝いをする。
切り取られた髪の毛は、風にあおられ、温かい日差しの中に吹き寄せられていく。
あーぁ、だから嫌なんだよ、宗教って~、笑。月並みに、そう思うだけだろうか?
もし彼女が神様への恋愛を知らなかったなら、どうだったろうか?犯人を許せたろうか?その娘の苦しみに気付けたろうか?自分自身がウソだらけの生き方をしていることに気付けたろうか?彼女に付きまとう男は、彼女の身勝手やわがままに愛想をつかさずにいられただろうか?町の人たちは狂人同然だった彼女に素直に感謝出来ただろうか?
『幻想』というものは、人間にとって単なる絵空事ではない。
本当に美しい心を持っているから、幻想というものは生まれてくる。ただ現実の中で、その美しい心を実らせることができないだけだ。
彼女は曲がりなりにも神を信じている。信じざるを得ないほど、その心が美しいからだとも言える。
だから本当はすべてわかっているのかもしれない。現実に汚された心を、神様は苦労して洗い清め、それでも笑って生きていけるように、心を砕いていてくれるのだと。
そう、思うのと、思わないのとでは、180度、風景が違う。
ラストシーン。薄汚い、ホースと、洗濯板と、空の洗剤と、濡れた赤土。
そんなものに温かく、力強く降り注ぐ日差しに、心を動かされたかどうかで、この映画を観た価値は決まる。
韓国の映画は俗っぽくて、軽薄で汚い。そんな美しくは無い物に、日本人は容易に心を動かされたりはしないかもしれない。だが、ここには誰かを守りたいという、偽りのない愛、そして人間らしい温かいまなざしがあることを、見逃さないでほしい。
主人公はどうしたかったのか?神様の正体と宗教の意義を含めて考えてみました。
主人公のチョン・ドヨンの演技がすごかったとか、キム社長役のソン・ガンホがユル・イイ奴で良かったとか、一本の映画としてイイ映画だったと思います。それは間違いないですね。
でもさらに、「神様ってなんだ」とか「宗教ってなんだ」とか、「赦しってなんだ」っていう命題をグリグリと突きつけられる作品で、考え始めたらえんえん考えちゃうタイプの映画でした。
えんえん考えて、とりあえず至った解釈は、
「神様は直接的には助けてくれない」という真理を主人公は誤解して、アテが外れてイジケていたけど、実は主人公が気付いてないところでちゃんと救われていたというお話です。
主人公が誘拐殺人事件で我が子を失って、心のダメージを負いました。どれ程のものか想像すると、子を持つ親としては胸が痛いですが、仮にその損失を100とします。
損失100を復讐100で直接的に回収することは、犯人逮捕によって不可能になりました。
でも損失100をひとりの個人が抱えるには、あまりにキツイようです。
損失100は、心の中では怒り100になったり悲しみ100になったり、悔恨100になったりと暴れ回ります。このままでは心が壊れてしまうので、いったん損失100を「債権譲渡」みたいなカタチで宗教に委ねることにします。
宗教に委ねた100の空白は、「神の愛」とか「救済」で補填されることになりました。でも主人公が思っていたよりもずっとゆっくり、少しずつです。
待ちきれない主人公は、「犯人を許すという善行」によって、その100を一気に取り戻そうとしました。犯人が反省していれば「犯人の懺悔や後悔100」を、犯人が反省していなければ「犯人の囚われの苦しみ100」を目の当たりにすることで溜飲を下げることができたでしょう。どちらにしてもそれを“主人公が”許すということで、優越感100なのか、自己充足100なのか、なんらかのカタチで損失100を回収できると、漠然なりとも期待したのではないでしょうか。
ところが刑務所の面会の場面。あの展開はビックリしましたね。そこをヤマ場にして映画を終わってもいいんじゃないかと思いました。
なんと犯人は、すでに“神様が”許していたのです。「逮捕されてから入信して神に許しを乞ううちに、自分は神に許されたのです」としゃあしゃあと言いやがるわけです。
今日“私が”なんらかのカタチで回収するはずだった100を、こともあろうに“犯人が”「神の許し100」というカタチで手に入れてるってことです。
主人公にしてみれば、「私が預けた債権を神様が勝手にチャラにしやがった。裏切られた!」って気持ちになりますね。そうすると、主人公が回収し損なった債権100の取り立て先は、犯人から神様に交替するわけです。
神様から何を取り立てるか。
主人公のとった行動は、例えば「神の御前で」CDを万引きしてやる!とか、
宗教講演のBGMを、万引きしたCDにすり替えて講演を妨害してやる!とか、
聖人を気取った信者を誘惑して、姦淫の罪を犯させてやる!とか、
自分に純粋に尽くしてくれるキム社長の愛を、下世話な性欲で汚してやる!とか、
ついには自傷行為してやる(死んでやる?)!とかでしたね。
主人公はそういう行動によって、神の権威の失墜100を意図したのでしょうか?自分を裏切った神を逆に100裏切り返してバランスを取ろうとしたのでしょうか?
たぶんそうじゃないですよね。
こういう行動って「自分を捨てた男への当て付け」であったり、「自分を愛してくれなかった親への当てこすり」によくあるパターンじゃないですか。
つまりスネて甘えてるってことです。「こんな私を救ってみせてよ!」ってことなんですけど、それらの行動はどれもこれも途中で失敗します。
万引きしても店先で捕まるし、宗教講演は続いていくし、誘惑は未遂で終わるし、キム社長は純愛を貫くし、自分は病院から退院してきちゃうわけです。
退院ついでに美容院に寄れば、そこの美容師は犯人の娘で、その娘は、主人公が罰を与えたわけでもないのに、ちゃっかり神様から試練を与えられてそれを乗り越えつつあったりします。
捉えようによっては、何から何まで主人公の思うようにはなりませんでしたが、
それこそが「神の愛」であり「救済」であったことに主人公は気づきません。
主人公はさんざん神様に毒吐きますが、結果的には報復殺人者にならなかったし、(神を恨むことで)人を恨まずに済んだし、自分を汚したり殺したりせずに済みました。神様の仕事としてはグッジョブな部類に入る方のお話だったと思います。
神様は実体を持たないので、人を直接的に救うことはできません。実体がないのを擬人化したり、偶像化したりするので神様や宗教の話は往々にしてややこしくなってしまいます。
じゃあ神様とははなんだって話は、この映画でいうところではキム社長であり、店のインテリアをアドバイス通りに変えたおばさんです。
現実社会に存在する神様は、ピカピカの法衣を着ているわけでも、超能力者的なキャラクターを備えているわけでもなく、そのへんで暮らしにまみれて何気に支えてくれるのです。
世界全体を余すこと無く照らしてくれる天照大御神なんてのは、突き詰めていけば単なる「太陽の擬人化」です。太陽を科学的に「惑星」として認識するのであれば、天照大御神という神様は必要ありません。
でも自分の人生で足元がおぼつかない時、そこをピンポイントに照らしてくれる誰かがいるならば、その人をこそ神様として有難がればいいし、誰かが困ったときにその足元を照らしてあげられるなら、その人は誰かにとっての神様になるわけです。
「じゃあ、困ったときはお互い様ってことで、助け合ったほうが人類全体としては生きやすいよね。」っていう知恵とか仕組みを「宗教」って呼ぶんだと思うんです。
美容院には行き損なった。自分で髪を切るのはやりにくい。でも鏡をいい角度で持っててくれる人がいる。その程度の、ちょっとした暖かい「日差し」が、神様の正体ですって話だったんじゃないかなと思いました。
宗教の力
心に深い傷を持った女性が宗教により追い詰められてしまった。結局最後に人を救うのは人ってことなのかな。宗教の効用と限界を描写してると解釈しました。宗教は人により幸せな結末を迎えらる場合もあるだろうし、より不幸になる場合もあるんだろうと思います。見ごたえがありました。宗教にはまるのはやっ!とは思いましたが。
テンポ悪いのでちょっと眠い
キリスト教を信じて救われるってことをより近い文化圏の視点で理解できるかと期待したけどまったくわかんない。むしろそれを否定してるのかなと。
面会に行ったあとキレちゃう気持ちはなんかわかるし、独特の人間関係が面白いから観て損はないけど個人的にはキム・ギドクの宗教観の方が共感できる。
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